星を鷲掴む





 一週間程あとの、十一月七日のことだった。
 
 この日は素晴らしい秋晴れで、見事なほどに雲ひとつない、美しい空だった。風には着実に冷たさが混じってきているというのに、足元を彩る落葉にさえどこか暖かさを感じる空気が満ちる。

 そんな綺麗な日だったことを、忌々しい程にはっきりと覚えている。

 夕方に仕事を終え、ロッカールームで携帯を確認する。着信が一件。仕事中に陣平から一度着信があったらしい。メールは入っていない。何の用だったのだろう。

 確か今日は陣平も日勤だったはずだ。仕事が終わるのは名前より遅いことが多いのだが、一応その場ですぐに折り返してみる。するとすぐに陣平が出た。


「陣平くん? 電話出れなくてごめんね」
「いや、仕事だろ、俺こそ⋯⋯」
「⋯⋯? 陣平くん⋯⋯?」


 ──何だ、この違和感は。
 
 陣平らしくもなく沈んだ声音に、胸騒ぎを覚える。嫌だ。聞きたくない。陣平の言葉の続きを聞きたくない。本能的にそう思った。
 

「⋯⋯落ち着いて聞けよ、名前」







「──⋯⋯嘘」


 名前がそう絞り出したのは、陣平の言葉を聞いて暫くしてからのことだった。喉の奥から辛うじて出たその音は、自分でも驚く程に震えていた。

 陣平は今、何と言った。信じられない。信じたくない。聞き間違いであってほしい。何かの間違いであってほしい。

 だって、そんな。嘘だ。

 
「⋯⋯お前今どこだ?」
「あ⋯⋯ま、まだロッカー⋯⋯」
「じゃあ着替えたらそのままそこで待ってろ。タクシーで行くから」


 それだけを告げ切れた電話。握り締めていた右手がカタカタと震え、そのままガシャリと携帯が落ちる。


 
 
「──萩が、死んだ」

 


 陣平は、確かにこう言った。
 感情を押し殺したような、しかしそれでも隠しきれない程に悲しい声で。陣平のそんな声は、初めて聞いた。それがその言葉が真実であるということの何よりの証拠だった。

 どうやって病院を出たのかはあまり覚えていない。ただ気が付けば、先週陣平が待ってくれていた救急玄関の前で佇んでいた。すぐにタクシーが停まり、中から陣平が出てくる。

 サングラスで瞳が翳って、上手く見えない。


「陣平くん⋯⋯嘘、だよ」
「⋯⋯名前」
「だってついこの間だって、皆で笑って⋯⋯あんなに楽しそうだったのに、そんな⋯⋯」
 

 何も言わない陣平に、聞き間違いであってほしいと願った最後の希望が消えていく。こつり、こつり。ゆっくりと近付いてきた陣平に、そっと抱き締められる。

 
「逝っちまったんだ、あいつ。二度と顔見れねえところに⋯⋯んなの、俺だって嘘であって欲しいよ」
「⋯⋯っ、」
「あの⋯⋯バカヤロ⋯⋯」


 陣平の震える声が、名前を包む。

 受け入れることなど、俄には出来るはずがなかった。ついこの間。たった一ヶ月前だ。皆で朝まで騒いで、そこかしこに笑顔が散らばっていて。あんなに、幸せだったのに。

 
 ──“陣平ちゃんのこと、頼んだぜ”


 あの時の萩原の顔が蘇る。五年ぶりに再会した時に見せてくれた嬉しそうな顔も。高校生の頃、泣いてしまった名前を慰めてくれた時の顔も。入学式、初めて会った時の顔も。

 いつも陣平と一緒にいて、いつも笑っていて。女の子が大好きで、優しくて、気配りが上手で、そしていつも、陣平と名前を想ってくれていた。
 

「⋯⋯っ萩くん」


 今になって漸く、頬を涙が伝っていく。
 
 同じ痛みだ。母を失った時と同じ痛みが、胸の奥深くを刺すように抉る。二度と味わいたくなかった。大切な人を、二度と失いたくなかった。

 それなのに。

 唇を噛み締める。名前を守るように抱き締めてくれている陣平のことを想う。

 陣平と萩原。名前よりも遥かに長く濃く、その人生をともにしてきた。楽しいことも。苦しいことも。陣平にとって萩原は、まさしく親友と呼ぶに相応しい相手だったことだろう。その片割れを唐突に失ってしまった陣平は今、一体どんな気持ちでいるだろう。

 自分の痛みよりも、陣平の感じているであろう痛みを想うことの方がよっぽど痛い。


「陣平くん⋯⋯一緒に、帰ろ」
「⋯⋯ああ」
  

 陣平が乗ってきたタクシーに乗り込み、名前の家へと向かう。ぼんやりと見遣る窓硝子に街灯が反射しては消えていく。街の灯りが滲んでいる。見慣れているはずの景色に、現実味がない。

