星を鷲掴む





 部屋に入ってからの名前は、それはそれは慌ただしかった。右へ左へ。帰ってきたばかりだというのに、部屋の中をわたわたと走り回っている。
 
 
「待ってね、スーツ掛けるハンガー持ってくるから。あ、今着てるワイシャツ洗っちゃおうか? 明日着て帰るよね。糊付けもするから。あっ、お風呂もすぐ溜めるね。あとは⋯⋯」


 そんな名前を、陣平が「こら、一回落ち着け」と抱き留める。
 

「何テンパってんだよ。どうした?」
「う⋯⋯その、ちゃんとしたお泊りって初めてだから、何か緊張しちゃって」
「あ? 何でだよ」


 何回も来てるだろ、と笑う。
 名前のこの施し力は素晴らしいのだが、どうにも限度というものを知らない。元来の性格か、生育環境か。ある程度は仕方のないところではあるが、陣平は名前に厄介になりに来ている訳ではないのだ。
 
 
「俺が来たからって特別何もしなくていい。むしろ何もすんな。一緒にゆっくりしようぜ」
「⋯⋯じゃあスーツのブラッシングだけにする」
「⋯⋯妥協点が高えんだよなあ」


 俺ブラシなんてかけたことねえけどな、と呟きながら、堅苦しいスーツを脱ぐ。途端、「わあ、急に脱ぐ! わ、わたしお風呂入れてくる!」と慌てた様子で浴室に向かう名前のその初さに、また笑ってしまう。脱ぐも何も、もっと凄えことしてんだろ、と思うのだが、それとこれとは別物らしい。
 
 持ってきていたスウェットに着替え、スーツを掛け、剃刀等を洗面所に置く。そのタイミングで浴室から名前が出てくる。
 

「これ、邪魔じゃなきゃお前んち置いといてくれ。タイミング合えばこうして会いに来るからよ」
「やった、嬉しい! わたし残業とかもあんまりないし、家に持ち帰る仕事もないし、結構いつでも大丈夫なの。⋯⋯あ、その服も明日置いていってね、洗っておくから」


 着たばかりのスウェットを指される。「何着ても様になるねえ」などと暢気に惚けている名前の額を、とんっと弾く。

 
「っとにオメーは⋯⋯洗濯くらい自分でやるからいーって」
「毎回持ち運ぶの手間じゃない。あ⋯⋯でも、うーん」
「? マジで自分で洗うからいーぞ?」
「違うの、その⋯⋯」 


 不意に名前の顔が、陣平の胸元に擦り寄る。鼻をうずめるようにしてすりすりと擦り寄って、それから頬を押し付けるように抱き付いてくる。


「この家で洗ったら陣平くんの匂いなくなっちゃう」
「匂い?」 

 
 陣平は慌てて袖の匂いを嗅ぐ。自分ではあまり分からない。風呂には毎日入っているし、やはり煙草だろうか。名前の前では吸わないようにしていた──自分のせいで名前の健康が害されるのは許し難い──が、職場や寮ではこれまで通りに吸っているのだから、匂いが付いてしまっているのだろう。


「煙草か?」
「あ、違う違う。いや、そうなんだけど、嫌じゃないの。それも含めて陣平くんの匂いだなって安心する⋯⋯それに、わたしの前では吸わないようにしてくれてるんでしょ? ありがとね」
「気付いてたのか」
「ふふ。でも、わたしは陣平くんの身体も心配してるからね。そこは覚えておいて」
「⋯⋯へい」


 そんな陣平に頷いてから、名前は棚の上の小さな籠に手を掛ける。見ると、中には様々な入浴剤が揃えられていた。

 「お仕事のあとはこれ! 柚子の炭酸湯! 疲れが取れる気がするんだよー」と楽しそうに入浴剤を選ぶ姿に、知らぬうちにほっと溜め息が落ちる。その声や笑顔、所作に癒やされる。

 きっとこういう丁寧な生活や気遣いこそが名前が名前たる所以であり、自分にはない柔らかな部分であり、そういうところにまた、性懲りもなく惹かれるのだろう。

 そんなことを、思った。
  
 その後、半ば無理矢理押し込まれた一番風呂から出てきた名前に、陣平は束の間魅入ることになる。

 ほくほくと上気した頬。濡れた髪。熱を含み、卵のように艶々とした肌。「陣平くーん、次どうぞー」と呼ぶ声さえ艶やかに聞こえて、陣平は頭を抱えた。


「ど、どうかした⋯⋯?」
「いや⋯⋯髪でも乾かしてやろうかと思ってたけど、今日のところは止めとく。入ってくるわ⋯⋯」
「うん⋯⋯?」


 既にその気になりかけている腰元のモノに自らの呆れた視線を送る。それを宥めながら、柑橘系の仄かな香りが漂う浴槽に浸かる。そういえば柚子だとか炭酸だとか言っていた。入浴剤なんて自分では入れないし、種類も何でも良いと思っていた。だが不思議と、見えぬ疲労が抜けていく気がした。

