灯火を織る人





 ドアノブに手を掛ける。普段の百倍は重たく感じるドアを開ける。道中、ずっと考えていた。家に着いたら一体何をどう話せば良いだろうかと。

 ここまで陣平が怒っている理由。名前が触れてしまった“陣平の大切な何か”を、次こそは傷付けないように。一緒に守れるように。名前にもその存在を教えてくれるだろうか。許してくれるだろうか。

 ドアよりも重たい心を抱えて玄関に入る。その刹那のことだった。

 
「⋯⋯っ、⋯⋯?」

 
 名前は目を見開き、息を詰めた。微かな煙草の匂い。強かな弾力のある筋肉の肌触り。狂おしいほど愛おしいぬくもり。
 
 陣平に、抱き締められていた。
 
 死ぬ程怒っていると思っていたのに、今度は死ぬ程強く抱き締められている。名前は困惑し、その腕の中で身体を固くした。

 戸惑いが顕な名前の体躯を、陣平はきつく抱き締める。深く息を吸うと名前の匂いが肺腑に満ちて、漸く陣平の心を落ち着かせた。

 陣平の胸を、複雑な感情が占めている。

 知っていたではないか。名前が他人のために自分を顧みない女であることくらい。こういうやつだから。こういうところも。陣平は好ましく思っている。

 しかしそうそう綺麗事では済まないのだ、現実は。万に一つの“もしも”を考えることを訓練されているが故に、あの一瞬──犯人の血走った目が名前を捉えたあの瞬間──、脳裏を“最悪”がよぎった。

 もし犯人が刃物を持っていたら。もしもっと凶暴な性格だったら。もし陣平が間に合っていなかったら。やっとこの手で掴んだ名前の体温が、この手をすり抜けてしまったかもしれない。それは想像するだけで到底受け入れる事の出来ない未来だった。
 
 自分以外の誰かを守る。
 
 それを陣平たちは日々訓練しているはずであるし、それが一般的には“善し”とされる倫理であると理解もしている。しかしこと名前に関しては、真逆のことを思ったのだ。
 
 他人のために自分を顧みないことなど望まない。そんなに出来た人間じゃなくていい。陣平の隣にいてくれればいい。他人を助けることよりも、名前を守って生きていてほしい。

 そう、思った。

 それを上手く処理出来ず、言葉に出来ず、気付けば荒い口調で大声を出してしまっていた。気付いていた。名前がずっと泣きそうな顔をしながら懸命に隣を歩いていることに。名前を萎縮させるつもりなどなかった。責めるつもりもなかった。それなのに、どうしてこうきつく詰るような口調になってしまうのだろう。どうして素直になれず、意地を張ってしまうのだろう。

 名前を抱き締めながら、溜め息を零す。

 こう言えていればよかった。怖かったな。頑張ったな。けど、お前が大切だから無茶はしねえでくれ。俺のために、しねえでくれ。そう言って優しく抱き留めてやることが出来ればよかった。

 しかしそれがスマートに出来るようであれば、今頃こんな性格にはなっていない。
 
 隣で守ってやれなかった。恐怖を味わわせてしまった。そんな後悔があるからこそ、余計に素直になれない。

 ぽつり。絞り出すように呟く。
 
 
「危ねえことすんな、頼むから⋯⋯」

 
 四六時中一緒にいることは出来ないのだ。名前に自覚を持ってもらうしかない。陣平にどれ程想われているのかという自覚だ。陣平が大切に想っているから。それを理由に自分のことを大切にしてくれ。そう陣平は言っている。名前の優しさに漬け込んだ、ただのエゴイズムだ。

 散々無茶をしでかしてきた──そして恐らくはこの先もしでかし続ける──自分の事は棚に上げ、陣平はもう一度口にする。
 

「名前、約束しろ」
「じ、じんぺ、く、苦し⋯⋯っ」


 腕の中で名前が身を捩る。しかし陣平は離さない。それを悟ったのか、名前は陣平の胸元で掠れた声を出した。
 
  
「あの⋯⋯嫌いになった⋯⋯わけじゃない、の?」
「あ"あ?! 何でそうなるんだよ」
「だ、だって怒っ、て⋯⋯すごい怒って、わたし、どうしたらいいか⋯⋯っ」


 ぐす、と名前の鼻が鳴る。泣いてる、と思ったその時には、慌てて名前を解放していた。焦って名前の顔を覗く。その瞳からはぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていて、より一層陣平の焦りを大きくした。
 

