灯火を織る人





 当初の予定より二人減ってしまったが、気を取り直し料理を拵える。皆で賑やかにテーブルを囲み、杯を交わし、料理に舌鼓を打つ。美味い美味いと褒めそやされた名前と諸伏は照れくさそうにしながら、料理が次々と消えていく様子を嬉しそうに眺めていた。

 そうしてテーブルの上の料理がほとんどなくなり、幸せに満たった腹部をなでなでしていると、萩原に声を掛けられる。
 

「見て見て名前ちゃん、これ大学に入学した時の陣平ちゃん」
「え?!」
「二人が再会するまでの空白の五年間、埋めちまおうぜー」
 

 見せてくれた携帯に顔を寄せる。そこには今より幼い陣平──どちらかというと名前が知る高二の陣平に近い──が写っている。恋人のかつてのあどけない写真を見たその瞬間、名前は思わず顔の前で合掌していた。

 名前の嬉しそうな顔を見た萩原は「せっかくだし懐しい写真から見てくか」と、ギャラリーをどんどん過去へと向かっていく。そうして一頻り過去へと飛んでから、ゆっくり現在に向けて記憶が進む。

 幼馴染であり、親友であり。
 そんな陣平と萩原の足跡を辿るのは、不思議な心地だった。
 

「ふふ、高校の時はこんな感じだったねえ⋯⋯あ、このへん学祭の時のじゃない?」
「そうそう。ほらこれ、メイド服の名前ちゃん。どこか一クラスはやる学祭の定番だよなあ」


 萩原がとある写真を拡大する。その途端、名前は酷く取り乱しながら大慌てで画面を隠した。

 
「きゃー?! ちょっ、ちょっと、何で萩くんがこの写真持ってるの?!」
「何でって⋯⋯陣平ちゃんのためにゲットしたんだよ。俺ほら、各学年に仲良しの子いたからさー」
「ちょっとまって本当にまって⋯⋯え、てことは陣平くんも持ってるの?」
「おう。それ以外のも持ってるぜ。見るか?」
「いえ見ません!!! やだもう消してよー⋯⋯」
「やなこった」
「わーん、誰よお、萩くんに負けたユダは⋯⋯」


 画面を隠すことを諦め項垂れている名前の横で、諸伏と降谷が画面を覗き込む。
 
 
「うわー、これはこれは。裏市場を出回るわけだ」
「ほら見ろよ景、こっちの一緒に写ってるやつのこの松田、嬉しそうにしちゃって」
「はは、ほんとだ」
「ああ、それ⋯⋯嫌がる陣平ちゃんを俺が無理矢理連れてったんだよなー、名前ちゃんの店番の時に。陣平ちゃんたら嫌がってた割にそんな顔してやんの」
「うっせ」

 
 名前は真っ赤になった頬を両手で覆った。恥ずかし過ぎて聞いていられない。可及的速やかに話を逸らしたい。何か別の話題が転がっていないかと必死に写真を見る。そしてふと浮かんだ疑問。
 

「ねえ、この人、このよく一緒にいる⋯⋯萩くんの⋯⋯?」


 名前の人差し指がとある女性を指す。

 とても綺麗な人だ。萩原より少し年上だろうか。凛としていて。気高い女性らしさを既にこの頃から備えている。名前は初めて見る顔だが、萩原の当時の彼女だろうか。いやしかし、それにしては目元あたりに萩原と通ずる雰囲気が漂っている気がするし、写っている場所も自宅や食事風景、旅行先といった具合に随分と身内感がある。


「ああ、それ俺の姉ちゃん。千速っつって、今は神奈川県警にいるんだ。んで、陣平ちゃんの初恋の相手」
 

 るん、と語尾を弾ませて萩原が放った何気ない一言に、一同が震撼する。

 陣平は「余計なこと言うんじゃねえよ!」と目くじらを立て、名前は「は⋯⋯はつこい⋯⋯」と身のうちで芽吹く嫉妬心から目を背けられず、諸伏と降谷はこれ以上の暴露で名前が嫌な思いをしやしないかとハラハラしていた。