 入浴後、少しテレビを見ながら他愛のない話をする。

 
「ね、皆は? 元気?」
「おー、萩は変わんねえよ。他の奴らは⋯⋯やっぱ違う部署にいると会わねえな。けど元気だろ、あいつらのことだし。今度仕事終わりにでもまた飲みに行くか」
「うん! 行く!」
「全員は揃うのは難しいだろうけど⋯⋯最悪萩ならいつでも捕まえられるしな」
「ふふ、二人が同じ場所にいてよかった。気心の知れた人がいるって、心強いよね」
「そりゃまあそうだな」


 静かにテレビを眺めている名前の横顔。半円を描く眼球に、液晶の明かりが反射している。


「⋯⋯きっと二人は、ずっと一緒にいるんだろうな。笑ったり喧嘩したりしながら、おじいちゃんまで。いいね、そういうの」


 何の気なしに発されたその言葉は、テレビの音に紛れるくらいに静かであったが、やけにはっきりと陣平の耳に届いた。
 





 
「ほら、来いって」
「っ、おっ、お邪魔します!」
「いやそんなに何の意を決してんだよ⋯⋯そもそもお前のベッドだろーが」
「だって〜〜〜」


 何を恥ずかしがっているのか知らないが、ベッドを前に躊躇している名前の身体を、ぎゅっと抱き込む。

 刹那、鼻孔を名前の匂いが擽って。ゆっくりと深く息を吸う。気持ちが凪いでいく。落ち着く。先程の名前の話ではないが、“匂い”というものはその人物と非常に強く結び付くものだ。陣平の脳に既に、この名前の匂いが刷り込まれているように。


「ふふ、やっぱり照れちゃう」


 腕の隙間から顔を出した名前が笑う。
 こうして一緒に眠りにつくのは、初めてここに来た日や身体を重ねた後に寝入ってしまう日を除けば、初めてのことだ。腕の中のこの温さを朝まで抱えていられるのかと思うと、得も言われぬ感覚に包まれる。

 この感覚に、人は、“愛”の字がつく数多の言葉を当て嵌めるのかもしれない。そんな、今までの自分では考えもしなかったことを思う。

 瞬きすれば触れそうな距離で、そっと目が合う。部屋の明かりはもう落ちているが、名前の頬が染まっていることが手に取るように分かった。身体を強張らせている名前の前髪を掻き上げ、額に軽いキスを落とす。

 額。眉間。瞼。頬。そうして唇にやわく触れると、名前の身体がふるりと揺れた。それを合図にしたかのように隙間が開く。差し出された舌を絡め取り、口内に入っていく。


「⋯⋯ん、」


 硬口蓋を舌先で舐めると、名前から甘い声が漏れる。舌を吸い上げると、名前から切ない声が漏れる。

 その声に耳をやられながら、片手でルームウェアの釦をぷつりぷつりと外していく。次第に顕になる肌に、間髪入れず指先を沿わせる。力は入れず。表面をなぞるように。

 すると、陣平の背に回っていた名前の指も、少しずつ動き出す。背筋を辿り、二の腕を辿り、鳩尾を辿り。そうして服の中にそっと入り、腹部に直に触れる。

 陣平はこの感覚が好きだ。

 薄い皮膚を纏った滑らかな指先に触れられると、酷く心地良い。この指が、少し後には欲の中心に触れてくれるのだ。そのことを想像し、ぐんと血流が集まる。

 昼間に着けているものとは誂えが違うブラジャーに手を掛ける。が、ホックが見つからない。なるほど、新種のブラジャーか。などと考えていると、陣平の迷いを感じ取ったのか「ごめん⋯⋯夜のは少し違うの」と名前が告げる。

 流れ的に、このままその違いとやらを教えてくれるのだと思った、その時だった。

 名前の手が、不意に伸びてきて。質量を増していた陰茎に、そっと触れたのだ。


「──ッ」


 完全な不意打ちに、びくりと反応してしまう身体を抑えることが出来なかった。

 スウェットのズボンの上から、撫でるように、包むように。その刺激がもどかしくて、服を自ら脱ぐ。邪魔な布のなくなった箇所を名前がやわく撫で上げる。それだけで、快感が上ってくる。

 この感覚に少しばかり浸っていたい気もするが、やられっぱなしは性に合わない。この手に直に陰茎を包まれる前にと、名前の胸を覆う下着をずり上げる。


「⋯⋯っ、あ」

 
 溢れ出る乳房に余裕なく齧り付く。名前の好きな強さより僅かにきつく吸い上げると、名前は困ったような嬌声を上げた。その分、陰茎に触れる手が弱まったのを良いことに、名前の胸を堪能する。

 そうして胸への愛撫を続けたまま、指先でウエストラインを滑り降り、ウエストの隙間から手を差し入れる。そこで陣平は一瞬、動きを止めた。触れた下着の肌触りと、下着に覆われていない素肌の比率が、いつもとは違う気がしたからだ。