灯火を織る人





 キイ、と古びた金属が擦れる。
 公園のブランコに腰を下ろし、名前は足を地につけたままゆっくりと前後に揺れていた。キコキコと懐しい音が静かな夜に鳴っている。座板を支える二本の鎖を軽く掴み、名前は溜め息をつく。

 せっかくの卒業祝いの場であったのに、「バカ!」などと叫んで部屋を出て来てしまうなんて。皆に合わせる顔がない。詫びに何か買って帰ろうにも、勢いに任せ飛び出してしまい文字通り身ひとつであるのだから世話がない。

 それに、まだ。

 心の整理が出来ていない。胸の奥で靄つく感情を制御出来ていない。どんな言葉で。どんな台詞で。陣平と、そして他の三人に謝れば良いだろう。

 キイ、とブランコが揺れる。
 鎖を支えにして顔を上に向ける。ブランコ上辺の支柱が夜空を真っ直ぐに横切っている。月は、見えない。一部ぼんやりと白色味を呈し明るくなっている雲があるから、そこに隠れているのだろう。星はひとつふたつがやっと見える程度の、いつもと変わらぬ都会の空だ。

 そうしてぼんやりと空を仰いでいた、その時だった。
 
  
「こーら!」
「ひっ、きゃあああ!」


 突然視界に真っ逆さまに──名前は真上を向いていたから、背後から覗き込まれたのだろう──入り込んだ人影に、自分でも聞いたことのないような悲鳴を上げる。

 全く気が付かなかった。足音すらしなかった。その証拠に心臓はけたたましく早鐘を打っているし、鎖を掴んでいた手は驚嘆のあまりすっかりと離れてしまっている。

 空を見上げるかたちで重心が後ろにずれており、かつ不安定なブランコの上だったことも相まって、支えを失った名前の身体は容易く後方へと傾ぐ。慌てて鎖を掴もうと伸ばした手も虚しく空を切る。あわやこのまま転倒か。と思い硬く目を閉した矢先、背中がぽふりと何かに当たる。

 
「だ、大丈夫?」
「ひ、ひ、景くん⋯⋯」

 
 それが名前を驚かせた当人の腹部だと悟り、名前から安堵の溜め息が落ちる。


「ごめん、まさか落ちるなんて」
「わ、わたしこそごめん、びっくりしちゃって⋯⋯ありがとう、景くんいなかったら頭打つとこだった⋯⋯」
「いや、俺がいなかったらそもそも落ちなかったんだけど⋯⋯」


 申し訳なさそうに言いながら、ずり落ちかけていた名前の身体を元の位置に戻してくれる。名前は振り返り、諸伏を見上げた。

 
「ていうか気配なさ過ぎない? 足音すらしなかったよ⋯⋯?」
「そう? 名前ちゃんが物思いに耽り過ぎてただけだよ。それはそうと、」
 
 
 ここで諸伏は一度言葉を区切り、わざとらしく腰に両手を当て怒っている素振りを見せる。「警察官として言わせてもらうけど」と前置きしてから、真面目な顔でこう言った。
 

「夜の公園は非常に危険だから、女性一人でのぶらんこ遊びは控えて貰いたいところだな」


 威張った格好に反した穏やかな口調に、名前は表情を和らげ「心配かけてごめんなさい」と眉を下げる。それを見下ろしてから、諸伏は隣のブランコに腰を下ろした。ギイ、と名前よりも重たい音が立つ。
  
 諸伏は何を言うでもなく静かに夜を見つめている。そこに聞き手に回ってくれる雰囲気を察し、名前はやや逡巡してからやおら口を開いた。

 
「⋯⋯陣平くんの言う通り、ほんと面倒くさいよね。わたしが男でも⋯⋯いや、同性でも面倒くさいなって思うもん」
「名前ちゃん⋯⋯」
「でも言っちゃった。陣平くんのあの顔見て、すごく⋯⋯不安になっちゃって。見苦しいとこ見せてごめんね」


 キイ、キイ。ゆらゆらと夜の空気の中を揺蕩いながら、名前は爪先に視線を落とす。

 嫉妬のすべてが悪いものだとは思わない。恋人間におけるそれの根源は相手への愛ゆえであることが大半であるし、度を越さなければ人間としての健全で自然な感情だとも思う。

 しかし過去への嫉妬というものは、その過去が当人にとって“良い”ものであればあるほど、煩わしく思ってしまうものだ。まるで思い出を拒否されたかのような。その頃の想いを否定されたかのような。そんな気持ちにさせられてしまう。


「思い出も、陣平くんの気持ちも、何も否定するつもりなんてないの。なかったの。なのに⋯⋯ただ自分が安心したいっていうだけの理由で、陣平くんに嫌な思いさせちゃった。⋯⋯ちっちゃいな、わたし」


