夢みたいな話をしよう





 カシャリと机に玩具が乗る。これから直そうというそれを見下ろして、陣平は溜め息をついた。


「あー⋯⋯何やってんだ俺」


 名前の涙と、抱き締めたときに指の間を滑り落ちた髪の感触が脳にこびりついている。

 気が付いたら身体が動いてしまっていた。だから仕方がないと言えばそうなのだが、思い返せば随分と恥ずかしい。我ながらよくもまあ赤面モノの台詞を並べ、そうして抱き締めたりなどしたものだ。

 ──恋人でも、ないのに。

 がしがしと頭を掻く。
 そのせいで、自分の髪とはまるで異なっていた名前の髪が思い出されてしまって、どことなく身の置きどころがなくなった陣平はベッドにダイブをキメた。

 天井を見つめる。煌々と灯る照明が眩しくて、片手を瞼の上に置く。


「なんだってんだよ⋯⋯」


 自分の心が分からない。何故、こうもざわつくのだろう。自分で捉えきれない心の動きが、酷く不快だった。余っている片手で胸の前のシャツを掴む。まるで心臓まで一緒に掴んでしまった気がして、すぐに離した。





「直ったぜ 喜べ」


 これが、陣平からはじめて送られてきたメールだった。昼間泣きすぎて未だ熱を持っている瞼に冷たいタオルを当てながら、初メールの余韻に浸る。

 思った通り、淡白な文面だなあ。

 タオルに隠れた瞼の裏で何度も文字をなぞる。気付けばタオルがぬるくなってしまっていて、名前はようやく返事を打つ。


「わーいやった! ありがとう!」
「おう 褒めていーぞ」
「すごい! 天才! 器用!」
「褒めのレパートリーの稚拙さよ」
「いいじゃない、褒めてるんだからー
明日は昼休み用事あって屋上行けないの
休み時間に教室に取りに行ってもいい?」
「了解」


 たかだか数往復しただけの、素っ気ないメールだった。それでも名前の胸は確かに温度が上がっている。携帯を閉じるのが惜しい。

 そんなことを思っている自分に苦笑し、名前は明日が来るのを待った。





 翌日の休み時間、名前は一年生の教室の廊下を歩いていた。名前はあまり覚えていないのだが、一年生の中には名前を覚えている生徒もいるようで、時折「あ、入学式のときの人だ」「生徒会の用事かな」といった声が耳に入る。

 陣平のクラスを聞くのを忘れていた名前は順々に教室を覗き、二つ目でその姿を見つける。入り口から声をかける。


「陣平くーん、来たー!」
「おー」


 席に座っていた陣平が振り返る。同時に、陣平の前の座席に寄り掛かって話をしていたらしい男子生徒も顔を上げた。彼は名前の姿を認め「あれ?」と声を出し、陣平よりも先に名前に向かってくる。柔和な雰囲気で、少しタレ目の。

 見覚えがある。確か、彼は。


「わお、なになに、いつの間に陣平くんなんて呼ぶ仲になったんですか?」
「えっと確か、萩⋯⋯くん」
「そーっす! 萩原っす! 覚えててくれたんですね、俺のこと」
「陣平くんがいっつも話すもん。萩がどうした、萩がこうした、って」
「? いっつもって?」


 萩原にそう問われ、名前は慌てて首を振る。まさか「いっつも立入禁止の屋上でダベってます」なんて言えるはずもない。


「その、たまに校内で会ったときとかに⋯⋯そ、それにそういえば、わたしの学年でも有名だよ、萩くん。女の子の間で」
「えー、そりゃあ嬉しいな」


 ほぼ初対面でのこの人懐こさに、この笑顔。名前はふむ、と納得する。これは女子が騒ぐわけだ。


「けど校内でたまに会うだけで陣平くん呼びになるかなー」


 そうして様々な恋愛経験──というよりも人間経験か──をしているからか、萩原は、人間関係の機微に非常に鋭かった。

 しかし屋上のことがバレるわけにいかない名前も必死である。


「だってね、最初は苗字知らなかったし、陣平ちゃんって呼んでいいのは萩だけだ、なんて言うんだもん。だからそう呼ぶしかなくて」
「へえー⋯⋯俺だけ? 初耳だなあ、陣平ちゃん?」
「うっせーな黙れバーカ」


 後からやって来て話を聞いていた陣平が、萩原に向かって悪態をつく。そしてその顔のまま名前を見遣り、「お前も余計なこと言ってんな、バカ」と額の真ん中を人差し指で押す。

 萩原がにやにやと陣平を見る。陣平はぶすりと口を曲げ、名前はころころと笑った。

 昨日、陣平が受け止めてくれてから、驚くほど心が軽くなった。いつもより笑顔が転がり落ちる。人様の胸であれだけ泣いてしまうと、いっそ清々しい心地だ。振り切ってしまって恥ずかしいという気にさえならない。

 そこでばちりと目が合って。陣平は人差し指で自分の瞼を指しながら、唇で「は れ て や ん の」と文字を作った。音のない唇の動きを読み取った名前は、明らかに面白がっている笑顔につっかかるより、この変化に気が付いたという事実に目を丸くした。

 よく、分かったものだ。いつも一緒にいる友達さえ気付かないくらいには、しっかりと冷して腫れを抑えてきたはずなのに。

 慧眼に素直に感心していると、萩原が問うてくる。


「で、名前先輩、陣平ちゃんに何の用っすか?」
「ちょっと預けものを⋯⋯ていうか萩くんすごい、あの一回でわたしの名前覚えたの?」
「トーゼン。俺が自分から聞いた女の子の名前忘れるような男に見えます?」
「あはっ、いいえ、見えません」


 陣平をそっちのけで会話に花を咲かせる二人の間に、陣平はずいっと袋を差し出した。無論袋の中身は陣平が修理した玩具である。


「ほらよ」
「うわあ、直ってる⋯⋯すごい⋯⋯ほんとにありがとう、陣平くん」


 ほわりと咲くのは名前の笑顔。
 その不意打ちに、陣平は束の間瞬きを忘れて魅入ってしまった。すぐに我に返りそっぽを向いたが、心なしか頬が熱いのは気のせいだろうか。


「何すかこれ? おもちゃ?」
「うん、弟のなの。陣平くんが直してくれて」
「へえ。陣平ちゃん、こういうの昔から得意っすからねえ」
「そうなんだね、道理で⋯⋯ねえ、昔からって、二人はいつから一緒なの?」
「ガキのときからっすよ。あ、よかったら今度色々昔話しましょうか? ここじゃあ陣平ちゃんがウルサイから話せないけど、二人でお茶でもしながら」
「うん! する──、っいた」


 意気揚々と挙手した名前。名前の手が挙がった瞬間、人差し指で再度名前の額正中を押した陣平。ぶつかり合った両者の視線からは火花が散っている。


「そんなもんすんな! 聞くな!」
「なんでよお、聞きたいもん!」
「すーんーな!」
「しーたーい!」


 小学生のような言い合いをする二人を見て、萩原が一言。


「やっぱたまに会うだけの奴らの距離感じゃねえんだよなあ。⋯⋯相手が俺ならともかく、陣平ちゃんだし」


 その呟きは誰の耳にも入らず、休み時間の喧騒に、飲まれて消えた。