日々を紡ぐと何になる





 こんなに顔を強張らせた──と言っても、陣平にとってはということだが──陣平は、初めて見た。

 スーツを着用し、サングラスを外し、ワイシャツの第一ボタンまで掛けて。煙草すら吸わずにスッと背筋を伸ばしたその姿に、堪え切れない微笑が漏れる。


「⋯⋯オイ、何微笑んでんだよ」
「ふふ、嬉しいなあって。首苦しくない?」
「そりゃ苦しいけど」
「大丈夫だよ? ボタンひとつくらい外したって」
「いーんだよ、んなの親父さんの心痛に比べれば──」


 その時だ。実家のリビングの戸がゆっくりと開いて。これまたスーツにかちりと身を包んだ名前の父親が、酷く緊張した面持ちで登場した。


「やだ、お父さんまでスーツ着てる⋯⋯!」
「ん⋯⋯ああ」
「会うの何だか久しぶりだね。元気だった?」
「ん⋯⋯ああ」


 完全に目が泳いでいた。
 どこへ視線を向けたら良いのか分からないのか、名前を見て、それから陣平を一瞬だけ見てはまた名前に視線を戻す、を繰り返している。
 
 そして名前の言葉を聞いているのかいないのか。空返事をする父は、自分の家だというのに妙によそよそしく椅子に掛けた。
 
 
「ちょ、ちょっと、そんなガチガチにならないでよお。わたしまで緊張してきちゃうじゃない」
「ん⋯⋯ああ」
「だ、だめそう⋯⋯!」


 父の返答に、名前はぺちりと自身の額を叩いてみせた。まさか父がこんな状態になるなんて。いや、これはこれで名前を大切にしてくれている気がして嬉しいのだが、兎にも角にも、どうしたものか。

 今何を話してもあまり耳には入らないかもしれないが、何も話さぬわけにもいかないので、取り敢えず陣平を紹介することにする。


「えっと、この間電話でお話した、お付き合いしてる松田陣平くんです。警視庁の爆発物処理班に所属してるの」


 と言うや否や、父と陣平、双方ががばりと頭を下げる。その勢いに、名前は反射的に身を引いた。


「わ、二人ともすごい勢い⋯⋯ていうか陣平くん膝におでこ打ってなかった⋯⋯?」
「いや、大丈夫だ、です」


 名前に向かって「大丈夫だ」、そして父に向かって「大丈夫です」と言いたかったのだろう。そんな滑稽な陣平に笑いを噛み殺している名前の横で、陣平は今一度背を伸ばし、名前の父に向き直った。


「松田陣平といいます。これまでご挨拶にも伺えずに済みません。本日お時間を取って頂いたのは、名前⋯⋯さん、と一緒に暮らさせていただきたく──」


 陣平の別人のような話し口に、名前は「えっ、誰?!」と目を見開いた。こんなに丁寧な言葉遣いが出来たのかと失礼ながらも感心しながら、恐らく人生で最も畏まっている陣平の、真剣な横顔をしみじみと見つめる。

 そんな時だった。

 
「──こちらこそ、宜しくお願いします」


 陣平の言葉を最後まで聞かず、父がこうべを垂れたのだ。ゆっくりと、そして丁寧に。予想しなかった父の反応に、陣平のみならず名前までもが目を丸くし、口を揃えて「「⋯⋯え?」」と呟いていた。

 口をぽかりと開けたまま父を凝視する名前と陣平。そんな二人に微笑みかけてから、父は、ゆっくりと話し出す。


「松田くん。知っての通り⋯⋯うちは早くに母親を亡くしてね。名前には随分と⋯⋯本当に随分と大変な思いをさせてしまった。自分のことはすべて後回しにして、母親の変わりをしてくれようとする名前に、私は大した事をしてやれなかった。⋯⋯父親なのに、だ。手探りで日常に戻ろうとしていた頃、『靴下は裏返さないで洗濯出してってばー!』なんて母親と同じに言われた時には、自分の情けなさに笑ってしまったものだ」


 話しているうちに少し落ち着いたのか、父は、今はしっかりと陣平を見ていた。

 
「家事、弟の世話、そして自分の学業や友人関係。誰よりも大変な思いをしていたくせに、名前は、家ではひとつも泣き言を言わなかった。まだまだ子供だった名前があの頃、どんなに多くのものを抱えていたか⋯⋯」


 父の静かな言葉が、陣平の記憶を呼び覚ましていた。

 あれは、陣平が高校一年生の時だったか。屋上で重ねた日々の途中。不意に触れた名前の心。堰を切ったように泣き出した名前を、あの日、初めて抱き締めた。

 あの時の名前を思い出すと、胸がつきりと痛む。あの頃感じなかった痛みを不思議に思い、そうしてすぐにその原因に思い至る。

 ──萩原を、失ったからだ。

 想像でしかなかったから。近しい人を亡くすということが、あの頃の陣平には想像することしか出来なかった。今になってその本当の意味を知り、あの頃の名前の心の痛みを知る。

 だから陣平は、ただ。父の言葉に頷いた。
 
 
「家で甘えたり、弱さを見せたり、そういう事をずっと我慢してきた子だから⋯⋯そんな名前が一緒に暮らしたいとまで思う相手に出会えたことに、心の底から感謝しているんだ」
「⋯⋯っ」


