日々を紡ぐと何になる





 春の夜風はまだ肌寒い。建物の合間を抜ける強い風に煽られた髪が、寒々しく頬に掛かる。


「⋯⋯苗字さんの彼氏、そんなことする人ですかね?」
 

 俺にはそうは見えないけどなあ。
 和泉はそう呟いて──本当はこんなこと口にもしたくないのだが──、店先の壁に凭れた。足元では名前が膝を抱えてしゃがんでいる。

 外に出た途端、名前は口を噤み、この格好になった。それから無言のまま五分は経っただろうか。痺れを切らした和泉がこうして先に口を開いたのだ。
 

「⋯⋯って、あれ? 苗字さん?」


 反応が返って来ず、隣にしゃがんで名前の顔を覗き込む。
 
 
「あ! 寝そう! こんなとこで寝ないで下さいよ?! 苗字さーん?!」
「⋯⋯ふふ、寝ないよお、大丈夫」
「十秒後にはバリバリ寝そうな感じですけど?!」


 うつらうつらと瞼を揺れ動かしていた名前が、とろんとした口調で笑う。そういえば以前、都が言っていた。一定量を超える酒を摂取すると、名前はすぐに寝てしまうのだと。
 

「もう、あんな風に飲むから⋯⋯少し歩きましょうか? 眠気覚めるかも。いやどうかな、歩けるかな、ちょっと立ってみて下さい」


 差し出された和泉の手を取り、名前が立ち上がる。少しふらつきはしたものの、両足でしっかりと地を踏みしめ立つことが出来た。「歩ける。おさんぽしたい」と言って大人しく佇んでいる名前は幼稚園児のようで、和泉は笑ってしまう。

 店が立ち並ぶ繁華街。歓迎会シーズンということもあって、どこも人が入っているようだ。そんな雑踏と喧騒の隙間を、ゆっくりと歩く。そうするうち少しはっきりとしてきたのか、名前はぽつぽつと話し出す。


「⋯⋯しないんだ。そんなこと」
「え?」
「さっき和泉くん、お店の外で言ってくれてなかった? 陣平くんはそんなことしないと思うけどなあ、みたいなこと」
「ああ、あれ。聞こえてはいたんですね。言いましたよ」
「しないんだよ⋯⋯しないって、あの場面見た今でも思ってるの。何かのっぴきならない事情があったんだろうなって⋯⋯なのにいつまでも胸がもやもやしてて⋯⋯わたし、口先だけで『信じる』なんて言って、全然信じれてないみたい」
「ああまた泣く」


 再度頬を濡らし出す名前を見下ろして、和泉の歯が、ギリッと音を立てる。

 “名前の彼氏”というだけで陣平は腹立たしい存在なのだ。和泉には許されていないその場所に居座っておいて、名前の心を貰っておいて、それにも関わらずこんなに名前を泣かせるような事をして、しかも何のフォローにも来やしない。恐らく陣平にも何かしらの事情があったのであろうが、そんなものは只の言い訳に過ぎない。例えどんな事情があろうとも、陣平は、名前を悲しませる事をするべきではなかった。

 名前に想いを寄せて早一年。
 
 これでは、いつまで経っても名前を諦められないではないか。陣平がこんな事をするせいで。いつか自分にもチャンスが転がってくるのではないかと、一縷の望みを抱いてしまうではないか。


「あのね苗字さん。目の前で自分の彼氏が他の女といるところ見て、もやもやしないわけないじゃないですか。どんな事情があったって、単純に、嫌じゃないですか。信じる信じないじゃなくて。しかも事前に知らされてもなかったんですから。だから苗字さんが自分を責める必要はこれっぽっちもないんです。抱いて当然の感情なんだし、むしろ、怒っていいのに⋯⋯」


 怒ってくれたら、良かったのに。
 そうしたら和泉も一緒になって陣平に怒って、責めて、その涙を拭って抱き締めるのに。

 どうして名前は、こんなにも。


「⋯⋯和泉くんは、いつも優しいね」
「そりゃあ勿論。苗字さんのことが好きですからね」
「⋯⋯⋯⋯え?」
「はは、やっぱり今でも気付いてなかったんだ」


 はたりと足を止め、大きくしばたく。和泉は今、何と言っただろう。

 
「苗字さんちょっと抜けてるから。一年経っても気付かないの、もう俺、一種のギャグだと思ってました」
 

 名前より軽く二歩分だけ進んでから足を止めた和泉が、振り返る。真正面から名前を見下ろす双眸は、この上なく直向きなものだった。聞き間違いなどではない。そう、思わされてしまう。
 
 
「俺、苗字さんが好きです」
「──⋯⋯っ」
「だから、苗字さんが泣いてたら辛いし、少しでも力になりたいし、もし⋯⋯もし誰かといることでそれが和らぐなら、一瞬でも忘れられるなら、俺が何だってしたいです」
 

 酔いは未だ回ったままなのに、脳のどこか一部分だけがはっきりと起きていて、和泉の言葉を理解している。その乖離に違和感を覚える。まるでこの光景を、もう一人の自分が傍から見ているかのように。現実であることは間違いないのに、どこか現実味がない。
 

「苗字さんのこと、こんなに泣かせて⋯⋯俺なら泣かせないのに。俺のこと、──好きになればいいのに」


 一歩。和泉の足が名前に近付く。圧迫感はない。ないのだが、その直向きさに気圧され、背筋を僅かに反らしたくなる。
 
 
「⋯⋯って、ほんとは思ってます。でも、それが叶わなくても俺⋯⋯苗字さんの側にいられるのなら、どんな関係だっていいんです」
「い⋯⋯和泉くん⋯⋯?」
「言ってる意味、分かりますよね。俺、本気です。不安な気持ちも、寂しい気持ちも、俺で埋められるのなら埋めたい。それがほんの一時だけでもいい。苗字さんに見てもらえるだけでいい。そのくらい苗字さんが好きです。⋯⋯今だけでも、俺のとこに来ませんか? 俺じゃ、少しも力になれませんか?」