日々を紡ぐと何になる





 麗らかな陽差しが注ぐ。空気を入れ替えるために開けていた窓のレースカーテンが、春風に揺れた。新しい生活も数ヶ月が過ぎ、花々の芽吹く春になっていた。

 陣平と再会してから、約一年。
 目まぐるしく変化した環境の中、二人で同じ家で過ごす日々にも随分と慣れ、暗黙のルールや互いの時間のバランスなども程良くなり、ストレスのない暮らしが送れるようになった。

 そんな金曜日の朝だ。二人で食卓を囲みながら、名前は「そういえば」と切り出した。


「わたし、今日飲み会で遅くなるね」
「ん⋯⋯ああ、前言ってたやつ。今日だったか」
「うん。歓迎会、って言いたかったところなんだけど、今年度は人の入れ替えがなかったから、まあこの時期に託けたただの飲み会だよ。リハ室のみんなで」
「分かった。気付けろよ。何かあったら何時でも連絡しろ、迎えに行くからよ」


 先に寝ててね、と言おうとしていた名前は、呆気に取られて陣平を見る。それからゆるりと口元を和らげた。


「ふふ」
「あ? 何だよ」
「今日も朝からわたしの彼氏が素敵です」
「おう、だろ?」
「あはっ」


 年度始め、各部署で歓迎会が行われる中、人事に変動のなかった名前たちは変わらぬ顔ぶれで、他部署に対抗するかのように飲みに繰り出ることになったのだ。ちなみに年度末は皆の都合が合わず“一年間を労う会”が出来ていなかったので、今回はその意味も含んでいるのだとかいないのだとか。

 夜は適当に外で済ませるから、と言って先に家を出る陣平を、玄関で見送る。革靴を履いた陣平は、サングラスを片手に持ち名前を振り返った。


「いいか? 毎回言うけど飲み過ぎんなよ」
「うん」
「終電前に帰れそうなら電話しろ。駅まで迎えに行く」
「⋯⋯でも、今日訓練の日でしょ? きっっついやつ。やっぱり先に寝て──」
「電 話 し ろ」
「はいっ、了解しました! ありがとう!」
「初めからそう言っとけ。んで、終電より遅くなるならちゃんとタクシー使えよ」
「うん」
「ん。じゃあ行ってくる」


 言いながら、陣平が少し屈む。「行ってらっしゃい」と顔を上げると、後頭部を引き寄せられ、唇が重なる。いつもよりも少し長く、そして少し強引なキスだった。

 キスのあと、名前の頭を一度だけ撫でてからサングラスを掛け、ドアの向こうに消えていったスーツの背中に、ぽつりと。「⋯⋯毎日格好いいんだよなあ」と、ひとり溢した。

 その後、名前の携帯に「俺も飲み会になったわ。ソッコーで帰るから名前よりは家着くの早いと思う。⋯⋯マジで心の底から行きたくねえ」とメールが入っていたのは、勤務を終え、店に移動している最中のことだった。






 
「あー⋯⋯疲れた⋯⋯」


 厳しい訓練が漸く終わった。椅子に全体重を預け座り込み、ほぼ無意識に煙草を吸う。疲労が全身にのしかかり、思わず「今日は帰ってもあいついねえのか⋯⋯」と呟いていた。
  
 陣平が日勤の日は、大抵名前の仕事が終わる方が早い。陣平が帰宅する頃には、美味い夕飯を拵え、風呂を沸かし、「おかえりー!」と玄関まで迎えに来てくれる。

 こんな日こそ、そんな名前に癒やされたいのに。悲しきかな、名前は今夜は不在である。それならばせめて上手い飯とビールでも腹に入れなければやっていられない。さてと、どこで飯食って帰るかな。と考えていた、そんな時だった。


「オウ松田、誰がいねえって?」
「⋯⋯聞いてたんすか」
「いや、どっちかっていうとお前が一人で勝手に喋ってたんだけどな」


 背後からひょこりと顔が覗く。三期上の先輩だった。人付き合いが得意で、誰とでも楽しく会話が出来るタイプ。少々口は悪いが陣平程ではなく、人当たりは良い。が、多少強引なところがあり、かつ誰彼構わずすぐに踏み込んだ話をしたがるので、陣平は苦手だった。


「んで、誰がいねえの?」
「誰でもいーだろ」
「相変わらず敬語の使えないやつだなコノヤロ」
「イッテ⋯⋯」


 額の正中に強烈なデコピンを食らう。本気でやりやがったな、とぶすっと不貞腐れながら、仕方なく答える。

 
「⋯⋯彼女っすよ、同棲中の。職場の飲み会だっつって」
「ほお、そりゃあ丁度良かった。んじゃあお前も飲みに行こーぜ」
「は⋯⋯飲み? 行かねえよ、俺はパスで」


 何かを払うように片手を上げてみせる。しかし彼がそれを気に留めることはなく、むしろ笑い飛ばされてしまう。
 

「はは、相変わらず付き合いワリーな。けどたまには付き合えよ。どーせ帰っても飯ねえんだろ? 今日は奢るし。爆処ここの奴らと親睦深めようぜ⋯⋯ってのはまあ建前で、悪いけど今日は先輩命令だ」
「? 何で」
「何でもだ」
「パワハラっすね」
「残念だったな。お前の辞書にパワハラの文字はねえ」
「はあ?」