 名前は思う。
 
 誰にだって初恋の相手というものは存在するし、過去の恋人だっている。恐らく陣平とて例外ではない。女の子の抱き方だって、あれは、あの感じは、初めてではないだろうし。けれど陣平の口から“過去の彼女”の話が出ることはなかったし、その存在を名前が気取ることもなかった。だから、それでいいのだ。過去があるからこそ今の陣平がいるのだから。

 と、言い聞かせてきたのに。

 “陣平の初恋”を聞いた途端、見ぬ振りをしていた心が首を擡げる。

 
「事あるごとに告白しては振られてたよなー、陣平ちゃん」
「オイ萩! それ以上言うと怒るぞ」
「いーじゃん、可愛い話じゃねえの」
「ったく⋯⋯若気の至りみてえでクソ恥ずいぜ」
 

 そう言いつつも陣平の瞳には、いつかの幼さが宿っていく。それはきっと、あの頃の。楽しくて。嬉しくて。憧れて。少し苦しくて。まるで片想いでもしているかのようなその表情に、名前の心がきゅっと絞られる。

 何回も振られていた、ということは。裏を返せば、千速は陣平にとって幾度断られてもめげずにアプローチし続ける程の人だったということだ。

 陣平と萩原の話し振りからは完全に過去のことなのだろう。今の陣平は、確かに名前を好いてくれているのだろう。

 しかしもし仮に。仮にだ。

 千速が陣平の目の前に現れる未来が近くあるとして、そうしたら。その時陣平の心はどう動くのだろう。今さっき見せたような顔をまたするのだろうか。あの頃の気持ちが蘇って、名前ではなく千速を選んで。名前から離れていってしまったりするのだろうか。

 ──分かっている。こんなこといくら考えても仕方がない。あまりにも不毛だ。それに千速に限らず、陣平が名前以外の人間を好きになる可能性はいつだって等しく存在するのだ。それなのに。一度堰を切った思考は容易に止まらず、名前をどんどん暗い方向へと押し流していく。 

 気付けば硬く手を握り、保身のための言葉を口走っていた。


「もしかして陣平くん⋯⋯今も好きなの?」
「あ"?! 何馬鹿なこと言ってんだお前、怒鳴られてえのか?!」
「だ、だって、恋する乙女みたいな顔するんだもん⋯⋯」


 案の定陣平を刺激してしまい、くわと牙を向けられる。陣平の剣幕と台詞に陳腐な安心感を得ると同時に、反射的に身を竦める。それを見た降谷が陣平を窘める。

 
「こら松田。女性に向かってなんて口の効き方だ」
「へーへー、野蛮で悪かったな。けどそもそも名前が馬鹿なこと言うからだろーが」
「さっきからバカバカって⋯⋯ちょっと不安になっちゃっただけだもん⋯⋯」
「不安って⋯⋯あのなあ。アイツ──千速のことは今思えば一種の憧れが強かったっつーか⋯⋯とにかくお前が気にするような事じゃねえんだよ」


 初めて向けられる名前のこういった感情に些か戸惑いつつ、陣平は取り繕うように言う。

 一体何をそんなに気にしているのだ、名前は。想いはどうあれ確かに“好き”であったことは事実だが、何れにせよ過去の事だ。陣平はもう出会ってしまった。名前という人間に。知ってしまった。名前という人間の愛おしさを。
 
 名前だけ。名前だけだ。陣平の心がこれほど動く相手は。

 名前にもそれは伝わっていると思っていた。付き合うことになった日と、窃盗事件の日と。口下手ではあるが陣平なりに言葉にしてきたつもりだし、日頃名前に接する態度からも幾らでも伝わっているはずだ。

 だから今思った事は口にしなくていい。敢えて小恥ずかしい事を言わずとも、名前は陣平の気持ちを分かっている。今はほんの一時、“初恋”という単語や“何度も告白をした”という状況への嫉妬に浸っているだけだ。

