日々を紡ぐと何になる





 情事のあと、ほぼ陣平に抱き上げられるようにしてベッドまで移動し、その心地のよい腕の中に収まった。

 そこまでは覚えている。 

 恐らくそのまま眠ってしまい、眠りが浅くなった時に肌寂しさでも感じたのだろう。ふと意識が浮上した名前は、軽く頭を持ち上げ、隣にいたはずの陣平の姿を探す。


「⋯⋯じんぺーくん?」


 静まり返った室内に人の気配はない。空気清浄機の音だけが、小さく規則的に耳に届く。気怠い身体を動かし、上体を起こす。やはり、姿は見当たらない。

 ベッドから降りる。下着姿のままだったので、取り敢えず身体に掛かっていた毛布を被り、室内を探す。

 財布は、ある。荷物もある。上着もある。ないのは携帯と、靴と、──そして陣平の姿だけだ。

 時計を確認する。深夜零時二十分。コンビニにでも行ったのかと一瞬思ったが、財布は置いていっている。こんな時間ではあるが散歩、或いはどこかへ煙草でも吸いに行っているのだろうか。

 通りに面する窓のカーテンをそっと開ける。街灯が朧気に照らす夜に目を凝らすと、玄関から少し離れた街灯の下に、ぽつりと。探していたシルエットが佇んでいた。


「うわ、いた!」
 

 案外すぐに見つけられたことに驚き、独り言を溢していた。
 
 街灯のポールに背を預け、片手をポケットに突っ込み手元に視線を落とすその姿。手元がぼうっと光っているところを見ると、携帯を触っているのだろう。その人物が陣平だということは見て取れるのだが、表情までは窺い知ることが出来ない。今陣平がどんな顔をしているか、分からない。分からないのに。

 何故だか、──胸が痛む。

 もうすぐ冬を迎える空の下。寒々とした真夜中。上着も着ずにひとり佇むその身体を、抱き締めたくて仕方がない。ひとりじゃないよ、と。抱き締めたくて、仕方がないのだ。


「⋯⋯陣平くん」
 
  
 気付いた時にはルームウェアを身に着け、玄関にあったサンダルをつっかけ、外に飛び出していた。

 しんと静まった夜は音がよく響く。
 名前が玄関を出た音も、地面を駆ける音も。陣平の耳にはすぐに届いたようで、音の出処を探すように顔を上げた。そして、陣平に向かって突進してくる名前の姿を認め、ぎょっと目を見開いた。

 それに構わず、陣平の胸に飛び込む。


「うお、名前か、ビビった⋯⋯何してんだよ」
「何って⋯⋯陣平くんこそ。こんな寒いのに、そんな格好で」
「俺は別に、外の空気吸おうと思っただけで⋯⋯起こしちまったか?」
「ううん。陣平くんが隣にいなくて寂しかったみたいで、身体が勝手に起きちゃった」
「はは、何だそれ」


 くつくつと肩を揺らした陣平が、抱き留めた名前の額を撫でる。くしゃりと掻き上げられた前髪が、少しの癖を残して音もなく落ちる。

 
「けど、だからってこんな時間に外出てくんな。危ねえだろーが。しかもそんな格好でよ」
「大丈夫だよ。家からここまでこんなに近いもん。目と鼻の先。それに陣平くんだっているし」
「甘いぜ名前。この日本でも、一瞬目を離した隙に起こった事件なんて掃いて捨てるほどあんだよ」
「け⋯⋯警察の人にそう言われると返す言葉もない⋯⋯」


 いつもの調子で会話をしながら、陣平の身体をぎゅうぎゅうと抱き締め続ける。いつまでも陣平にしがみつき離れようとしないそんな名前を不思議に思ったのか、陣平は首を傾げた。

 
「⋯⋯? どーした? そんなに寂しかったか?」


 陣平を見上げる。普段と同じに名前を見下ろす表情に、今しがた見たばかりの、ひとり侘びしく佇んでいた陣平の立ち姿が重なる。

 刹那、胸の奥がきつく握り締められて。
 
 陣平の背に回した手に力を込め、呟いていた。
 
 
「陣平くん。⋯⋯一緒に暮らしませんか」
「⋯⋯!」


 僅かに開かれたのは陣平の眼裂。次いで幾らか遅れて名前の眼裂。驚きに見開かれた双方の双眸が、互いを映している。瞬きだけを繰り返す陣平と。瞬きも忘れ硬直する名前。

 ──無意識だった。

 あんなに彼是迷っていたくせに、いつの間にか口にしてしまっていた。陣平をひとりにしたくない。その想いが何かを突破してしまい、気付けば口を衝いていた。

 この突拍子もなければムードもへったくれもない提案を、陣平はどう思っただろう。恐恐と瞳を覗き込むと、陣平は今一度、おおきく瞬いた。
 
 
「お前──」
 
 
 その呆然とした声色に、きゅうと瞼を閉ざす。陣平の胸板に顔面を押し当てる。返答を聞くのが怖い。もっとゆっくりと話すつもりだったのに、何故今、こんな風に。そんな後悔が過ぎった、その時だった。

 
「おいコラ。言うの早えっつーの」
「えっ⋯⋯? んむ」


 驚いて上げた顔。その瞬間両頬をむにゅりと潰され、圧し出された唇が尖る。陣平は半ば呆れたような、怒ったような、何とも言えない表情で名前をじいっと見つめてから口を開いた。