 無茶苦茶な言い分に声を荒らげる。すると逆に「ああ゙?」と滅茶苦茶に凄まれた。

 その凄み方、爆処じゃ勿体ねえぜ。刑事にでもなった方が良いんじゃねえの。と口を衝きかけた言葉を丸呑みする。ここまで無理矢理誘ってくるのは、彼にしても珍しい。もしかすると何か重要な話でもあるのかもしれない。酒の場でしか進まない話というのも、確かにあるにはあるし。と思い、苦虫を噛み潰す心地で肯定を絞り出す。
 

「⋯⋯⋯⋯うっす」
「よろしい。では着替えて来給え」


 その言い草に頭の血管が数本切れるのを自覚する。これだからこの人は苦手なのだ。疲労困憊だった身体に、更なる心労が積み重なったではないか。


「くっそ⋯⋯いつかムショにぶち込んでやる」
 

 悪態をつきながら重たい身体を引き摺るようにしてロッカールームに入り、真っ先に名前に一報を入れる。そして最短で切り上げる方法だけを考えながら、渋々着替えを始めるのだった。






 
「何が飲み会だよ?! 合コンじゃねえか!」


 陣平の怒声が轟いていた。
 
 爆処の面子と向かった店。通されるがままに足を向けた席には、目を疑う光景が広がっていた。女、女、女、そして女。陣平たちと同じ数だけの女が、座って待っていたのだ。


「いやー、ごめんね遅くなっちゃって。今日の訓練きつくってさあ」


 などと笑いながら挨拶をしている首謀者──勿論陣平をこの場に誘った男である──に、陣平は躙り寄る。この時の陣平ときたら、まるで鬼神のようだった。と、この場に居合わせた者はのちに語ったという。


「オイ先輩。何すかこれ」
「まーまー。松田の写真見せると女の子集まるんだよ。たまには付き合えって」


 席から距離を取るように移動しながら、彼は無実でも主張するかのように両手を肩の位置まで上げた。

 そんなところがいちいち、癇に障る。


「だから俺彼女いるっつってんだろ! 他の女に興味なんてこれっぽっちもねえ。しかも俺の写真だ? 人の顔勝手に使いやがって⋯⋯俺は帰るぜ」
「こらこら待て松田! お前が来るならってここに来てくれた子もいるんだぜ? それにお前よー、普段俺らに世話になってんだろ? ここは俺の顔立ててさ、たまには恩返してくれよ」
「世話になんてなってねえっすよ」


 売り言葉に買い言葉。
 上下関係なんのそのの言い合いに、相手は不意に、眉を下げた。
 

「っとにお前は、萩原がいねえと一匹狼だねえ」
「⋯⋯萩は、関係ねえ」
「まあ、ほら、喋んねえで飯食ってくだけで良いからさ」
「チッ⋯⋯俺には彼女いるって言ってくれんだろーな」
「ああ、いいよそれでも」
「そこはいーのかよ」


 結局本当の魂胆は分からず、もやもやと晴れぬ心のまま、絆されるようにして席に戻される。途端、勢揃いしている女の姿が目に入り無性に苛立った陣平は、一番端の椅子にドカッと音がするほど乱暴に座った。

 取り敢えずビールを頼み、少しだけ正面の様子を窺う。何やら女が座っているのだが、顔は全く目に入らない。代わりに胸部だけが目に入る。
 
 何を隠そう、乳だけが、無駄にデカイのだ。

 本人もそれを分かっているのか、その存在が主張されるような服を着ているのだから詮方ない。谷間が見えるだとかのあからさまなものではないのだが、何かこう、無意識に胸に目が行ってしまう服装をしているのだ。

 これが悲しき男の性か。
 と、陣平は頭を抱える。

 その女は、他所行きのような笑みを貼り付けて、陣平に向かって聞きたくもない自己紹介を始めた。それを「あっそ」と一蹴し、ただひらすらメニューに視線を落とす。

 この場は奢ってくれるというのだ。こうなったら高級なものから順に頼んで、せめてもの嫌味とさせてもらおうか。なんて底意地の悪いことを考え、手当たり次第に注文する。そんな陣平の意図に気付いたのか、隣の席から不穏な視線を感じるが、陣平は些かも気にせず頼みまくった。

 そうして酷く退屈な時間──腹だけは順調に膨れていく──が幾らか過ぎ、ふと手洗いへと立ち上がった時だった。「待ってえ松田くーん! 私も一緒に行くー!」と、正面の席の女が後を追ってきたのは。

 
「あ? 便所くらい勝手に行け」
「でも私酔っちゃって心配でぇ」
「何が心配なんだよ何が」
「そんなの何でもだよー」


 にこにこと笑いながら、女は、有ろう事か陣平に腕を絡めてきた。むぎゅり。腕に胸が当たる。その感覚に悪寒が走った。ぞわりと鳥肌が立つ。
 
 
「っ、離れろ! 触んな!」
「えー、なんでぇ?」
 

 その甘ったるい話し方にも、まるで「男の人は好きでしょ? こうされるの」と言いたげな上目遣いにも、吐き気がする。相手が女だろうと関係ない。力づくで振り払おうとした、その瞬間だった。

 
「じ⋯⋯陣平くん?」
「──⋯⋯名前」


 名前が、目の前に現れたのは。