星を鷲掴む





 萩原の葬儀には、多くの人が参列した。

 その光景に、隣に佇む喪服を纏った陣平が「⋯⋯萩、見てるかよ。これがお前の人望だ」と呟く。誇らしさの中に一縷の悲しみが宿ったその声は恐らく、名前にしか聞こえなかったことだろう。しかしそれは名前の心に、消えることなく沁み込んだ。

 多くの参列者の中に、同期の諸伏達の姿を探す。絶対に来ているはずなのだが、なかなか見つける事が出来ない。仕事の都合が付かなかったのだろうか。そう思い、陣平に問うてみようかと口を開きかけた、その時だった。

 名前よりもやや早く、陣平が小さく唇を動かす。
 
 
「⋯⋯千速」


 陣平の視線の先。人と人の間を縫うようにして、静かに近付いてきたその人。見覚えがある。あの日、写真で。「陣平ちゃんの初恋の相手」だと、萩原が言っていた。

 ──萩原千速。

 現神奈川県警に所属しているという、陣平の初恋の相手であり、そして。

 萩原の、姉だった。

 
「陣平。久し振りだな。⋯⋯まさかこんな形でお前に会うことになるとは、思いもしなかったよ」
「⋯⋯ああ」


 会うのは久し振りなのだろう。短く挨拶を交わす二人の表情は、一ヶ月前に名前が想像したものとは大きく掛け離れていた。

 あの時──千速の写真を前にした陣平を見た時は、不安に思ったものだ。陣平と千速が再会してしまったら、陣平は千速のもとへ行ってしまうのではないかと。あの頃の気持ちを思い出して、瞳を輝かせて、名前を見もせずに。

 ──こんな形で、会いたくなかった。

 こんな形になるくらいなら。幼稚な嫉妬を剥き出しにして、陣平と喧嘩をする方がずっとずっと良かった。

 そう考えていた時、千速が名前へと視線を移す。名前は慌てて頭を下げた。

 
「苗字名前と言います。萩⋯⋯研二くんとは高校が同じで⋯⋯この度は⋯⋯」


 この度は、御愁傷様です。

 そんな決まりきった言葉を紡ぐことが出来ない。言葉に詰まってしまう。そんな名前の肩にそっと手を置き、千速は、その顔にやわらかな、そして切ない笑みを浮かべてみせた。

 
「研二から聞いていたよ」
「え⋯⋯わたしのことを⋯⋯ですか?」
「陣平の彼女がどんなに良い子か、あいつと会う度に散々聞かされたものさ」


 短く言葉を区切り、千速が目を伏せる。


「あいつと一緒に笑ってくれて⋯⋯ありがとう」
「⋯⋯っ」


 言葉にならず、名前はただ、ふるふると頭を振った。

 たくさん伝えなければならないことがあるはずだ。萩原が名前にとってどんな存在なのか。萩原がいたから、今の自分達があるのだと。萩原が遺してくれたものを、伝えなければならないのに。

 言葉が喉に張り付いてしまって、剥がすことが出来ない。剝がしてしまえば、その痛みとともに涙が溢れてしまう。名前達の前で気丈に振る舞い、涙を見せない千速の前で。

 震える唇を噛み締める。千速の穏やかな瞳がそれを映す。その光景を──陣平が何も言わずに見ていることに気が付いて。名前はそっと、一歩足を引いた。
 
 気丈な女性ひとだ。

 悲しみの程度など比べられるものではないが、それでも、余りにも唐突に弟を失ったその悲しみは、今名前達が感じているものの比ではないはずだ。それでも崩れぬよう強く地を踏みしめ、参列者さえ慮ってくれている。

 名前がいるからだ。

 名前がいるから、千速は泣けないのだ。陣平と二人きりなら、或いは。幼い頃からの思い出を手繰り寄せながら、萩原を想い、悼む時間を持てるはずなのだ。

 それは、遺された者にとって絶対に必要な時間だ。

 萩原に似た千速の瞳が再び陣平に向く。二人の間に会話が生まれるまでに生じた短い隙間で、「陣平くん」と小声で呼び掛ける。

 
「わたしお手洗いに行ってくる。式終わったら先に帰るから、ちゃんと、ゆっくりお話してね」
「けどお前⋯⋯」
「ね、陣平くん」
「⋯⋯、分かった」
 

 僅かな逡巡を見せたのち、陣平が頷く。それに頷き返し踵を巡らせた時だ。ぱしっと手首を掴まれ、引かれる。振り返る。

 
「──名前」
「ん?」
「今日、お前んとこ帰ってもいいか?」


 その言葉に、名前は些か目を見開いた。そしてすぐに首肯する。

 
「うん。待ってる。気を付けてね」
「おう。お前こそな」


 千速に今一度頭を下げ、今度こそ踵を返す。振り返ることは、出来なかった。







 家のチャイムが鳴ったのは、式が終わってから暫くしてのことだった。陣平はどんな様子で立っているだろう。どんな言葉を掛けようか。そう考えながら急いで玄関に向かい扉を開けると、小難しい顔をした陣平が何事かを思案していた。
 

