季節が移ろう。
しかし日々の生活は変わらず、会えるのは月数回の週末だけ。それでもあれから何度も時間を重ね、逢瀬を重ね、時には陣平の同期とも顔を合わせ酌み交わす。そんな時間を過ごしていたとある日のことだ。
「ばくはつぶつしょりはん?」
日曜の昼中、名前の家で昼食にオムライス──ケチャップで互いにお世辞にも上手いとは言えない絵を描き合うなどした──を食べていた名前が声を発した。その頭の悪そうな響きに陣平がすぐさま訂正を入れる。
「違えよ、爆発物処理班! 通称爆処っつってな、まあ文字通り爆発物──爆弾とかの解体にあたる部署だな」
「ばくだん⋯⋯そこに⋯⋯スカウトされたの? 萩くんと一緒に?」
「ああ。全く見る目あるぜ、あのオッサン」
どこか嬉しそうに話す陣平に、名前は咄嗟に言葉を継ぐことが出来なかった。
陣平が機械系にめっぽう詳しいこともそれが好きなことも聞いているし、一緒に過ごしていれば嫌でもそれを実感する。
やりたいことを仕事に出来る。
それは誰にでも叶う事ではないし、幸せな事なのだろう。陣平の顔を見れば明らかだ。だから一緒に喜びたいし、応援したいし、支えになりたいと思う。けれど。
「それって⋯⋯危ないこともあるってこと⋯⋯?」
「まあ⋯⋯そうだな」
名前の浮かない表情を汲み取ったのか、陣平は些か気不味そうに視線を逸した。
現代社会において危険物が絡む事件がどれ程の頻度で起こっているのか知らないが、その部署に配属される以上、一度も任務に当たらないという事は有り得ない。
それはつまり、常に命の危険が付き纏う日々を送らなければならないということだ。警察官は多くがそういった覚悟を持っているのかもしれないが、陣平がこれから身を置く場所は、素人目にもそのリスクが高いことが窺われる。
分かっている、つもりだ。
彼らがいるからこそ、彼らが命を懸けて働いてくれているからこそ、名前たち市民は何も知らずに平和に暮らせているのだ。
けれど、どうして。陣平が。
その思いが拭えず、心の底から喜ぶことが出来ない。どうしても“最悪”が過ぎってしまう。母を亡くしたあの時の痛みが、まだ、鮮明に蘇ってしまう。
もう、──失いたくない。
「⋯⋯陣平くんは、もう決めたんだね」
「ああ」
「⋯⋯じゃあ、わたしも全力でサポートする。でも、ひとつだけ約束」
「ん?」
スプーンを置く。並んで座っていたローテーブルの下で陣平のシャツの裾をきゅっと握る。陣平を見ることは、出来なかった。
ぽつりと落ちるのは、精一杯の。
「何があっても、絶対にわたしのところに帰ってきてね」
陣平は目を見開く。
今名前の心は、不安が占めているのだろう。気丈に振る舞ってはいるが、その声音や陣平の服を掴む手から、それが嫌というほどに伝わってくる。
テーブルの上に視線を落としたままの名前の髪に手を差し込み、頭を引き寄せる。そのまま肩口で強く抱き締める。
「⋯⋯ああ。約束する」
陣平の言葉に、名前はただ、ゆっくりと頷いた。
心に誓う。
考えたくもないが、もしも万に一つ。陣平の身に厄災が降り掛かろうとも、絶対に後悔しない日々を送ろうと。あの時こうしていれば良かった。あの時こう言っていれば良かった。そんな後悔を絶対に残さない日々を。
それがどんなに難しい事か知っている。口で言う程簡単ではなく、並ならぬ覚悟が必要なことを身を持って知っている。だからこそ。
心に、誓うのだ。
「ところで陣平くん」
「あん?」
「さっきから気になってたんだけど、そのほっぺたの傷は如何なさいましたか?」
「ああ、こりゃあれだ。スカウトされた日にちょいと一騒動あってよー、教官の車かっぱらってカーチェイスしたり、萩がその車で側方宙返りキメたり、車に飛び移ったり⋯⋯ハハ、そうそう、零なんてトラックで空飛んでよー」