 陣平はそう考え軽く捉えたのだが、どうやら女心とはそうそう簡単なものではないらしい。名前は何やら胸に手を当て、「すごく綺麗な人だし⋯⋯ていうかちはやって呼んでたんだ⋯⋯」などと見当違いな事を吐かして呻いている。

 そのことが、陣平を苛立たせる。
 
 陣平の気持ちを知っていながら容易く揺らぐ名前に、まるで自分の想いが矮小なものだと言われている気がして、苛立ったのだ。

 
「んなこと言ったって萩と同じ名字なんだから仕方ねえだろ? ガキの頃から知ってんだしよ」
「ごめん、分かってるの。分かってるんだけどダメージが⋯⋯」
「それが分かってるっつー奴のする顔かよ? つーかとっくに終わった過去の事だし、俺はお前が⋯⋯なのにいつまでもよー⋯⋯ほんっと女ってこういうとこ面倒くせえな」


 言ってしまってから、はたと陣平の動きが止まる。やべ、言っちまった。そんな焦りがあからさまに顔に出たのを見て、名前は無言ですっくと立ち上がる。その姿を男四人が固唾を呑んで見上げる中、きっぱりと一言。
 

「⋯⋯陣平くんのバカ!!!!!」


 そう言い切って、名前は迷いなく部屋を出て行く。敷居を跨ぐその直前で何かを思ったのか立ち止まり、「⋯⋯コンビニに! 行ってきます!」と陣平以外の面々に一応告げ、部屋の扉を閉める。

 誰も声を出さずしーんと静まる部屋に、ガチャンと玄関の戸が締まる音が届く。その音に我に返った諸伏がぼそりと呟く。


「名前ちゃんもバカとか言うんだ⋯⋯」
「今のは迫力あったなー⋯⋯って暢気に感心してる場合かよ、追いかけねえと!」
「ほら行け松田!」
「やだね」


 ぷいとそっぽを向く陣平の頭を、萩原がぼふんと掴む。

  
「やだねじゃねえの! こういう場面で追いかけねえと『なんで追い掛けてきてくれないの?』って余計に拗れんだぞ。まあ名前ちゃんはそうは思わなさそうだけどよー⋯⋯とにかく行けって」
「や だ ね」


 皆が焦って陣平を焚き付けるが、陣平はぶっすーーーとした顔で頬杖を付くばかりで立ち上がる気配を見せない。降谷が呆れた顔で問う。


「おいおい、お前が拗ねてどうするんだ。今のはお前の言い方が悪かったんじゃないか?」
「だってアイツ⋯⋯腹立つだろーが。あの日俺が言ったこともう忘れちまったのかよ⋯⋯」


 寂しげに呟かれた言葉。それは明らかにここにはいない名前に向けられて発せられたもので、萩原たちは揃って顔を見合わせ「仕方ねえなあ」とか「困ったやつだ」とか言いながら眉を下げた。


「と⋯⋯取り敢えず俺行ってくるよ。名前ちゃん何も持ってってないし、夜も遅くなってきたし」


 財布と携帯を持って名前を追って部屋を出た諸伏を仏頂面で見送って、陣平は口を開く。

 
「⋯⋯俺もつい言い過ぎたけどよ、もとは萩が言い出したせいなんだからな。『昔の女の話はしねえ、これ鉄則!』じゃなかったのかよ」
「悪い。身内のことだったし、付き合ったりしたわけじゃなかったから気緩んじまってた。けど名前ちゃん、案外嫉妬したなー」
「まあ嫉妬と言っても随分と可愛らしいものだったがな」
「はは、ほんとにな。もし俺が陣平ちゃんだったら、あの場で抱き締めて愛を囁いてたね。陣平ちゃん、あんなふうに嫉妬されてむらむらしねえの?」
「馬鹿言ってんな、オメーらいんのに愛なんて囁けるかっての⋯⋯なあ零?」
「いや、囁くけど?」
「は? マジかよ、チャレーな」

 
 などというやり取りが繰り広げられているとは露知らず。名前はひとり、頭を冷やすため夜の道を歩いていた。「陣平くんのバカ⋯⋯」と呟きながら。



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