とある不動産屋の一角。机上に幾枚もの資料が散りばめられたテーブルで、本日何度目か分からぬ言い合いが凝りもせずに再勃発していた。
「だーめーだ!」
「なーんーで?!」
「そこは街灯が少ねえっつってんだろ。おまけに駅から遠いし。却下だ却下」
椅子にふんぞり返るようにして座り足を組んでいる陣平が、しっしと手のひらを払う。
「でも築浅だしお部屋も広いし家賃もちょうど良いもん! 遠いって言っても今のわたしのお家と変わらないし、明るい表通りから一本入っただけじゃない!」
対する名前は、些か過保護が過ぎる気がする陣平の態度に、嬉しさを感じつつも対抗してしまっていた。
不動産屋に来て随分と時間が過ぎたが、一向に新居が決まる気配がないのだ。一見良いかと思われた物件も、必ずどちらかの譲れない部分が満たされない。
「駄目っつったら駄目。毎日一緒に帰れるわけじゃねえんだから、安全面が第一だ」
「む〜〜〜心配してくれるのは嬉しいけど、これじゃ決まらないよ⋯⋯」
資料に視線を落とし眉をハの字に傾けている名前の、その横顔を見詰め、ちいさく溜め息を吐く。そもそもは名前がこんな風姿をしているのが悪いのだ。これでは痴漢暴漢の思う壺ではないか。
その陣平の視線に気が付いた名前が、顔を上げる。
「? なあに?」
「いや⋯⋯オメーが横綱みてえな女だったらなと思ってよ」
「は⋯⋯⋯⋯はい?」
どこかぼんやりと呟きながら、陣平は想像する。横綱のように四股を踏んで暴漢を張り倒す名前を。そして間髪入れず「いや無理か」と天井を仰ぐ。
「お前さあ、実は合気道の達人だったりしねえの?」
「は⋯⋯?」
「⋯⋯んなわけねえよなあ。ったく、こんなことなら柔道黒帯くらい取らせとくんだったぜ」
「⋯⋯だ、大丈夫陣平くん? 疲れてきちゃった?」
名前は首を傾げる。陣平は武道の嗜みがある女性が好みだったのだろうか。いや、もし仮にそうだとしても今ここで突拍子もなくする話ではない。もしかすると、多忙な仕事の合間を縫っての部屋探しが負担になってしまったのかもしれない。そう心配した名前が、不安そうに陣平を覗き込む。
すると「いや全然? つーかそんな近距離に来たらキスするぞ」と頬を抓られ、名前は真っ赤になって身を引く。
その様子を、四十代と思しき担当者が困惑を通り越した苦笑いで見守っている。それも無理のない話だ。言い合っていたかと思えば結局はイチャつきだすこんなやり取りを、目の前で幾度となく繰り返されているのだから、対バカップル特別手当でも出なければやっていられない。
その不憫な担当者を一瞥してから、陣平は人差し指でトンットンッと軽く資料を叩いた。
「おいオッサン。もっと良い物件ねえのかよ?」
「お、オッサ⋯⋯」
「あ?」
「い、いえ。ですが今ある物件で条件に合うのはこれで全てで⋯⋯入居を春まで待って頂けると、もう少しご案内出来るのですが」
陣平の横柄な態度に、担当者が焦ってキーボードを叩き出す。そんな時だった。別の担当者がそっと近付いてきて、新たな資料が手渡される。小声で数言を交してから、担当者が名前たちに向き直る。
その表情は明らかに、「これでこの客から解放される⋯⋯!」と嬉々として語っていた。
「たった今、近々退去となる物件が出まして⋯⋯! ご予算は多少オーバーしてしまうのですが、その他はご希望に添えているかと」
「オーバーだ? どんだけ負けてくれんだよ?」
「ふふ、こーら、陣平くんてば」
頼もしいんだか、行き過ぎているんだか、どこまでが冗談なんだか、とにかく口が悪く態度も大きい陣平を窘め、資料に目を通す。
立地良し。間取り良し。設備良し。セキュリティー良し。家賃だけが確かに少しお高い。が、手が出ない程ではない。
本来であればすぐにでも内見したいところであるが、まだ住人がいるためそれは叶わない。故に参考写真で判断するしかないのだが、それを見る限りでも二人の理想に近かった。
「陽当たりも良さそうだし、わたしここがいいな。家賃は食費とかで上手に遣り繰りするから!」