と、陣平は自身を含めた仲間のハリウッドスター顔負けの勇姿を誇らしげに語っている。陣平の頭からはすっかり抜け落ちているのだろう。以前、「無茶はしない」と話し合ったことなど。しかも聞く限りではまあ随分と無茶なことをしているではないか。
一言二言物申したかったが、楽しそうに話す陣平のその顔が少年のようで、名前は言葉を飲み込む。考えを改める。
無茶をしないでね、は、無理だ。無理である。陣平は無茶をせずにはいられない星のもとに生まれてきてしまったのだ、多分。
心配という言葉は“心を配る”から成るらしい。陣平を想う心はいくらでも持ち合わせていると思っていたが、これでは名前が試される形になっている。
いくら配っても尽きぬ心を携えているか、と。
「⋯⋯負けられないよねえ」
それは陣平に対してか、自分に対してか。
人知れず呟かれた名前の声はどこか楽しさを滲ませながら、“覚悟”として名前の心に落ちた。
昼食を終え皿をシンクに運びながら、陣平の今後についての話を聞く。
「機動隊ってどんな勤務なんだろう? 二十四時間三百六十五日系かな?」
「らしいぜ。非番でも非常事態がありゃ招集かかるってよ」
「そっか⋯⋯忙しくなるね」
「まあ自分がやりたくてやることだからな。自分がしんどい分には構わねえけど⋯⋯あ、皿洗い俺やるわ、いっつも上手い飯作ってくれてサンキュ」
「え⋯⋯」
名前よりも先に流しに立った陣平に一時呆気に取られる。それから慌てて陣平の脇に立つ。「? 俺やるって。少し休んでろよ」と不思議そうな視線が向けられる。しかし他にすべき家事も残っておらず手持ち無沙汰な名前は「ありがとう、けどなんか、何もしないの慣れなくてそわそわしちゃって⋯⋯」と食器拭きを片手にスタンバイする。
そんな名前に陣平の呆れた眼差しが向けられる。「オメーはもう少し甘やかされることに慣れねえとなあ。んじゃあここで話してようぜ」と名前の頭をくしゃりと撫でてから、陣平はスポンジを手に取った。
名前は再度礼を口にしてから、陣平の横顔を見上げる。
「ね、おうちはどうなるの?」
「あー、寮だか宿舎だかがあるんだと。最初はそこに住むことになるんだろうな。まあ俺はホントはオメーと⋯⋯」
「?」
泡立ったスポンジを手にしたまま、陣平はぴたりと動きを止める。傍らで小首を傾げ見上げてくる名前を見て暫く考えてから「⋯⋯や、何でもねえ」と頭を振った。
──本当は名前と暮らしたい、なんて。
ずっと考えていた本音がついうっかり口を衝いてしまうところだった。
今も自由が効かず思うように会えない生活ではあるが、名前の休日と陣平の休日が合致するという点では調整がし易かった。しかし陣平が働くようになると、その不規則な勤務形態ゆえ会える時間は格段に減ってしまう。
その生活を想像すると、陣平の胸は甚く荒んだ。名前が足りないせいで、荒んでしまう自分が容易に目に浮かんだ。
元々一人で時間を過ごす事に苦は感じないが、いや寧ろ四六時中他人と過ごす事にこそ苦を感じる質であるが、名前となら上手くやっていけるという根拠のない自信があるのだ。
人と人との距離の取り方というのか。名前のそれは、陣平にとって非常に居心地が良い。一人でいたい時間とそうでない時間の絶妙なバランス。“一人でいるが一人ではない”という感覚。
──名前となら、という表現には語弊があるかもしれない。打算的なものではなく結局は、ただただ陣平が、名前といたいのだ。一緒に暮らしていれば。同じ家にいられれば。例え互いの仕事が忙しくゆっくりとした時間を過ごすことは出来なくても、確実に名前の顔を見られる時間が増える。一言でも言葉を交わせる。
「想像するだけで最高なんだよなー⋯⋯」
「⋯⋯?」
警察学校を卒業する頃には、名前と付き合い始めて半年弱が経っていることになる。その段階で同棲を提案して良いものか。時期尚早だろうか。いや、却ってそういった節目の時にこそ言ってしまうべきか。
そんなことを悶々と考えては、答えの出ない思いを持て余すのだった。