星を鷲掴む





「最近どうなの? “陣平くん”とは。警察学校卒業して本格的に働き始めたんでしょ?」


 仕事を終え、電子カルテに向かい今日の記録をしていた最中だった。隣で同じくキーボードを叩いていた都が、そう口にした。

 その瞬間、名前は都に泣きつく。

 
「そ〜〜〜なの聞いてよ〜〜〜」
「うわ、どーしたの」
「全然会えなくて⋯⋯足りなくて⋯⋯うう」


 記録の手を止め、めそめそと嘆く名前を見て、都はやっぱりねといった表情でひとつ息を吐いた。

 
「わたしは週五平日勤務だけど、陣平くんは⋯⋯暦も時間もあんまり関係ないし」
「そうだよねえ。向こうの非番が私達の休日と被るとも限らないしね」
「そうなの! 当直明けとかはちゃんと寝てほしいし⋯⋯難しいよお」
「分かる分かる。ウチと一緒だわー」


 都の彼氏は病棟勤務の看護師であるから、陣平に似た勤務形態なのだ。今でこそ落ち着いているが、そこに至るまで二人はどんな紆余曲折を経たのだろう。今すぐに聞きたい衝動に駆られたが、思ってみればまだまだ勤務中の身である。しかも絶対に短時間で終わるような話ではない。

 まずは仕事だ。仕事を終わらせなければ。と姿勢を正し、カルテに向き直った。





 そうして仕事を片付け、着替えようとロッカールームに入った時だった。一足先に着替えを始めていた都が声を上げる。


「名前ー、何かロッカーで鳴ってるよー」
「はいはーい、電話かな」


 急ぎ足で向かい、ロッカーを開ける。鞄に仕舞っていた携帯が着信を奏でていた。液晶に表示されている名前を見て、名前はうきうきと電話に出る。
 

「もしもーし」
「おう、俺」
「陣平くん。お疲れ様」


 外にでも出ているのだろうか。陣平の声に紛れて、車が行き交う音がする。

 
「お前もう仕事終わったか?」
「うん。丁度終わって、これから着替えるところだよ」
「お、良かった。俺今日早く上がれてよー、まだ晩飯の準備とかしてなかったら飯食いに行かねえ?」
「飯?! 食いに行く!」
「口が悪りぃなおい」


 陣平からのお誘いに、名前はぴょんこぴょんこと飛び跳ねる勢いで返事をする。
 
 こんな、不意に、会えるなんて。
 会うのは何時ぶりだろうか。陣平が働き始めてから約一ヶ月が経つが、碌に会えていなかったのだから嬉しいことこの上ない。


「つーか実はもうお前の病院の近くまで来てるからよ、このまま迎えに行くわ」
「え! そうなの?!」
「ああ。どの入り口で待ってりゃ会えんだ? 裏口とかあんのか?」
「あ、えっと、裏は駅が遠くなるからわたしは使ってなくて⋯⋯この時間だと救急玄関かな」
「分かった、適当に行ってみる。じゃああとでな」


 ぷつ、と陣平の声が途切れる。それと同時に肝心な事に思い至る。陣平は今、どの辺りまで来てくれているのだろう。聞くのを忘れてしまった。出来るだけ速やかに着替えなければ。

 わたわたと着替えを始めると、都が問うてくる。


「彼氏?」
「うん。ご飯に行かないかって」
「あらグッドタイミング。名前寂しそうだったもん、良かった」
「ふふ、嬉しい⋯⋯あ、もし良かったら都も一緒にどう? 陣平くんに紹介したいな、わたしの自慢の親友ー! って」
「あはっ、ありがと」
「あと都カップルの話も聞かせてほしいの。今のライフスタイルが確立するまでのこととか」
「それは私で良ければいくらでも話すし、私も名前の彼氏と話してみたいけど⋯⋯でも今日は遠慮しとく。久々の彼氏との時間、ちゃんと楽しんでおいで」 
 

 都が笑む。その笑顔を見遣り「ありがとう」と笑みを返してから、名前は仕事着をずぼっと脱いだ。そして声を上げる。


「うわあ、どうしよう都」
「何?」
「見て! 今日のわたしの下着! 超普通! 可愛いやつ着てくればよかった〜〜〜」
「そう? 普通? 全然可愛いけど」
「ご飯行くだけだけど、せっかく久々に会えるんだし、なんかもっとこう⋯⋯下着が特別可愛いと自分のテンション上がるし⋯⋯」