 
「ったく、俺が今何してたと思う?」
「え⋯⋯外の空気吸いながら携帯弄ってた」
「いや⋯⋯そうなんだけど⋯⋯そうじゃねえだろ⋯⋯」
「? そうじゃないの?」


 返ってきたのは大仰な溜め息。いつもよりも煙草の匂いがする。恐らく名前が来る前に一服していたのだろう。
 
 
「そうじゃなくて⋯⋯あいつに送ってたんだよ。『一緒に住もうぜって言うことに決めたぜ。やっとな』って。まあ、送ったところで受け取ってはくれねえんだけどな」
「あいつって⋯⋯」
「ああ。萩原に」


 ふと陣平の視線が、何かを追うように空に昇る。星が瞬く、晴れた冬空だ。陣平の瞳に反射するその夜空に、名前は束の間、見惚れた。
 

「なんつーか⋯⋯ずっと一緒にいたからよ、何かあるとあいつに話す癖がついてんだろうな」
「⋯⋯うん」


 この先陣平が送り続けるのであろうメール。受け取ってもらう事の決して叶わぬそれには、どんな出来事が、どんな言葉が、連ねられていくのだろう。


「ていうか“やっと”って⋯⋯いつから考えてくれてたの?」
「んー、警察学校卒業するあたりかね」
「えー?! もっと早く言ってよお! すごい悩んじゃったじゃない⋯⋯」
「バーカ。俺だって悩んでたんだっての。そんな軽く言えるわけねえだろーが⋯⋯って、ここで話す事でもねえな。家入るぞ、お前冷えちまう」


 肩を抱かれ、家へと戻る。
 外に出てから陣平に抱き締められっぱなしだった名前は良いのだ。名前はともかく、陣平は末端が随分と冷たくなってしまっている。

 “冷えちまう”のは、陣平の方だ。

 陣平をベッドに押し込み、掛け布団をわんさかと掛ける。ついでに名前もベッドに潜り込み、陣平に手足を絡ませ微力ながら人肌の温度も分け与えるように擦り寄る。
 

「あったかい?」
「いやあっちーくらいだわ」
「あはっ。ね、ね、陣平くん、どうしよう、ここで暮らす? けど二人でずっと暮らすにはちょっと狭いよねえ。陣平くんの職場からも遠いし」
「⋯⋯決まった途端元気だなお前」
「だって! 嬉しいもん!」


 声を弾ませた名前に陣平が笑う。それから「でもなあ」と天井を見つめ、思案するように目を細めた。
 

「色々楽しく考えてーけど、まずは挨拶だな」
「あいさつ⋯⋯?」
「そ。名前の親父さんに。そもそも許してもらえっか分かんねえだろ」
「どこの馬の骨とも分からん奴に娘はやらーん! って?」
「おー、そうそう⋯⋯って冗談になってねえぞコラ」
「きゃっ、はは」


 脇腹を擽られ身を捩る。
 名前の父に会うというのは、陣平とて緊張するのだろう。指先の動きがなかなか止まってくれず、名前は暫く笑い転げる羽目になった。

 そうして漸く解放された時には、ふうふうと息が乱れていた。


「はー⋯⋯やられた⋯⋯」
「オメーが不吉なこと言うからだ」 
「ふふ、ありがとね、わたしの家族のことも考えてくれて。それじゃあわたしも陣平くんのご家族に──」
「いや、ウチは大丈夫だ」


 間髪入れず食い気味に返される。その断固とした態度に「な、何で?」と首を傾げると、陣平は視線を泳がせ頭を掻いた。

 
「いやほら、ウチは結構放任だしよ、俺がどこで誰と暮らしてようが気にしねえっつーか」
「⋯⋯あ、分かった! 陣平くん、ちょっと照れくさいんでしょ」
「⋯⋯うっせーな」
「ふふ」


 ぶすりと口を尖らせた陣平の頬を撫でる。寒風に冷やされていた頬は、とうに温まっていた。

 
「でもそんなわけにはいきません。大切な息子さんと暮らそうっていうんだから。わたしもちゃんとご挨拶したい」
「んなのいーってのに⋯⋯まあウチはぜってー良いっつーから、先に名前んとこにだな」
「うちも反対はされないと思うなあ、たぶん」
「多分かよ?」
「こういうの初めてだもん、仕方ないじゃない」


 未だ嘗て父親に恋人を紹介したことのない名前には──逆に父から、再婚するつもりだという相手を紹介されたことならあるのだが──、これは初めてのことだ。父がどういう反応を見せるのか、想像する事しか出来ない。

 いつかこうして巣立っていく名前のことを、父も、そして亡き母も、考えた事はあるはずだ。その時彼らが想像していた未来は、どういうかたちだったのだろう。

 そんなことを、ふと考える。


「でもきっと⋯⋯良いって言ってくれると思うなあ⋯⋯」
「⋯⋯お前は取り敢えずもう寝ろ、口回ってねーぞ」
「ん⋯⋯陣平くんも寝る?」


 霞む意識の中で思う。
 陣平もこのまま眠りにつけるだろうか。またひとり、夜の中に出て行ってしまわないだろうか。陣平の心の何かを、名前で埋めることが出来るだろうか、と。

 不安に寄せた眉根を、陣平の人差し指がぐりぐりと押す。「ああ、俺も寝る。だからオメーもさっさとそのしょぼくれた目ぇ閉じろ」と聞こえ、安心して目蓋を閉した。