「そうだな。ベランダが防犯的には心配だけど、洗濯物は部屋干しにして防犯グッズ盛って⋯⋯」
などとブツブツ呟いてから、陣平が「んじゃあここで決まりで」と告げたことで、長かった戦いに幕が下りる。
斯くして、振り返ってみれば案外すんなりと新居が決まったのだった。
家具家電類は名前が既に持っているもので大方賄うことが出来たので、新しく買う必要がある大きなものといえば、二人で寝るベッドくらいだった。
ということで、不動産屋を出た足で二人はホームセンターに来ていた。ずらりと並ぶベッドを前にして、取り敢えず目についたダブルベッドに腰掛け、名前は顎に手を当て考える。
「シングルのままじゃちょっと窮屈だよねえ。セミダブルかダブルか⋯⋯いっそクイーン⋯⋯?」
「おう、どうせならデッケェの買おうぜ。ついでに激しく動いてもヘタらなさそうなヤツ」
「? 陣平くん寝相悪いから?」
「は? ベッドですることっつったらオメー抱く以外に何があんだよ?」
「な⋯⋯」
正面に立っていた陣平の、臆面もない口振りと、呆れたような眼差し。それを受けた名前はぱくぱくと口を開いては閉じ、開いては閉じる。
こんな公衆の面前で、なんて事を言うのだ。
「つーか俺そんな寝相悪くねえし。キャスター付いてる椅子並べただけの即席ベッドでだって寝れるんだぜ」
謎のドヤ顔で良く分からぬ自慢をし始める陣平に、「それは⋯⋯そういう特殊な場所で寝てる時だけでは⋯⋯? ていうかそんなとこで寝ないでよ⋯⋯?」と、気を取り直して返す。
隣で寝ていて危害が加わることはないが、決して“良い”とは言えない陣平の、どこか少年のような寝相を思い出す。自然と顔が綻んでいた。
「こら。何だよその顔」
「ふふ、いいじゃない。⋯⋯あ、そうだ! わたし抱き枕も欲しいんだった!」
「抱き枕?」
「陣平くん、当直の日があるでしょ。これまでは一人に慣れてたから良かったけど⋯⋯これからは、一人の夜が堪えちゃいそうな気がして」
きっと、欲張りになっていくのだ。
声が聞けるだけで良かった。顔を見れるだけで良かった。そのはずなのに、そんな幸福がいつしか“当たり前”になっていき、自分の空白を埋めるためだけに際限なく欲張りになっていく。
だからきっと、陣平がいない一人の夜は、陣平の体温が恋しくなってしまう。広くなるベッドに生じるその空白を、大きな抱き枕で歪に不格好に埋めて。朝が来るのを待つのだ。
「何だか⋯⋯ちょっとだけ怖いね。戻れなくなっちゃいそう」
「バーカ。戻る必要なんてねえし、そんな必要も生じねえよ」
くしゃっと乱暴に撫でてくれた頭。そこに自分の手のひらを軽く重ねる。だから、結婚するみたいな言い方なんだよなあ、なんてことを思い、頬が緩む。
「? さっきから勝手に笑ってたり寂しがってたり忙しい奴だな。ほら、ベッドも抱き枕もデケェの選ぶぞ」
自然と伸びてきた手に引かれ、立ち上がる。その顔を見上げ、出来るだけ陣平っぽい──陣平っぽい?──抱き枕を買おうと心に決めるのだった。
最短での入居を目指し手を尽くした甲斐あって、数週間後には晴れて引っ越しが完了した。
年を新たにした、一月下旬のことだった。
まだ段ボール箱の積み上がった部屋の中。二倍ほどの横幅になったベッドで、二人で掛け布団に包まる。そこは正真正銘。二人だけの居場所だった。
「明日からここに陣平くんがいると思うと、ちょっとやばい。なんか泣きそう」
「はは、涙腺爺さんかよ」
「⋯⋯せめて婆さんにしてよお」
瞳を潤ませながら笑った名前の目尻に、陣平はキスを落とす。
「起きたら名前の顔見て、名前の飯食って、仕事したら名前んとこに帰ってくる。⋯⋯俺の方こそやべえな」
「泣きそう?」
「いや悪いけどそれはねえ」
「じゃあわたしの方がやばいね、きゃ、ははっ」
減らねえ口はどれだよ、と擽られ、名前が身を捩る。その身体に陣平が覆い被さったのを合図に、二人の間に甘やかな沈黙が流れて。どちらからともなく、唇を重ねる。
こうしてこの部屋で迎える初夜に、溺れていくのだ。