 膝の上にだらりと乗せていた手を、陣平がそっと握る。おおきな手にぎゅっと握りこまれ、陣平の手を握り返すことが出来ない。隣を窺い見る。

 陣平は、何も言わずにただ、窓の外を見ていた。






 
 家に着くと陣平は、心ここに在らずといった様子でソファに座り込んだ。背凭れに頭を凭れさせ天井を仰ぎ、頭を抱えるように額を押さえ込んでいる。掛けられたままのサングラスをそっと外すと、今日初めて見る陣平の双眸が、名前へと向いた。


「⋯⋯名前」
「ん、なあに⋯⋯」
「こっち来てくれ。ここにいろ」


 くん、と服の裾を引かれる。躊躇なく陣平の足の間に座り、その体躯を抱き締める。

 
「ここにいるよ。大丈夫」


 名前の腕に包まれ、陣平はそっと目を閉じる。とくり、とくり。名前の胸の真ん中で確かな生を刻む音に、深く深く息を吐く。

 ──萩原。

 その命を散らすには、二十二年という歳月は、あまりにも短い。
 
 この先何年も一緒に、今まで通りの付き合いが続いていくと思っていた。馬鹿を言い合って、笑い合って、いつか互いに結婚をして、子どもも生まれて、なんだかんだと家族ぐるみで付き合いが続いていく。そういう巡り合わせなのだと思っていた。

 決して贅沢な未来ではないはずだ。誰もが望むことを許される、平凡な未来のはずだ。それなのに、何故。どうして。


「⋯⋯萩原」


 親友を呼ぶ声が、今度は喉から出ていた。それにぴくりと反応した名前の身体に、腕を回す。

 この耐え難い痛みを、名前は恐らく嫌という程に知っている。これを、この痛みを。まだ中学生だった名前は味わい、それを抱えて生きてきたのか。

 あんなに笑顔を振り撒いて。

 抱き締める腕に強く力を込める。
 名前が何も聞いて来ないことに、救われていた。名前がここにいてくれることに、涙を流してくれていることに、救われていた。

 一人で耐え忍ぶには、この喪失は、あまりにも大きい。


「⋯⋯名前」
「うん。一緒だよ」 
 
 
 この日名前は、陣平を抱き締めながらベッドに入った。陣平が寝られないのは、分かっていた。それでも無理にでも横にならなければいけないと思った。眠れなくても。かたちだけでも。そうでなければ、何かが、何処かが、壊れてしまう。

 名前は身をもって、それを知っている。

 翌朝名前が目を醒ますと、陣平は名前の腕の中で瞼を閉じていた。名前の体動ですぐに目を開けてしまったから、随分と浅い眠りについていたのだと思う。眠ったというよりも、身体が限界を迎え“気を失った”と言うに近い眠りだったのではないだろうか。


「⋯⋯朝か」
「⋯⋯おはよう」
「ん」


 すり、すり。陣平の頬が二度、名前の腕に擦り寄った。癖毛の強いその頭を思わず抱き締める。


「あいつ⋯⋯夢に出てきやがった」
「⋯⋯そっか」
「軽い調子でよ、『ちょっくら先に行くわ。陣平ちゃんはあんま早くこっち来んなよ。楽しかったぜ』なんて吐かしやがった。っとに⋯⋯こっちがどんな気持ちで⋯⋯」
「⋯⋯うん」
「あと、『いいか? 名前ちゃんのこと、ぜってー手放すんじゃねえぞ。お前が守るんだ』だと」
「ふふ、こんな時までわたしたちのこと」
「本当にな。言われなくても放さねえって何回も言ってんのに、あいつ、お節介だから⋯⋯」
「⋯⋯っうん」


 ぽつぽつと話す陣平を見ていると、気が付けば涙が溢れていた。その雫を指先で何度も拭い、名前は不格好に笑う。


「わたしの夢にもいつか出てきてくれるかなあ、萩くん。もう一回、夢でいいから⋯⋯っ会いたいな」
「出てくるさ。どーせ俺らのこと、ずっと見ててくれるんだろうからよ」


 ごろりと天井へと向いた陣平が、徐に手を伸ばす。真っ直ぐに天へと向いたその手は、何かを鷲掴むようにして宙を握った。
 

「葬儀は通例通りの日程でやるんだと。心はまだ置き去りだっつーのに、あいつの最期の準備だけが進んでいきやがる⋯⋯けどそれが終わったら、最期の別れが来ちまったら、俺らもちゃんと⋯⋯前向かねえとな」
「⋯⋯っ、うん」
「──約束だからな、萩」


 陣平のその拳に、どんな重みの約束が詰まっているのか。名前が知ることは終ぞない。

 カーテンの向こうが白んでいる。今日も世界は朝を迎える。夜を終えたくないと願う人にも、何よりも早く朝を迎えたいと願う人にも、いつかの一瞬の永遠とわを願う人にも、世界は残酷なまでに平等だ。ベッドの中、ちいさなこの場所で傷を舐め合う名前達にも、等しく朝日が差す。

 いつかこの、世界の無慈悲な正しさに。

 救われることもあるのだろうか。