 初めて聞いた父の言葉。胸を打たれ、名前は瞳を潤ませる。名前を見る父の眼差しはひたすらに優しく、周りの空気に触れればぬくもりさえ感じそうな温かさを湛えていた。

 その光景に、陣平は一度、深く深く息を吸う。陣平が触れたことのない空気に思えたからだ。

 
「して、松田くん。爆発物処理班というのは」


 名前から陣平へと移った父の視線。そこに込められた意図に、陣平は膝の上で握った手に力を入れる。真っ直ぐに父を見て、はっきりと口にする。

 
「──危険は、あります」
「⋯⋯そうか。そうだろうなあ。その若さで、立派なものだ⋯⋯だが出来ればもう、名前に辛く悲しい思いは──」


 そこではっと言葉を区切った父は、ふるふると二度、首を振った。

 
「いや、滅多なことを言うものじゃあないな。どうにも臆病になってしまってね。気を悪くしないでくれ、済まなかった」
「⋯⋯いえ」


 父の気持ちは最もだ。そう陣平は思う。
 愛娘の相手なのだ。なにも危険な仕事に就いている人物を相手に選ばなくてもいいではないか。安定して穏やかな暮らしが送れればいいではないか。そう思う親心は、最もだと思う。

 それでも陣平は名前でなければならないし、名前もきっと、そう思ってくれているはずだ。

 だから、──だから。

 
「俺⋯⋯は、口も悪いし喧嘩っ早いし、出来た人間ではありません。けど名前のことは、俺が──⋯⋯いえ。ご両親から授けられ名前を守っていた幸せを、俺が、繋ぎます。必ず」


 俺が幸せにします、とは言えなかった。

 こんなにも愛され生きてきた名前は、どれ程の幸せに包まれた人間なのだろうと、陣平は思うのだ。無論いつも明るく穏やかに笑う名前だって、その身に余る大きな傷を抱えている。母を亡くした。萩原を亡くした。辛いことだって沢山ある。生きていれば幸福ばかりではいられない。それでも愛や幸せは、決して消えることはない。どんな時でもその人を守り、いつしか生きる糧となっているのだ。

 それならば。名前を守るその幸せを、今度は自分が繋いでいく。そうして名前を守れるような、そんな存在でありたい。

 祈りのように、そう思う。

 
「──⋯⋯」


 ──まさか俺が、こんなこと思うようになるなんてな。
 
 芽生えた感情に、自分自身で驚く。胸のあたりで蠢くこの感情を、上手く手懐けられない。陣平の知らぬ情動だ。どことなくむず痒くて、ぬくくて、少しだけ切なくて、少しだけ痛い。

 この感情には、何と名前が付いているのだろう。

 きっと名前と生きていれば、いつか知らず知らずのうちにそれを手にしていて、それがあるのが当たり前の人生になるのだろう。

 それは酷く、幸福なことに思えた。

 
「名前のことを、宜しく頼むよ」
「──はい」
 

 深々と頭を下げる陣平と、同じく頭を下げる父。双方の姿を、濡れた名前の瞳が映し、ここで紡がれた言葉のひとつさえも忘れないようにと記憶に深く刻み込んだ。

 そこから幾らか談笑したのち、また今度ゆっくり食事でもと約束を交わし、実家を出る。途端、陣平ががっくりとへたり込むものだから、名前は慌てて陣平を覗き込んだ。


「えっ、じ、陣平くん? 大丈夫?!」
「っは〜〜〜これまでの人生で一番緊張した、マジで⋯⋯ちょ、悪い、今だけ煙草吸わせて⋯⋯外だし⋯⋯」
「陣平くんが! 死にそう! 禁断症状?! 早く! 早く吸って!」
「ヤクみてえに言うなよ⋯⋯」


 カチ、とライターが鳴って。煙草に火がつく。陣平の煙草の匂いだ。「あー」とか「はー」とか、白煙と共にとにかく何かを吐き出しまくっている陣平に腕を絡め、名前は言う。


「陣平くん、ありがとう。わたし感動しちゃったんだ」
「知ってる。泣き過ぎだっての」
「ふふ。陣平くんのせいだもん」
「何でだよ? 普通のことしか言ってねえだろ」
「え、うそ、無自覚なの?」
「あん?」


 何言ってんだ? と言いたげな目を向けられ、名前は肩を揺らす。

 だって、まるで結婚するみたいだったよ。
 
 とは流石に口に出来ないのだが。陣平に頭を預け、そんな未来を想像してみたりして、頬を緩めるのだった。



 

 数日後、陣平の実家に挨拶に行った。

 陣平の家族は、何というか、名前の家とは真反対の反応だった。「ええっ?! この子と一緒に暮らしてくれる?! な、なんてお礼を言ったらいいのか⋯⋯」「陣平、不自由な思いさせてみろ、生きては帰れねえぞ」「何か嫌なことがあったらすぐに教えてね、うんと懲らしめますから」等々、口々に言う笑顔が余りにも怖くて、陣平のみならず隣にいた名前までもが姿勢を正した。

 というのは余談だ。