「⋯⋯ただいま?」
「あはは、おかえり」


 この家に来て開口一番、何と言おうかと迷っていたのだと悟り、名前はくすくすと笑う。ただいま。おかえり。少し、擽ったい。
 
 そうして目尻を下げていると、革靴を履いたままの陣平に、不意に抱き竦められる。
 

「わ⋯⋯っぷ?! 」


 胸板に顔を押し付けられ、そのままぎゅうっと腕に力が入るものだから、体躯を締め付けられた名前からは些か苦しそうな声が出た。「ど、どうし⋯⋯」と問うた名前の耳朶に、陣平の吐息が掛かる。

 
「不安に思ってるんじゃねえかと思って。お前、気遣って千速と二人にしたりするから」
「⋯⋯ふふ、大丈夫だよ。もう、大丈夫なの」


 陣平が、大丈夫にしてくれた。
 先程名前を引き止め、この家に帰ってきても良いかと問うてくれたのは、明らかに名前のためだった。あの日名前が“不安だ”と言ってしまったから。陣平は名前が不安を覚えないように、ここに帰ってきてくれたのだ。

 陣平の胸に、頬を預ける。

 
「たくさんお話できた?」
「⋯⋯ああ。お陰さんでな」
「よかった」


 心の底から良かったと言えた。言えて、良かった。こんな時に嫉妬に狂ってしまうような人間でなくて良かった。もしそうであったなら、自分自身に幻滅してしまうところだった。

 外の空気を纏い未だひやりと冷たい陣平から身体を離し、「さ、陣平くん」と両掌を合わせる。

 
「帰ってきたばっかりでごめんなんだけど、着替えたら少しだけ付き合ってくれない?」
「いーけど⋯⋯こんな時間にどこ行くんだ?」
「ちょっとだけ、夜のお散歩」







 十五夜もとうに過ぎ去った晩秋の夜空に、ちかちかと星が散らばっている。街の灯りが僅かに途切れる大きな公園の奥、樹木に囲まれ街灯の灯りも遮られた場所。ベンチに腰を下ろし、名前は静かに空を見上げていた。その横顔を窺う。

 名前の意図が、まだ読めない。

 読めないが、その瞳が酷くやわらかであるから、陣平も不思議と穏やかな心地でいられた。そうして暫く待っていると、名前が静かに口を開く。


「むかし弟にね、聞かれたことがあって」
「⋯⋯?」
「お母さんが死んじゃった時、弟はまだすごく小さくて、死ぬってことを分かってなかったの。でもお母さんが動かなくなって、そしていなくなっちゃったってことは分かってたから⋯⋯わたし、困っちゃって」


 ああそうか。と、陣平は心の中で呟く。

 萩原が亡くなってからというもの、名前は常に、陣平のために心を砕いてくれていた。陣平が萩原の死とともに生きていくために、生きていけるように。名前自身の痛みよりも、陣平の心を想ってくれた。
 
 今度は、名前が。受け入れる番なのだ。
 

「死んだら人はお星様になるんだよ、って。気付いたら口を衝いてた。そういう死生観で生きてきたわけではなかったから、本当に、“気が付いたら”っていう感じだったんだけど⋯⋯弟はそれなら理解出来たみたいで、『そっかあ、おそらでぴかぴかになるんだね』って」


 そう教えたことが正しかったのか。良かったのか。悪かったのか。今でも分からないのだと、名前は睫毛を伏せた。

 
「それから寝る前には弟と空を見るのが習慣になって⋯⋯そのうち、昔誰かが『人は死んだら星になる』って言ったのも分かるなあって思ったの」
「⋯⋯そうか」
「もう手は届かなくて、触れることすら叶わないけど⋯⋯そこに“いてくれる”のなら、わたしももう少し頑張って生きれるなって気持ちになれたんだ。どうしていなくなっちゃったの、よりも、いつもありがとうって前を向けそうな⋯⋯そんな気がして」


 わたしばっかり喋ってごめんね、ちょっと子どもっぽいかな。と笑った名前の目に、涙は浮かんではいなかった。

 その瞳が空の向こう、宇宙の中を彷徨う。
 

「萩くんは、どこにいるかなあ」
「そーだな⋯⋯お、アレとかじゃね、あの自己主張強めなやつ」
「あはっ、萩くんぽい」
 

 強がっているのだ。陣平も。名前も。
 そんなの互いに分かっている。そうして虚勢を張りながら、時間を掛けて、萩原のいない世界で生きる術を見つけていく。

 だから今はこうして。
 足掻いて、足掻いて。


どうか叶うまで解かないで