「名前、泣くなって⋯⋯」
「だ、って、嫌われたかと思ったもん⋯⋯っ」
「んなワケあるかよ。むしろ逆だから荒ぶっちまったんだろ。⋯⋯俺あんま育ち良くねえからよ、ああする以外の方法知らねえっつーか⋯⋯あーもう」
「っうぷ」


 名前を再度抱き締める。勢いが良すぎて、名前の鼻が胸板で潰れ情けない声が漏れた。
 
 意地を張っていても仕方がない。これが惚れた弱みとでもいうやつか。言葉にしなければ伝わらないことがある。言葉にしなければ、傷付けてしまうことがある。

 決心を固めるまでに軽く数十秒を要して、陣平は岩のように重たい唇を開く。その間、この状況でも辛抱強くひたすら待ってくれていた名前の忍耐力たるや。陣平にも少しばかり分けて欲しいものである。


「⋯⋯⋯⋯お前のことが大切なんだよ。俺はきっと今、何よりもお前を失うことを怖れてる。だから、無茶すんのは俺が隣にいる時だけにしろ」
「⋯⋯陣平くんが守ってくれるの?」
「たりめーだろ、ナメんな」
「ふふ、ナメてない」
 

 名前を守る。それは陣平の役割だ。他の誰にも渡したくない、陣平だけの特権だ。しかし名前しか、陣平の名前を守れない。そんな時がどうしてもある。

 またしてもほろほろと涙が転がる名前の頬をそっと拭う。
 

「っとに、オメーはすぐ泣くのな」
「だって嬉しくて⋯⋯そんなふうに思ってもらえて、すっごく幸せ」


 名前が触れてしまったと思っていた“大切な何か”。それこそが紛れもなく名前自身だと言ってくれているのだ。
 
 背に回る名前の腕が、きゅっと陣平を抱き締める。

 
「陣平くん、助けてくれてありがとう。格好よかった。格好よすぎて、一瞬自分の彼氏ってこと忘れて恋しちゃった」
「⋯⋯ん」
「たくさん心配掛けてごめんね」
「ん」


 すり、と胸板に擦り寄る名前の頭に、すり、と陣平が頬を擦り返す。名前が笑う。陣平も笑う。
 
 これにて今回の事件は一件落着。
 
 であるからして、名前を腕に抱えたままでようやっと玄関から脱出する。ずるずると室内に入り、ソファにどさりと腰を下ろす。無論、名前は陣平の腕に収まり続けている。


「あーあ⋯⋯今日はお前のしたいこと全部するって決めてたのにな⋯⋯」


 くしゃくしゃと滑らかな髪を混ぜる。名前の髪は昔から変わらず美しい。陣平の指をすり抜けては、はらりと落ちゆく。

 陣平が髪を弄っている間、心地よさそうに瞼を閉したまま、名前は眠る赤子に囁くように口にした。しかしその口調の穏やかさに反して、陣平の服を掴む名前の手はきつく握られている。

 どこか不安げに、きつく。
 

「じゃあ、今からひとつだけお願い聞いてくれる?」
「おう、何?」
「⋯⋯さっきの不安、をね、全部攫ってほしいの。わたしはちゃんと陣平くんのなんだって、教えてほしい」
「⋯⋯お前、何言ってんのか分かって⋯⋯」
「わたしのこと、陣平くんのものに⋯⋯っ」

 
 ──して下さい。

 名前の言葉は皆までは許されず、陣平の唇に奪われる。余裕なく抱き締められたかと思えば、触れる唇は酷く優しい。名前の唇を包み込むように食んでは舌で舐め上げ、上唇、下唇とやわく噛まれる。


「ん、⋯⋯っじんぺ、く」
 

 ずっとこうして触れて欲しかった。

 陣平と心を通わせた。メールも、電話も、デートも、どれも比べようもなく幸せな時間だ。しかし欲求に際限はなく、陣平との時間を重ねる毎に想いも増していく。ぬくもりが恋しくて堪らない時間が日増しに増える。

 満たされているはずなのに。いや、満たされるほど足りなくなる。自分の中にこんなにも底の見えない情動があったなんて。

 口付けに応えるように、陣平の後頭部に手を回す。それを合図に身体を抱き上げられ、名前たちはベッドに雪崩込んだ。