灯火を織る人





 早足に近付いてきた陣平は、名前の目の前で歩を止める。座り込んだままの名前を見下ろして、すうっと大きく息を吸い、その直後。


「危ねえ真似すんな馬ッ鹿野郎!!!」
「っ?!」


 雷のような声が落ちる。名前は反射的に身を竦め、硬く目を瞑っていた。

 
「一歩間違えればオメーが襲われてたんだぞ! こんなとこで正義感発揮すんな馬鹿!」

 
 ──正義感。

 恐る恐る目を開けながら、その単語を頭の中で繰り返す。正義感。そう、なのだろうか。分からない。何かをしなければと思ったのは事実であるし、その原動力の根幹を暴けば“正義感”と名の付く道徳が植わさっているのかもしれない。しかしそれを掲げて行動した訳ではない。大義名分などなかったに等しい。どちらかと言うと身体が勝手に動いていたのだ。


「分かってんのか?! 金なんかどーにでもなんだ! 何よりもまず自分の身を守れ! 何よりもオメーを!!」

 
 見たことのない剣幕だった。こんなふうに全身を懸けた誰かの大声を浴びたのも、初めてだった。


「⋯⋯ご、⋯⋯めんなさ⋯⋯」


 気付けば涙が滲んでいた。
 滲む視界に困惑する。何の涙なのかが分からない。遅れてやってきた恐怖なのか。陣平の言葉が刺さったからなのか。自分が不甲斐ないからなのか。分からないが、泣いてはいけない気がして唇を強く噛む。俯く。

 そんな折、一人の女性の声が名前と陣平に語り掛ける。


「ああ、ああ、お兄さん、そんなに怒らないであげて。鞄を取られた私が悪いんですから⋯⋯」


 その声にのろりと顔を上げる。
 ひったくり被害に遭った老年の女性が、心配そうに名前と陣平を見ていた。身なりや口調、雰囲気に、上品な佇まいが宿っている。


「お嬢さん、立てますか?」
「あ⋯⋯はい」
 

 近くのベンチに座るよう促される。陣平はぷいとそっぽを向き、「俺、警察と話してくるわ」と店の奥に向かってしまった。それを複雑な気持ちで見遣ってから、隣の女性に話し掛ける。

 
「あの、お怪我なんかは⋯⋯」
「いいえ、私は何も。怖い思いさせてごめんなさいね。どうもありがとうございます。⋯⋯これ、この鞄、先に亡くした夫が最後にくれたプレゼントでね、宝物だったんです。中身は大した物は入っていないのだけれど⋯⋯だから、本当にどうもありがとう」
「そう、でしたか⋯⋯良かったです」


 ぽつりと返した名前に微笑み、女性は少し首を傾げるようにして言う。

 
「貴女はとてもお強いのねえ」
「⋯⋯え?」
「ああ、ええ、そうじゃなくて、心がね。優しい強さをお持ちなのねえ」
「⋯⋯?」
「いつも誰かを守って生きていないと、咄嗟に身体は動かないんですよ」


 誰かを、守って。
 誰を、守って?

 女性の言葉に、名前の視線が彷徨う。
 それは、亡くした母のことなのか。父のことなのか。弟のことなのか。家族を守り、家族に守られながら懸命に生きてきた日々。それがこの女性の思い出を守る力になってくれたのだろうか。もしそうならば。

 ──誇らしい。

 あたたかな言葉に浮かびそうになる涙を、眉根を寄せて堪える。女性はやはり微笑んで、陣平の姿が見えなくなった方向へと視線を移した。

 
「あの方は⋯⋯貴女のことがとても大切なのね」
「──⋯⋯」

 
 分かっている。
 先程の陣平の言葉は全て、名前を案じて言ってくれたものだ。陣平たちのように訓練を受けたわけでも、大の男一人を倒せる力があるわけでもない。何の力もないくせに無茶な事をした。酷く心配を掛けてしまったのだ。


「そうだ、何かお礼をさせて頂きたいのだけれど、お食事なんかは⋯⋯」
「えっ、いえ、そんなこと⋯⋯ご丁寧にありがとうございます。でもごめんなさい、ご遠慮します」
「そう⋯⋯あ、そうだわ、それなら⋯⋯あったあった」
「?」


 ごそごそと鞄を漁った女性は、財布の中から二枚の券を取り出した。それを無理矢理名前に握らせ、先程までの穏やかな笑みとは一変、有無を言わさぬ笑顔を向けてくる。

 
「これ、私がよく行くお気に入りの喫茶店のお食事券なの。良かったら彼と行ってみてくださいね。何を食べても美味しいのよ」
「で、でも」
「これくらい受け取って。ボランティアだと思って。ね?」


 ぎゅ、と名前の手を握る皺の刻まれた両手があたたかくて。名前は観念して目尻を下げる。

 
「⋯⋯ふふ、ありがとうございます」
「ポアロっていう喫茶店なのよ。行ったことはあるかしら?」
「いいえ。可愛いお名前のお店ですね」


 何が特に美味しいですか、とお勧めのメニューを聞こうとしたその時、戻ってきた陣平が口を開く。
 

「おいばーさん、話終わったか? そろそろそいつ返して欲しいんだけどよ」
「ちょっ、陣平くん! 呼び方!」


 初対面のこのお上品なご婦人に向かって「ばーさん」だなんて。どういうメンタリティだ。しかし窘める名前を他所に、女性は穏やかに頷きながら立ち上がる。

 
「ええ、ええ、すぐに。お兄さんも本当にありがとうございました」
「おう。今後は気を付けろよ」


 丁寧にお辞儀をして去っていく小さな背中に、お辞儀をし返す。それから陣平を見上げる。しかし陣平は名前を見ないまま、ぶっきらぼうに呟いた。
  

「俺らも帰るぞ」
「え⋯⋯でもこれから映画⋯⋯」


 確か映画のチケットは払い戻しが出来ないことが多いはずだ。陣平だって楽しみだと言っていた話題作なのに。

 
「いい。今日はもう止めだ」
「あ、まって、陣平く⋯⋯」
 

 しかしそんなことを言える雰囲気ではとてもなかった。既に歩き出している陣平を慌てて追う。隣に並ぶ。いつもであれば名前に合わせてくれるペースが、一向に緩む気配を見せない。半ば小走りで懸命に歩く。隣にいるのに。どこか遠くに行ってしまったようで。

 酷く、──心細い。

 
「⋯⋯陣平くん、あの」
「家着くまで話し掛けんな」
「⋯⋯ご、めん。なさい」


 ぴしゃりと言われ、口を閉ざす。
 
 怒っている。それはもう、物凄く怒っている。人より怒っている時間が長かったり怒りの閾値が低めな陣平ではあるが、今のこの怒りは、全くの別物なのだと分かる。それが分かるからこそ、どうしたら良いのかが分からない。

 名前の取った身勝手な行動が、陣平の“大切な何か”に触れてしまったのであろう。だから謝りたい。感謝も伝えたい。けれど。あんなに凍てついた雰囲気で「話し掛けるな」と言われてなお、食い下がれる強さを持ってはいない。

 どうしたら陣平はまた、名前を見てくれるのだろう。
 
 一言も喋らない陣平の隣。

 沈黙さえ愛おしかったはずのこの時間が、今はどうだ。こんなに重たく痛い沈黙はかつてあっただろうか。

 いつでも繋いでいいと言ってくれた手が、酷く遠く感じる。手を伸ばせば触れられるのに。伸ばすことが出来ない。

 泣いてはいけない。泣いてはいけないのに。目の縁からふつりと千切れてしまった涙の粒が、俯いた頬を静かに濡らした。