日々を紡ぐと何になる





「──あ、起きた」


 薄っすらと開いた視界。見知らぬ天井を認識するより先に、諸伏の声が聞こえた。束の間考える。何故、諸伏の声が──?

 その瞬間、全ての状況を理解した名前は飛び起きた。身体を横たえていたのはシックなソファ。胸元まできちんと掛かっていたらしい毛布が、腹部にはらりと落ちる。傍らのローテーブルの脇に座っていた諸伏が、「寝てていいのに」と腰を上げた。間髪入れず、土下座する勢いで頭を下げる。

 
「ごっ、ごめんなさい! 人様のソファで寝コケちゃって!」 
「大丈夫だよ。むしろソファで悪いなと思ってたんだ。けど俺が使ったベッドも嫌だろうし⋯⋯それより水飲むか?」
「⋯⋯飲む。ます」
「はは、うん」

 
 穏やかに笑って、諸伏はキッチンへと足を向ける。その背に向かって「タクシーから運んでくれたんでしょ⋯⋯? ごめんね、重かったね」と項垂れると、「いいや」と何気ない返事が返ってくる。

 いくら諸伏とはいえ、そんな訳はないのだ。脱力しきった成人女性ひとりを運ぶのは、本当に大変だったと思う。それを微塵も匂わせない優しさが健在していることに、安心する。

 持ってきてくれたグラスに氷の浮いた水が揺れている。至れり尽くせりに礼を言い、水を数口流し込む。冷たい。冷たくて、目が冴える。

 今一度諸伏を見遣り、控え目に訊ねる。
 

「景くん。ちゃんと⋯⋯元気だった?」


 久しぶりに見る姿。少し痩せただろうか。警察学校を卒業する時、皆で集まったのが遠い昔のようだ。たった半年ほどしか経っていないのに。もうあの時間が戻って来ないことだけが、明白だった。正しく奇跡のような時間だったのだと。今更ながら思う。


「⋯⋯ああ、元気だよ。忙しいけどね」
「⋯⋯そっか。零くんも?」
「うん。元気だ」
 

 当たり障りのない世間話が出来ることが嬉しかった。きっと、今日が終わればまた会えなくなってしまう。次会う約束も出来ないだろう。そう思うと、生産性のない会話を出来るだけしておきたかった。

 しかし、そうも言っていられない。
 
 早く陣平とのことを解決しなければならないし、諸伏も──何故あの場にいたのかは分からないが──休息を取るなり仕事を片付けるなり、やらなければならないことが数多あるはずなのだ。
  
 流れゆく静穏な時間に宿る名残惜しさを振り切って、名前はぽつりと問う。

  
「⋯⋯景くん」
「ん?」
「聞かないの?」
「名前ちゃんが聞いて欲しいなら」


 これに返事をするのに、一秒も掛からなかった。少し寝たおかげか頭はすっきりとしているし、酔いも随分と醒めている。

 
「聞いてほしい。話したい。長くなっちゃうかもだけど、聞いてくれる?」
「もちろん」
「⋯⋯ありがとう」


 手にしていたままのグラスをテーブルに置く。膝の上の両手を見下ろし、名前は暫く言葉を選んだ。


「何か⋯⋯こんがらがっちゃって。陣平くんのことも、和泉くんのことも。本当はあの場で陣平くんの言い分を聞ければ良かったんだろうな、と思うんだ。そしたら今頃こんなに拗れたことにはなってなかったんだろうなあって。まあ今だからそう思えるって話で、その時はびっくりしちゃってとても無理だったんだろうけど⋯⋯」


 諸伏は名前の言葉に時折頷き、話しやすいような相槌を挟みながら耳を傾けてくれている。
 

「わたしは何が嫌だったんだろうなって考えるの。もちろん陣平くんが他の子にべたべたされてたのも、すごく嫌だった。わたし、大人になった陣平くんが女の子といるの、萩くんのお姉さん以外で初めて見たんだ。お姉さんの時以上に嫉妬することなんてあるのかな、って思ってたけど、全然あった。何なら今日はあの時の嫉妬が可愛く思えるくらいで⋯⋯ちょっと自分が怖いの」
「はは、いや、あの時の嫉妬は誰から見ても可愛いものだったよ」
「え、そう⋯⋯なの⋯⋯? 世の中そんなもの?」
「ああ。そんなものさ」


 痴情の縺れで、人は死ぬ。死ぬことがある。警察官である諸伏は、そのことを良く知っている。

 恋愛は人を容易く狂わせることが出来る。これまでどんなに穏やかで虫一匹殺せなかったような人でも、人間は豹変するのだ。だからこそ、和泉への対応は慎重にならなければならないと、あとでしっかりと伝えねばならない。
  

「けど、それよりも嫌だったのは⋯⋯何も教えてくれなかったことなの。一言言ってくれれば良かったのになあって。事情があったんならわたしだってちょっとは聞くし⋯⋯承諾できるかは別にしてだけど」


 内緒にされていたことが。隠されていたことが。本当に疚しい気持ちがあったかのように見えてしまって、何も信頼されていない気がしてしまって、今まで築いてきた関係が一方的なものなのだと言われている気がしてしまって。