 自身の胸元を不満気に見下ろす名前を見て、都が可笑しそうに笑う。


「じゃあ今度一緒に買いに行こうよ、下着。すっごいやつ」
「すっごいやつ?」
「そ。すっっっごいやつ」
「すっっっごいやつ?!」
「あはは、きっと彼氏も喜ぶよ」
「もしかしてそれわたしの思う“特別可愛い”とちょっと違くない⋯⋯?」
「まあまあ」


 なんて話をしながら、結局はいつも通りの時間を掛けて着替えを終え、都と揃って玄関を出る。

 秋の夕暮れだ。段々と肌寒さが染みるようになってきた。少し前まで綺麗な花が咲いていた玄関前のちいさな花壇も、すっかりと寂しくなっている。その花壇の脇。レンガ造りの塀に凭れるようにして、──陣平が立っていた。

 名前に気付いた陣平が顔を上げる。名前に向かって軽く片手を上げるその姿に、駆け寄ることも忘れ「わあ⋯⋯」と感嘆の声を漏らした。
 
 スーツを纏い、サングラスを掛けて。

 初めて見る陣平の姿だ。普段とは雰囲気がまるで違う。いつもは未だどこかやんちゃさの残る風体であるが、目の前の陣平からはそれが感じられない。スーツのせいなのか。サングラスのせいなのか。仕事のスイッチが入っているからなのか。

 分からないが、何はともあれ格好いい。
 
 陣平を見たまま微動だにしない名前に、陣平が不思議そうに近付いてくる。
 

「? どーした?」
「ううん、かっこよくて⋯⋯サングラスのおかげでガラ悪いけど⋯⋯」
「あ"?」
「ふふ、似合ってるよ」


 無性に沸き起こった抱き着きたい衝動を何とか抑え、隣にいた都と、そして正面の陣平とを見る。


「えっと、紹介するね。いつも話してる都です。そしてこちらが陣平くんです」
「「どーも」」


 都と陣平は互いに軽く会釈をし、名前をよろしくだの名前がいつもご迷惑をだの、まるで親同士のような挨拶を数言交わしている。それを何とも言えない心地で聞いていた、その最中のことだった。

 陣平の顔が不意に名前の背後に向けられる。それを追って振り返ると、先程名前が出てきた玄関から、和泉ら後輩達が出て来たところだった。

 サングラスの奥、翳って見えにくい陣平の双眸が、和泉たちに向け鋭くなっている気がして。名前は問う。

 
「陣平くん? 怒ってるの⋯⋯?」
「いや、全然」
「⋯⋯そう?」
 

 首を傾げ見上げる。その瞬間、頭頂に陣平の手がぼふっと乗る。その行動が「これ以上話すつもりはない」と語っていて、釈然としなさは残るものの口を噤む。
 
 
「んじゃあそろそろ行くか」
「うん。それじゃあ都、また明日ね」
「ん、またね」


 駅とは反対方向にある近場のアパートに住んでいる都が、ひらりと手を振り身を翻す。
 
 直後、自然な所作で伸びてきた陣平の手が、一瞬名前の手を取り、そして思い出したかのようにぱっと離れる。


「悪い、職場の真ん前は流石に良くねえよな。お局にいびられでもしたらやってらんねえし」
「ふふ、いないよお局様」
「甘いぜ名前。人はいつ豹変するか分かんねえからな。女の僻みは怖えぞ?」
「あはっ、陣平くん何の経験者?」
 

 当たり前のことのように手を繋いで貰えて、嬉しかった。嬉しかったからこそ。離れてしまった手が寂しい。それを少しでも宥めたくて、陣平との間の距離を詰める。微かに腕と腕が触れる。煙草の残り香がする。


「ありがとね、わざわざ来てくれて。駅で待ち合わせで良かったのに」
「いや。これからもたまに来る。んなことより店決めようぜ。俺こっちの方来たことねえからよ、どっか美味い店知ってっか?」
「知ってる! 和洋中どれがいい?!」
「がっつり米の食える和かラーメン!」
「おっけーおっけー、駅の方行こう」


 こうして陣平と過ごす久方ぶりの夜が始まったのだった。