灯火を織る人





 ザッ、と靴底が擦れる音。
 諸伏が来た時には聞こえなかった音に、名前が振り返る。


「ったく、オメーはよお」
「⋯⋯陣平くん」
「わざわざ来てみりゃ暢気に肉まんはむはむしてんじゃねえかよ。ほら、帰んぞ」
「あはは、ほんとにけろっとしてる」


 諸伏の言う通りだと笑う名前を、近付いてきた陣平が呆れ顔で見下ろす。

 
「あんだよ、不満かよ?」
「ううん。嬉しいんだよ」


 名前はひとつだけ息を深く吸い、真っ直ぐに陣平を見上げる。誰も文句の付けようがない。真摯な瞳だった。
 
 
「陣平くん。さっきはごめんなさい」
「⋯⋯ちゃんと覚えてんのか?」
「うん、ぜんぶ」
「ん、ならいい。その肉まん達のせいで緊張感ねえしな、気ぃ抜けちまうわ」


 と、何事もなかったかのように背を向け萩原宅に戻ろうとする陣平を、成り行きを見守っていた諸伏の声が引き止める。
 

「こら松田。それだけじゃないんだろ?」
 

 とうに食べ終わっている諸伏を、陣平のバツが悪そうな視線が捉える。「⋯⋯景の旦那に言われちゃあなあ」と呟いてから、名前に向き直る。
 
 
「⋯⋯さっきは⋯⋯俺も、少し言い過ぎた。悪かった」
「ふふ、ううん」
 
 
 笑った名前が立ち上がり、陣平の隣に並ぶ。「にしてもお前食べんの遅えな。俺が貰ってやろうか?」「あ! うわっ、一口がおおきい!」といつもの調子を取り戻した二人に諸伏が笑う。

 そんな三人を、雲間から顔を覗かせた月が照らしていた。







「ただいま戻りました!」
「おう、おかえり」


 萩原宅の扉を開く。
 室内のあたたかな照明と。萩原と降谷の優しい笑顔。それらが待ってくれていて、名前は不覚にも泣きそうになってしまった。ここにいる皆が陣平を大切に思っていることが、存分に伝わってきてしまったからだ。

 潤んでしまった瞳を隠すようにして俯き、それからちいさく頭を下げる。
 

「皆のお祝いだったのに、さっきはほんとにごめんなさい。子どもみたいに拗ねちゃって恥ずかしい⋯⋯お詫びに美味しそうなお酒たくさん買ってきたの。あとお菓子と、おつまみと、アイスと⋯⋯全部陣平くんにお金借りてだけど」
「お詫び? んなの気にしなくていーってのに」
「でも、最初から最後まで楽しくお祝いしたかったもん。なかなか会えなくなっちゃうだろうし⋯⋯なのにわたし⋯⋯」


 しょぼりと肩を落としながら買ってきた物を並べていく名前の姿に、不覚にも男共の心がきゅんと音を立てる。

 
「あーもう、この素直さが陣平ちゃんにもありゃあなあ⋯⋯」

 
 恐らく無意識だったのだろう。名前の頭をぽふぽふと撫でた萩原に、陣平が瞬時に反応する。
 
 
「おい萩、触んな」
「ん?」
「だから名前にさーわーんーな! 仲良いのはいいけど、触んなって! 俺んだ!」


 陣平は萩原からもぎ取るように名前の肩を引き寄せる。それを見た萩原たちは、堪えきれないといった様子で肩を震わせる。が、ついには皆がげらげらと笑い出す。
 

「ぷ、はは、松田ってほんと⋯⋯」
「⋯⋯悪いかよ」
「いや、頼むからそのままでいてくれ、可笑しいから」


 などと腹を抱える降谷に、より一層笑いが起こる。そんな調子で一頻り陣平を揶揄い倒し皆が満足した頃、酒の缶を片手に持った萩原が近付いてくる。まだ口元には笑みが残ったままだったが、名前に声を掛ける直前にそれは消えた。


「名前ちゃん」
「ん?」
「さっきは俺こそごめんな。発端者の俺が言えたことじゃねえかもしれねーけど⋯⋯信じてやってくれよな、陣平ちゃんのこと。長年一緒にいる俺が保証するぜ。名前ちゃんに対する陣平ちゃんの気持ち」
「⋯⋯うん」
「それと──」


 ふいに萩原が間を取る。それが些か不自然な気がして萩原を見上げると、萩原の視線は陣平に向けられていた。何かを達観したような眼差しが、妙に印象に残る。


「陣平ちゃんのこと、頼んだぜ」
「⋯⋯? 萩くん⋯⋯?」


 別段気に掛けるような会話の内容ではなかった。俺の親友のこと頼むな、と。恋人の男友達に背中を押してもらっただけだ。
 
 だというのに名前の心が妙にざわりと騒ぐ。何かが胸のうちで蠢き心を刺してくる。得体の知れない不安感に、名前はじいっと萩原を見つめる。それはそれは穴が開くほどじいっと。


「? 俺の顔何か付いてる?」
「ううん、それがいつもと変わんないんだよねえ」
「は?」
 
 
 しかしその感覚もほんの一時のことで、すぐに掻き消える。故にそのまま名前の記憶からはすっかり抜け落ちることになるのだが、まさか近い将来、この感覚に再度襲われることになるとは。

 この時の名前は夢にも思わない。
 

「よーしオメーら! 仕切り直して朝まで騒ぐぞ! 名前は飲み過ぎんなよ、寝ちまうから!」
「らじゃ! わたしマリカーやりたい!」


 賑やかな声が部屋を満たす。
 こんな日が、ずっと。ずっと続いてくれたらいい。皆で顔を合わせて笑い合う。こんな時間が、灯火であればいい。この先“誰かを守るため”に生きる彼らの心に、ずっと灯る灯火であればいい。凍えないように。寂しくないように。苦しくないように。この灯りが、他人のために自らを犠牲にしてしまいそうな彼らを守ってくれたらいい。

 名前は確かにそう願ったのだ。

 心から、願ったのに。





 この日が、名前が萩原に会った最後の日となる。


ずっと消えないんだよね



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