星を鷲掴む





「うんめー」
 

 “白飯おかわり無料”を掲げるとんかつ屋で、サクサク衣の肉厚なカツを頬張る陣平を眺め、名前は肩を揺らす。


「いい食べっぷりだねえ、いつも。なんか見てるだけでお腹いっぱい」
「はあ? 何馬鹿言ってんだ、んなわけねえだろ。おら食え!」


 ずいっと皿を差し出される。「はあい、いただきます」と手を合わせる。塩。辛子。ソース。どれで食べようかと迷った末、塩を少量掛ける。「んー、美味しい!」と漏らすと、陣平はふっと息を吐いて笑い「お前も相変わらず美味そうに食うよな。口に衣ついてっけど」と名前の唇の端を親指で拭った。

 
「最近お仕事はどう?」
「んー、この不規則な感じには大分慣れたかね。俺どこでも寝れるし。あとはあれだな、警備部としての仕事はいーんだけどよ、案外書類系がマジ面倒くせえ」
「あはっ」


 陣平が大人しく机に座り、絵に書いたように判子をぽんぽこ押している場面を想像してしまう。可愛い。


「名前は? ちゃんと毎日元気か?」
「うん、元気元気。でも──」
「⋯⋯? 何だ?」


 言い淀んだ名前に、白飯に伸ばしかけた箸を止めた陣平が聞き返す。
 

「や、ううん、何でもない!」


 一方で名前は、たった今自分が口にしかけた言葉に焦っていた。

 ──でも、なかなか陣平くんに会えなくて寂しい。

 そんな言葉を言い掛けた。
 仕事が始まったばかりの大変さは、名前も記憶に新しい。一から築く人間関係。社会人としての責任。覚えなければならない仕事のイロハ。気概さえもが空回りして、知らず知らずのうちに疲労やストレスが蓄積されていく。あの頃の名前は、仕事以外のことを考えられなかった気さえする。

 そんな時期に「会えなくて寂しい」なんて。とんだ彼女ではないか。

 会えない時間さえも楽しめたり、隣にいなくても支え合えるような、そんな付き合いをしたい。そう思う反面、こうして会う時間がもう少し取れればと望んでしまうのだから、人間の欲には際限がない。

 
「何でもないって⋯⋯誤魔化すんならもっと上手くやれ下手くそ」
「いひゃい」


 陣平に小鼻をきゅっと摘まれながら、それもそうだと思う。ご指摘は御尤もだ。どうせ誤魔化すのであれば「言いにくいんだけど⋯⋯実はちょっと太っちゃって、ほらこのお腹が!」とか適当な事を言えれば良かったのに。焦ったふうに「何でもない!」と言われては、相手は気になってしまうに決まっている。

 妙に納得していると、はたと何かに思い至った様子の陣平が口を開く。

 
「おい、まさか誰かに言い寄られたりしてんじゃねえだろうな」
「え、ふふっ、ないない」
「じゃあ何だよ? 他に気になる男できたとかマジでヤメロよ」


 どこか弱気さを感じさせる言い方に陣平らしくなさを感じ、思う。期待を込めて思ってしまう。陣平も、或いは。名前と同じく、会えない時間に少なからず不安や焦燥を感じていたのだろうかと。

 故にぽつりと本音を漏らしてみる。


「⋯⋯寂しい、ってね、言おうとしたの」
「は⋯⋯」
「なかなか陣平くんに会えなくて、寂しいなって。でもそんなこと言われても困っちゃうでしょ。お仕事始まったばっかりだし、負担になるような彼女になるのは嫌だし。だから言うのやめたの。でも──」


 一度言葉を区切る。今度は茶目っ気をたっぷりと含ませて、るんるんと問う。

 
「ね、ね、もしかして陣平くんも寂しかった?」
「⋯⋯たりめーだバァーカ!」
「い、いひゃい⋯⋯二回も⋯⋯!」
 

 先程よりも強めに摘まれた鼻。結構痛い。じとっと見上げるが陣平には気に留めてもらえず、結局されるが儘になる。
 
 そうして陣平の気が済んだ頃に解放され、今度こそゆっくり食事を終え、店の外に出る。ひゅるり。黄に染まった落葉が三枚、足元を転がっていく。

 双方の住居はこの駅からは別方向であるから、今日はここでお別れだ。そう思い繋いでいた手を離そうとすると、名前の意に反し陣平の手にきゅっと力が込められる。
  

「⋯⋯陣平くん?」
「手ぇ離そうとしてんじゃねえよ。送る」
「え! 大丈夫だよ、いつもの通勤経路だもん。陣平くん帰るの遅くなっちゃう」
「ああ、俺は明日当直だからよ。日中は時間あんだわ。帰るのなんて何時でもいい」
「で、でも」
「でもじゃねえ。⋯⋯俺が心配なんだよ。黙って送られとけ」


 些か照れた素振りで目線を横に逃がす陣平に、名前の頬までがぽっと染まる。
 
 ──まだ、慣れない。陣平にこうして大切にしてもらえることに。

 いや、慣れなくていいのだ。こう思ってもらえることに、慣れたくない。いつまでもこの気持ちを持っていたい。

 陣平の手を握り返し、「ふふ、嬉しい」と笑む。陣平はその横顔を見下ろして、「毎回そんなふうにされちゃこっちが困るぜ」と側頭部を掻いた。







 こういう時ほど時間が流れるのは早いものだ。

 それにしてもスーツ姿かっこいいなあ、とか。わたし隣歩いてて浮いてないかなあ、とか。そんな事を考えているうち、気付けば自宅前まで来ており、名前はしゅんと睫毛を伏せる。どうにもこうにも離れ難い。この手を離したくない。しかも明日の日中は時間があるだなんて言われてしまうと、もう少し一緒にいてはくれないかと望んでしまう。

 良いだろうか。望んでも。先程の陣平の言葉に甘えて、我儘を言っても許されるだろうか。

 離せない手にもう一方の手を添え包み、意を決して見上げる。
 
 
「あのっ、陣平くん! わたし、ちょっとこの手を離せなくて⋯⋯良かったら泊まっていかない?」
「おう、そー言ってくれんの待ってたぜ」


 逡巡する間もなくしれっと返され、名前は瞠目する。「⋯⋯え? 待ってたの?」と首を傾げると、陣平が意地の悪い顔で笑い返してくる。

 
「なんてったって着替えも持ってきてるしな」
「よ、用意がいい⋯⋯! もう、そのつもりなら最初から言ってくれればいいのに! 一体何の駆け引きよお」
「だってよ、俺から言ったら名前断れねえだろ。例えどんなに疲れてても、明日が早くても。久々に会うこの状態で泊まっちまったら、俺、なかなか寝かせてやれねえ自信あるし」
「そっ⋯⋯そんなふうに、考えて⋯⋯くれてたんですね⋯⋯」


 恥ずかしさに俯きながら、陣平のスーツの裾を摘む。

 “会いたい”、その言葉は案外曖昧で大きな意味を孕んでいる。顔を見たい。話がしたい。傍にいてほしい。触れたい。抱きしめてほしい。

 陣平に会いたいと願っていた名前には、確かに性欲の絡んだ欲望があった。決して身体目当てではないと断言出来るが、ではその気持ちが零かというと、勿論そんな訳はない。

 頬を赤くした名前の手を、笑った陣平が引く。
 
 
「ほら入ろうぜ、お姫サマ」


 二人を閉じ込める扉が、パタリと秋風を遮った。