 辛いのだ。

 そんな訳ないはずなのに。陣平から貰った日々は、これくらいの出来事では霞みもしないはずなのに。積み上げたものが崩れるのは本当に一瞬なのだと、その瀬戸際を実感している。

 そして何よりも。こうして簡単に揺らいでしまう自分の弱さが。──一番嫌なのだ。 


「みんな多かれ少なかれ隠しておかなきゃならないことはあるのかもしれないし、隠し事の全部が全部悪いとは思わないよ。でもわたしは、こういうことはちゃんと言って欲しかったって思っちゃうタイプみたい。⋯⋯だから、不安なの。この先わたしは、手放しで信じることが出来るような、出来た人間なのかなって。また陣平くんが飲み会に行くってなった時に、今回のことを持ち出して疑っちゃうような⋯⋯そんな嫌な彼女にならないかなって。自分のことなのに自信がなくて、不安なの。またちゃんと⋯⋯わたしが、もとに戻れるかなあ」


 諸伏がゆっくりと瞬く。瞼の間で名前の言葉を噛み砕き、しっかりと理解しようとしてくれている気がして、名前は息を呑んでその所作を見つめた。
 

「戻れるさ。それにそれは、名前ちゃんが努力したりすることじゃないよ。全部松田がやらなきゃならないことだ。名前ちゃんはただ、松田が齷齪と信頼回復に努めてるところを、胡座かいて見てればいい」
「ふふ、強い」 
「それくらいでいーんだよ、名前ちゃんはちょっと優し過ぎるから。今だってもっと怒って良いのに」 
「⋯⋯怒る?」 
「そう。⋯⋯例えばそうだな。名前ちゃんと松田が全く逆の立場だったとしたら、どうだ? 松田はどうなってる?」
「そりゃあもう、どっかーん! と」
「ね。大抵の人間は怒って然るべきなんだよ、こういうことは。名前ちゃんだってそうだ。我慢が出来たり、無意識に良い子でいようと出来るのは名前ちゃんの良いところだけど、それはやっぱり蓋をしてるだけで、上手く目を背けてるだけで、根底にはその気持ちはあるはずなんだ。いつも“そう”だと、どこかで辛くなっちゃわないか?」


 静かな問い掛けに、名前は一度、唇を閉じる。じっと諸伏を見つめてから、少しだけ首を傾げた。

 
「⋯⋯景くんもそうだから?」
「⋯⋯え?」
「景くんも“そう”だから、そういうふうに言ってくれるの?」
「──さあ、どうだろう」


 にこ、と誤魔化すように笑った諸伏の顔には、「今は俺のことは良いんだよ」と強めに書いてあって、名前も笑いながら肩を竦める。それから諸伏は何事もなかったのように話を続けた。
 
 
「何はともあれ、今の名前ちゃんはぱーっと心を発散させちゃったほうが良いように見えるけどな。ちなみに何か言いたいことは?」


 促され、名前はぐむ、と唇を噛む。
 何故分かってしまうのだろう。何故見透かされてしまうのだろう。先程の話ではないが、自分と似ている質だからだろうか。心を丸裸にされている気がして、いっその事清々しい。

 観念して、口を開く。
 
 
「⋯⋯あのね」
「うん?」
「実はどーーしても! 許せないことがあります!」
「はいどーぞ名前さん!」


 名前は身を乗り出した。無意識に作っていた両手の拳を胸の前に掲げ、ぷりぷりと頬を膨らます。
 
 
「女の子のおっぱいが! 超おおきかった! の! あんなにむぎゅむぎゅ陣平くんの腕に抱き着いて⋯⋯絶対おっぱい当たってたもん! きっと陣平くんもついうっかりひと揉みくらい⋯⋯あれは同性のわたしでもついうっかり触ってみたくなるもん! 小憎たらしい!!!」
「ぷ」
「あ、笑った」
「はははっ、だって可愛いこと言うから」


 お腹を抱えて笑う諸伏を、釈然としない面持ちで見遣る。何故そんなに笑うのか。こちとら真剣に許せないというのに。釈然としない。

 そんな名前には構わず一頻り一人で笑って、何なら笑い涙の滲んだ目尻まで拭ってから、諸伏は名前に向かって数度頷く。口元にはまだ笑みが残っている。
 

「でも、そう。それでいいんだよ。理由が笑っちゃうけど。もっと怒れ名前ちゃん! 頑張れ!」
「ふふ、わたし一体何応援されてるの?」

 
 けたけたと笑い合っていた、その時だった。
 何の気配もなく。──キィ、と。不気味なほど静かな音と、それには不釣り合いな勢いで、突然リビングの戸が開かれたのだ。


「っきゃあああ!!!!」
 

 あまりにも不意の出来事に、名前は変なところから悲鳴を上げ、ソファから転げ落ちるようにして諸伏の腕にしがみついた。恐怖のあまりぎゅっと瞑った瞼。そこに聞き馴染んだ声が掛かる。
 
 
「──オイ、誰が何をひと揉みしたって?」



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