考えては、いたのだ。
無理矢理とはいえ仮にも合コンに参加することになってしまったことを、名前に言うべきかどうか。
知ったらあいつ、何て言うかな。
知らなかったら、どう思うかな。
大変だったねと笑うだろうか。それとも、例え付き合いでも、例え欠片ほどの興味がなくても、参加するなんてどうかしていると怒るだろうか。
──自分なら、と考える。
もし、名前が陣平の知らないところで合コンに参加していたら。陣平であれば確実に後者の対応を取る。百パーセントで、だ。情状酌量の余地などない。それなのに、名前の優しさに託つけて前者を期待するなど、どうかしている。こんなのはただ、自分の後ろめたい行動を許してもらいたいだけだ。
それに、こんな事で名前に嘘は付きたくない。隠しておくなど有り得ない。だから名前にはすべてを赤裸々に話すと、そう決めた。
だが、今は名前も飲み会中であるし、そこに電話をして水を差すのも気が引けた。故に、この場を早々に切り上げて帰宅し、名前を迎えてから包み隠さず話すつもりだった。
その判断を、後悔した。
目の前の名前の顔を見て、自分を殴り飛ばしくなった。何故、あの席に腰を下ろすことになった時点で伝えなかったのだろう。──いや、違う。そうではない。何故、無理矢理にでも帰らなかったのだろう。無理強いされた合コンひとつ駄目にしたくらいで壊れるような人間関係なら、そんなもの、
女性用トイレから出てきた直後、陣平を見たまま硬直しっぱなしの名前が、呆然と呟く。
「じ⋯⋯じ、じんぺーくん⋯⋯飲み会って⋯⋯」
「名前、違えんだ」
「でも、なんか⋯⋯腕に女の人くっついてるけど⋯⋯」
「うお、まだいたのかテメ⋯⋯ッ離せって言ってんだろ!」
「いったぁ⋯⋯ひどーい」
空気も読まず腕に抱き着いたままだった女を、今度こそ振り払い、引っぺがす。
が、名前は未だ呆然としたまま、「あの⋯⋯どうぞごゆっくり」などと頓珍漢なことを言いながら陣平の横を通り抜けようとする。まるで陣平の話など聞きたくもないとでも言うように、下を向いて。
焦って、その腕を掴む。
「名前! 待て! ちゃんと聞けって!」
「⋯⋯他の女の子がくっついてた手でわたしに触らないで」
その言葉にハッとし、思わず手を離す。離さなければ良かったのに。これ以上名前の嫌がることをしたくないという防衛心が働いて、手を、離してしまった。
それでもまだ何かしらの方法で、引き止めることは出来たはずなのだ。
──この女さえいなければ。
「ねー、もしかしなくても彼女? なんかごめんねぇ」
意図的なのか、ただの馬鹿なのか。
この期に及んで陣平に付き纏おうとするこの女さえいなければ、名前と、きちんと話が出来るのに。
第一何なのだ、何故これ程陣平に絡んで来るのだ。その理由を、陣平がついぞ知る事はないのだが、この女、ただ顔面がいい男とワンナイトを楽しみたいだけのヤリモクである。加えて自身は先月、随分と入れ込んでいた恋人に酷い振られ方をしており、世のカップルを全てを破滅させたくて仕方がないという、迷惑極まりない衝動を抱えていた。これが此度の行動原理であるらしい。
閑話休題。
何はともあれ、ふらふらと離れていく名前の名を呼び、追いかけようとする。
「⋯⋯っ、名前!」
その時だ。「松田? 何してる? 騒がしいぞ」と、元凶である男が様子を見に来たものだから、陣平の怒りの鉾先がこの男に向いてしまうのも仕方がない。
怒りに任せ、胸倉を掴み上げる。
「アンタのせいで面倒なことになったじゃねえかコラ!」
「な、何があったんだよ?」
「あっ、聞いてよぉ! 私たった今、松田くんに突き飛ばされてー」
「は?」
その様、まさに混沌である。
この場面──胸倉に掴み掛かる陣平と、自身への暴力を訴える女──を運悪く通り掛かった若い店員が目撃してしまう。店員は陣平が止める間もなく、慌てて「お、お客様?! て、店長を⋯⋯!」と店の奥に走って行ってしまい、あわや警察を呼ぼうかという話まで聞こえてくる。冗談じゃねえ、と舌打ちする。事実無根もいいとこだし、こちとら全員警察関係者だっての。
陣平がそんなすったもんだを繰り広げている間に、名前はとうに席に戻っていた。
半個室の暖簾を潜り腰を下ろす。隣に座っていた後輩の和泉が「お帰りなさい苗字さん。頼んでたお酒届いてますよ」と顔を上げる。
上げて、和泉はぎょっと目を開いた。
「え、ちょっ、どうしました?!」
それもそのはず。ただ手洗いに行っただけのはずの名前が、今にも零れ落ちてしまいそうな涙で、ぷくぷくと両眼の縁を満たしているのだから。
和泉が焦る横で、名前は運ばれてきたばかりのグラスに手を伸ばす。泣くのを堪えるように結ばれていた唇をグラスの縁に付けたかと思うと、その喉に一気に流し込み始めた。
ごくり、ごくり、ごくりと。白い喉元が頻りに上下する。
