日々を紡ぐと何になる





 緩く手を取られ、そのまま引かれる。
 和泉の言っている事が、理解出来なかった。いや、理解出来ないと思いたいだけだろうか。“都合の良い関係”で良いから自分を選んでくれ、と。そんなことを和泉が口にしたことが、信じられないだけだろうか。

 和泉の想いに身を委ね、何かを埋めた気になるまやかしの未来が一瞬、脳裏をよぎる。しかしそれは、後味の悪さだけを残してすぐに掻き消えた。

 和泉は、可愛い後輩だ。明るく素直で優しく、人を傷付けるような事はしない。分別だってきちんとしている。そう名前は思っていた。

 そんな和泉が、こんなことを言うなんて。

 これ程の想いを抱え込んでしまう前に気付けなかった自分は、何と愚鈍なのだろう。何も知らずに陣平のことを相談したりして、和泉は一体、どんな気持ちだっただろう。


「──苗字さん」


 名を呼ばれる。弾かれたように顔を上げると、静かで穏やかなのに、どこか不安げに瞳を揺らした和泉が、名前をじっと見詰めていた。

 これ程までの慕情を抱いて貰えることは、本当に嬉しい。心の底からだ。しかし和泉は名前にとって、可愛い“後輩”なのだ。

 応えることは、出来ない。  
  
 しかし名前が応えなかったら。和泉の想いはどこに行ってしまうのだろう。こんなに大きな感情を、果たして人は正しく処理し、きちんと手放すことが出来るのだろうか。

 もう一度、今度はもう少しだけ力強く、手を引かれる。踵が浮き、重心が前にずれる。何とかしてこの手を解かなければと思うのに。傷付けないように。傷付かないように。その方法が、分からない。

 絡まった感情が、容易く足元を掬ってくる。立っている感覚が揺らぐ。気を抜けばこのまま足を滑らせて、流されて、混沌とした感情の渦に落ちてしまいそうだ。

 そのことに恐怖を感じ、ぎゅっと眉を寄せた、──その時だ。
 

「──名前ちゃん。駄目だよ」
「⋯⋯っ?!」
「それは、“情”だ」
「え⋯⋯うそ⋯⋯景──っんむ」


 矢庭に現れた人物。その姿に名前は瞠目した。人目を遮るように被られたフード。夜に紛れそうな影を落としたフードの下でも、見紛うはずなどない。その人の名を、名前が呆然と口にしかけた瞬間だった。やわりと口を塞がれて。人差し指を唇の前に立てた彼に、し、と目線で合図される。

 ──諸伏だった。

 半年振りだろうか。会わない間に髭を伸ばした諸伏は青年らしさが身を潜め、酷く大人びて見えた。

 まるで、住む世界が違うみたいに。

 そういえばいつか、陣平が言っていた。「零と諸伏は、何つーか⋯⋯難しい仕事なんだ。あんま詳しく言えねえんだよ、悪いな」と。非常に言い難そうにしていたので、名前もそれ以上は聞けなかった。国を守る、警察という組織。名前には知ることの出来ない内情が数多あるのだろう。

 聞きたいことは山程あるし、何よりも驚きが収まらない。それでも全てを飲み込み、諸伏に向かってこくりと一度、頷いてみせる。諸伏は口元に穏やかな笑みを浮かべ、名前の口を覆っていた手を離した。

 懐かしい声が問うてくる。


「ごめん、二人が立ち止まったあたりから聞いてたんだ。⋯⋯何がどうしてこんな事になってる? 松田は?」
「あ⋯⋯そうだった陣平くん⋯⋯」


 和泉の告白が衝撃的で、一瞬忘れていた。そうだった。陣平。陣平の事をあーだこーだと考えていたはずなのに。

 思い出した瞬間、名前は気が遠くなるのを感じた。考えることが多過ぎる。その上それぞれが無駄に重たくて、アルコールにやられた頭では追い付かない。無理だ。余裕で積載量オーバーである。

 目眩がする。突として酔気が戻ってくる。諸伏と会ったことで、張り詰めていたものが完全に切れてしまったせいだ。安心してしまったせいだ。

 そんな名前を見て、諸伏は困ったように笑う。


「このまま俺と一緒に帰ろう。何があったか分からないけど、今の名前ちゃんが何かに判断を下すのは、懸命じゃない」
「⋯⋯景くん」
「ね。帰ろう」
「⋯⋯っ、うん」


 素早くタクシーを止める諸伏から視線を移し、名前は、おずおずと和泉を見上げる。


「和泉くん、その⋯⋯本当にありがとう。迷惑かけてごめんね。ちゃんと⋯⋯ちゃんと、考えるから」
「ま、待って下さい苗字さん⋯⋯ていうか誰⋯⋯知り合いですか?」


 これに答えたのは諸伏だった。
 何気ない表情で和泉を見ているように見えるが、その瞳だけが、奥に静かな厳しさを潜ませている。

 
「ああ、心配だよな、急に現れて君の想い人を攫って帰るなんて。でも大丈夫。何となく良い事言ってる感じを装って、何だかんだホテルに連れ込もうとしてる君よりは、ずっと大丈夫な人間だよ」
「──!」
「さ、今日はここまでだ。君も⋯⋯早く帰るといい」
「⋯⋯ッ」
 

 その穏やかな圧力に、和泉は口を噤む。言い返す言葉など、名前を引き止める言葉など、あるはずがなかった。

 タクシーの座席にその身を沈めた名前を、和泉の苦しげな瞳がただ、見送っていた。