 ぽつりぽつりと胸の内を溢していく名前を、諸伏はそっと見つめる。そして思う。したたかでやわらかい子だ、と。自身で過ちと思っていることを、相手を傷付けてしまったことを、こうして実直に言葉に出来る。なかなかどうして簡単な事ではない。自分をありのままに認めるというのは、強さが要る。

 名前なら。きっと大丈夫だ。

 何が大丈夫なのかは分からないのだが、何故か“大丈夫だ”と思うのだ。まるで論理的ではない自分の思考に内心で首を傾げてから、諸伏は静かに呟く。
 

「⋯⋯難しいよな、心って」


 こくん。名前が無言で頷く。

 
「名前ちゃんの言ったことは、理想ではあるんだろうけど⋯⋯過去の事だからといって簡単に割り切れる程、人の心は単純に出来てないだろ。それにそこは松田も気にしてないみたいだったし、そんなに自分を責めなくて大丈夫だよ」
「⋯⋯? 気にしてないの⋯⋯? てっきりそれで怒ってるものだと」
「ああ、そっか、そう思うよな。これは松田が素直じゃないのが悪いんだけど⋯⋯松田はさ、自分の気持ちが名前ちゃんに伝わってなかった気がして怒ったんだよ」
「え⋯⋯」
「あ、これ俺が言ったって内緒な」


 秘密を共有した幼子のように笑ってから、諸伏はついと顔を上げる。その視線は定まらずに夜空のどこかを漂っているようだった。
 

「さっき松田がさ、『あの日言ったこともう忘れちまったのかよ』って。それ以上詳しくは聞いてないけど、名前ちゃん何か覚えてるか?」
「あ⋯⋯」


 名前の唇が薄く開く。しかしそこから言葉が出ることはない。ただ、僅かに開いた隙間を、数ヶ月前の記憶が満たす。

 そうして暫くぼんやりと宙を見つめてから、名前は漸く声を発した。
 

「──⋯⋯覚えてる」

 
 全部、覚えている。
 陣平がくれた言葉。名前を見る眼差し。名前に触れる指先。その体温。名前に想いを伝えてくれたすべてを、覚えている。

 忘れないと。あの日に誓った。

 
「⋯⋯ありがとう、景くん。もう大丈夫。ちゃんと陣平くんと、皆に謝る」
「そっか」
「うん。わたし、陣平くんからたくさん⋯⋯」


 全ては口にせず、名前は束の間睫毛を伏せた。その僅かの間に名前の纏う空気がふっと和らぎ、力が抜けたように落ち着いていく。
 
 
「よし、そうと決まれば早く戻らないと⋯⋯巻き込んでほんとにごめんね」


 そう言って立ち上がった名前を、座ったままの諸伏が「あ、待って。きっと松田が来るから。入れ違ったら困るよ」と制する。

 それを聞いた名前は三度みたび瞬いて。ブランコを囲うように設けられている低い柵まで移動して、諸伏の目の前で柵に腰を掛けた。

 
「えー、来るかなあ。わたしが謝るまであの部屋から一歩も動かないんじゃない? 『俺からはぜってー謝んねえからな』とか言ってそう」
「はは、アイツ意地っ張りだからな。でも来るよ、きっとけろっとした顔で。向こうには萩原も零もいるしね」


 それに、あの言い方は陣平にも反省の余地が大いにある。名前は自分の心の傷には一言も触れないが、あんな言い方をされては名前だって嫌な思いをしたに違いないのだ。

 だからせめて、迎えに来いよな。

 と、諸伏が個人的に陣平に来させたいという気持ちもあるのだ。

 しかし、諸伏たちに掛けてしまった迷惑に引け目を感じている名前としては納得がいかないようで、このままここに留まり、来ると決まった訳でもない陣平のことを待っていて良いものかと逡巡する様子が明らかである。

 それを見兼ねた諸伏が言う。
 
 
「じゃあさ名前ちゃん。松田が来るまで俺に付き合ってよ。歩いたら小腹空いちゃったから、そこのコンビニで何か買いたいんだ。肉まんとか。一緒に食べよう」
「⋯⋯景くんは、優しいね」


 ひゅう、と風が吹く。
  
 優しくて、故に少し心配だ。
 この優しさがこの先、警察官として生きていく諸伏自身を苦しめるようなことになりませんように。そんな出来事が起こりませんように。

 そう思わずにはいられなかった。

 
「ごめん、何? 風で上手く聞こえなかった」 
「ううん、何でもないの。それよりわたしあんまんがいいな、お金持ってきてない身だけど」
「はは、うん、じゃあそうしよう」


 こうして諸伏の優しさに甘え肉まんとあんまんを一つずつ買い「後でお金返すからね」「いやこのくらい奢らせてよ」と押し問答を幾らか繰り返しながら、もとの公園のブランコに戻る。
 
 結局目の前にすると何方も食べたくなってしまい、それぞれを半分こして、右手に肉まん、左手にあんまんを持ち食べていた、その時だ。



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