灯火を織る人





「あ、わたし向こうのATMコーナーでお金下ろして来てもいい?」


 視界に入った看板を指し、陣平を見る。陣平は頷いてから、名前とは反対方向を指した。

 
「ああ。そんじゃ俺ちょっとあっち見てるわ、最近立て続けに靴下に穴開いちまってよ」
「ふふ、そうなの? そしたらお金下ろしたら追い掛けるね」
「おー」
「一個くらいヘンテコなの選びたいから、買わないで待っててね」
「いや何買わす気だよ⋯⋯即買いしとくわ」
「えー」
「えー、じゃねえの。早く行ってこい」
「はあい」


 繋いでいた手を離し、それぞれ正反対の方向に歩き出す。叶いはしなかったが、陣平がキャラクター物の靴下を履いているところを想像してひとり笑みを浮かべていた、その時だった。

 休日のショッピングモールには酷く不釣り合いな悲鳴と。ざわりとした喧騒が響いたのは。


「どっ、泥棒ー! 泥棒です! 誰か!」


 女性の声だった。
 少なくとも初老は越えていそうな女性の声が、名前が足を向けていたATMコーナーから聞こえてきたのだ。

 
「えっ?! じじ陣平くん泥棒だって! ⋯⋯って居ないんだった!」


 焦った挙句ひとり言をかましていた自分を恥じる暇もなく、ATMコーナーから飛び出してきた大柄な人影を認めて後退る。男だ。男がこちらに向かって走ってくる。男の脇に抱えられている女物の鞄が恐らく盗み取ったものであり、下ろされたばかりの現金が入っているのだろう。

 犯罪率が高い事に定評のあるこの街ではあるが、幸いにも名前はこれまで事件に巻き込まれたことはなかった。自分とは関係のない話だと思っていた。それが、まさか。白昼堂々、こんなに人気の多い場所で窃盗が起きるなんて。

 ──どうしよう。

 この一言だけが脳裏を駆ける。
 よくテレビで見るように、例えば犯人に足を掛けて転ばせたり、背負い投げをしたり、そういう咄嗟の機転が利けば良かったのだろうが、生憎名前に武道の嗜みはない。名前にある選択肢といえば、周囲の皆もそうしているように、真っ直ぐに突き進んでくる男を避ける事くらいだ。

 しかし、せめて。

 捕らえる事など到底出来はしないが、せめて少しでも痛手を与えられたら。と、わたわた周囲を見回す。すぐ脇のエレベーター乗り場の前に、ショッピングカートが六、七台置かれているのが目に入る。考えるより先に身体が動いていた。
 
 ええいままよ!
 
 と繋がったままのカート全てを男目掛けてぶっ飛ばす。微力ながらも逃走の邪魔になれば、と放ったカートは、男が通過するギリギリ手前で通路を塞ぐ形となり、全力で走っていたのであろう男はその速度を維持したままカートの列にぶつかった。ガッシャン! とけたたましい音がして。そして男は真後ろに転ぶ。


「え⋯⋯」
 

 目の前で起こった一部始終に最も驚いたのは、名前だった。

 こんな場所で堂々と窃盗に及ぶような犯人が、一般市民が適当に撃ったショッピングカート弾如きにぶつかり、更にはすっ転ぶなど、一体誰が想像出来ようか。そこは華麗なるジャンプでカートを飛び越え、颯爽と逃げるところではないのか。なんて鈍くさい犯人なんだ。何故その身体能力で窃盗など働けたのか。

 こうなってしまうと、いよいよどうしたらいいか分からないではないか。

 だって、目の前には。

 
「テメェ⋯⋯何しやがんだ⋯⋯」
「っ、」


 顳顬に青筋を幾つも立てた犯人が、名前に向かって歩いて来るのだ。一歩。二歩と。その歩みに確かな“怒り”を乗せて、名前に近付いてくる。

 この場から離れなければと思うのに。ひとたび対峙してしまうと、足が竦んでしまった。こんなことなら護身術のひとつやふたつ習っておけばよかったな、などと露ほども役に立たない事は考えられるのに、この場を切り抜ける方法は考えられない。思考が自分の意志とは無関係に動く。変に麻痺してしまったかのようだ。

 近付いてきた男が喋る。どこか呂律が回っていない。きついアルコールの匂いがする。
 

「俺ァ金が必要なんだよ、何にも不自由なさそうな奴が邪魔すンなゴルァ! 邪魔するってんならお前を──、ッ?!」


 男が拳を振り翳した、その瞬間だった。

 ぐしゃり。目の前に聳えていたはずの男の身体が潰されるように地に張り付き、名前は瞠目する。眼前では腕を後ろに捩り上げられた男が、その痛みに耐え兼ね悲鳴を上げている。
 
 
「じ⋯⋯⋯⋯んぺい、くん、だ」
 

 呆然と呟く。陣平だった。陣平が男を取り押さえていた。

 騒ぎを聞きつけて戻ってきてくれたのだろうか。容易く男を制圧する陣平の姿に瞬く間に安堵が満ち、力が抜け、その場にへなりと座り込む。
 
 人体にはどこか不動化の要所があるのだろう。陣平の手により全く身動きの出来なくなった男は、すぐに駆け付けた警備員に拘束され、何処かへ連れて行かれた。間もなく警察も到着するという。

 ちなみに後の取り調べで分かったことを後日陣平から伝え聞くことになるのだが、犯人の男は自らの不倫が原因で離婚しており、その噂が広まった影響で勤めていた会社もクビになり、その後定職にも就かず酒とギャンブルに溺れる生活をしていたそうだ。加えて元妻への慰謝料と子どもの養育費。困窮し切羽詰まった男は、ATMからそれなりの額を引き落としたように見えた婦人を狙ったのだという。泣く子も黙るクズっぷりである。

 閑話休題。
 
 連行される男を見届けた陣平が、振り返る。険しい表情だった。陣平のこんな顔は初めて見る。言いたい事はたくさんあるのに、口を開くことが出来ない。だって、これは、物凄く。

 ──怒っている。