初めて見る名前の突然の行動に、和泉は呆気に取られ、ぽかんと口を開けていた。その間にも名前の喉が止まることはない。はっと我に返り名前を止めようとした頃には、既にグラス内の酒は尽きようとしていた。
「ちょ⋯⋯ちょっと苗字さん?! 大丈夫ですか?!」
「大丈夫じゃなーい! 飲む! 今日は飲むもん! 和泉くんそのボタンで店員さん呼んで!!」
完全におかしかった。未だ泣きそうなままの顔には、“自暴自棄になってやる”という気概が、異様に満ちている。
何があったか分からないが、とにかくこれは不味い、と。和泉は思う。
「だ⋯⋯駄目です、何頼む気ですか」
「焼酎ストレート!」
「焼酎?! ストレート?!」
「たーのーむーのー!」
「苗字さん焼酎なんて飲めないでしょ?! カシオレにしときましょう、ね? ほら見た目も味も可愛いですよ?!」
「そんなのやだ。いいから店員さん呼ーんーでー!」
「嫌です!」
「じゃあ自分で呼ぶ!」
完全にただただ面倒な駄々っ子と化していた。埒が明かない。和泉は助けを求めるように都の方を見る。が、そっちはそっちで失恋したばかりの同僚の話を熱心に聞いており、とても手が回りそうにない。
「ま⋯⋯まずは落ち着いて下さい。俺で良かったら話聞きますから」
「話なんて何にもないもん⋯⋯」
「あはは、そんなわけないじゃないですか」
子供のように意地を張る名前の前で、和泉が困ったように笑う。こんなところまで可愛いく愛おしいと思えてしまうのだから、恋とは厄介なものだ。
和泉のそんな胸中に対して名前は、ただ目の前に広がった和泉のいつも通りの笑顔に、少しだけ。少しだけ、毛羽立っていた心が収まるのを感じていた。ふと力が抜ける。話を聞いてもらいたいと、抑制が緩む。
「そんな顔してて、何もなかったわけないでしょ」
「い⋯⋯和泉くーん⋯⋯」
「話したらきっと楽になりますよ」
「ありがとう⋯⋯でもお酒は頼む⋯⋯」
「あっ、ちょっ⋯⋯もう、抜け目がない!」
和泉が気を抜いた途端、死守していた店員呼び出しボタンを名前が押す。和泉が止めるのも聞かず勢いで頼んだ焼酎。それに恐恐と口を付け、名前は「⋯⋯美味しくない」と呟いた。それでも着実に体内にアルコールを取り込んでいく名前に注意を払いながら、和泉は首を傾げ、顔を覗き込む。
「どーしました? トイレから戻ってきてから変ですけど」
「その⋯⋯同じお店に⋯⋯陣平くんがいて」
「え⋯⋯ああ、苗字さんの彼氏の?」
覚悟はしていた。名前をこんな状態に出来る出来事など、人物など、そうそう多くは存在しない。だから、覚悟はしていた。片想いの相手の、恋の相談を受けることになるかもしれないと。
しかしいざ名前の口から男の名が出ると、和泉の心にはおどろおどろしい感情が容易く満ちる。
「陣平くんがね、う、腕に女の子くっつけてたの⋯⋯どーいうこと⋯⋯」
「⋯⋯え?」
「陣平くんは嫌がってたみたいに見えたけど、でもそもそも、なんで一緒に⋯⋯」
言葉にすることでついに我慢が利かなくなったのか、名前の目から涙が溢れる。
ほろほろと。音もなく。
和泉は慌てて、自身の鞄をまさぐる。しかしハンカチが入っているはずもない。こういう時のためにハンカチは持っておかなければならないのか。などと、果たしてこの先使い道があるのか分からぬ理由で持ち物をひとつ増やそうとしている間に、名前はぐびぐびと焼酎を飲んでいた。
「って、あー! そんな一気に飲んじゃ駄目ですって!」
「だって⋯⋯さっき見たこと、忘れたいよお」
「苗字さん⋯⋯」
名前の眼裏に、こびりついている。先程の光景がこびりついて離れない。涙は止まるどころか勢いを増していき、頬を濡らす。酒のせいか泣いているせいか、頭が痛む。思考がぼやけていく。
今も、この店のどこかで。陣平が見知らぬ女といるのかもしれないと思うと、名前の心は悲鳴を上げた。まさか陣平が軽々しく浮気をするとは思っていない。思っていないのだが、目の前で見たあの光景が、陣平を信じたいという気持ちを切り刻んでくる。
嫌だ。ここに居たくない。見たくない。聞きたくない。逃げたい。その一心で、幹事を務めていた三十代半ばの理学療法士に泣きつく。
「せんぱあい! わたしこのお店嫌です、早く次のお店行きましょうよお!」
「うわ、苗字、珍しく酔って⋯⋯って何泣いてんだよ?!」
「ここから出してください〜〜〜」
「な、何がどうなって⋯⋯和泉? 苗字のやつどうした? こんな風になってるの初めて見たぞ」
突然流れ弾に当たって困惑している上司から、和泉は名前を引き剥がす。
「あーもう苗字さん、そんなに泣かないで⋯⋯ひとまず俺と外出てましょう、春風にでも当たって少し落ち着いて。もう少しで次の店移動する時間ですし、それまで外で話しながら待ってましょう。ついでにその悪酔いも醒ましましょう。ね?」
「はるかぜ⋯⋯?」
「そーです春風! ちょっと寒いかもですけど」
「⋯⋯そうする」
こくりと頷いて。名前は和泉に連れられ、店の外へと出て行った。