日々を紡ぐと何になる





 突然の陣平の声に目を見開いた名前は、今度は素早く諸伏の背後に回り目だけを覗かせた。


「じ、じじ、じん⋯⋯?!」


 と慌てふためく名前であったが、盾にしている諸伏は何故か鷹揚に構えており、ゆったりと座ったまま陣平を見上げている。そんな諸伏の様子にピンときた名前は、「景くん⋯⋯?」と説明を求めるように訊ねた。

 後頭部にじっとりとした視線を感じた諸伏は、「ごめんごめん」と笑う。


「途中で松田が入って来てたのは気付いてたんだけど、名前ちゃんはいっぱいいっぱいで気付いてなかったし、話遮るのもなあって。松田も松田で入ってくるタイミング伺ってたみたいだったし」
「う、うそ! わざとだもん!」
「ははっ、いや、本当だよ。結果的に少し立ち聞きさせるみたいになっちゃったのは悪かったけど、結局全部松田に言いたかったことだろ?」
「それは⋯⋯そうだけど⋯⋯ていうか何よりも、急に人が出てきたことに本当にびっくりした⋯⋯」


 心臓が未だに早鐘を打っている。自分達以外は誰もいないと思っていた家の中で、突如として人が現れたのだ。本気でお化け屋敷より怖かった。

 背中に隠れながら息を整えている名前をちら、とだけ振り返って、諸伏はまた笑う。

 
「俺、笑ってる二人見てるの好きなんだよ。仲直りの手伝いなら、いくらでもするさ」
「⋯⋯毎度ご迷惑をおかけしております」


 名前の脳裏に、あの日が過る。
 閑静な住宅街。星の少ない夜空。キイ、と揺れたブランコ。あんまんと肉まんの匂い。

 不思議と郷愁に駆られ、少し苦しい。

 こうして諸伏の背に隠れたまま胸を抑える名前のもとに、陣平が近付いてくる。真横まで来たところで、目線を合わせるように片膝を付いた。間に開いた空間は一メートル程だろうか。手を伸ばせば届きそうで。伸ばさなければ届かなさそうな。そんな距離だ。


「⋯⋯名前。悪かった」
「⋯⋯」


 陣平の声は珍しい程に優しいもので、その声を聞いただけで名前は泣きそうになってしまった。今回のことは陣平にとっては致し方なかったことで、名前に対して心底申し訳なく思い、そして心底後悔しているということが、声と表情から嫌というほどに伝わってくるからだ。
 
 
「⋯⋯今日は、先輩に騙された。合コンだなんて聞いてなかったんだ。けどその時点で連絡しなかったことも、無理矢理にでも帰らなかったことも、本気で後悔してる。嫌な思いさせて⋯⋯傷付けて、本当に悪かった」


 あの場に至るまで、恐らくは“社会人”、“上司”という立場を利用した圧力の前に逆らうことが出来ない状況だったのであろう。しかし陣平がそれを口にすることはなかった。

 
「⋯⋯言い訳、しないんだね」
「疚しい気持ちがひとつもねえからだよ」


 名前と諸伏の話をどこから聞いていたのか、陣平は真面目な顔で続ける。


「連絡しなかったのは⋯⋯俺が店入った時にはお前もう飲み会始まってる時間だったからよ、電話すんのは悪いかと思っちまったんだ。早々に切り上げて、帰ったら全部話すつもりだった。それが結果的にお前を傷付けることになっちまって⋯⋯だなんて今更言われても、これは後出しの言い訳に聞こえちまうか」
「ううん。話してくれるつもりだったって知れただけで⋯⋯」


 首を横に振る。和泉にも諸伏にも話したが、事前に連絡がなかったことが寂しかったのであって、陣平のことは信じているのだ。今の言い分を言い訳だとは思わないし、目の前の陣平を見ていれば真実かどうかくらいは分かる。

 運悪くばったり遭遇してしまったがために拗れてしまったが、陣平は、包み隠さず話してくれるつもりだったという。それを知れただけで、心の多くを占めていた不安が和らいでいく。


「わたしも⋯⋯わたしもごめんね、陣平くん」
「あ? 何でオメーが謝るんだよ」
「⋯⋯あの時すぐに話聞けなくて。あの時は動転しちゃって⋯⋯今はたくさん話聞いてもらってようやく自分で整理が出来たから、こうしていられるけど⋯⋯もっと心に余裕のある人間だったら良かったのになって、反省してる」


 名前には、心に決めていることがある。

 例えどんなに大きな喧嘩をしようとも、寝る前までには必ず「ごめんね」を伝えようと。それで仲直りが出来なくてもいい。ただ、その日の最後の言葉に後悔をしないように。

 爆処を選んだ陣平を支えると決めた日に、密かに誓ったことだった。その決意は、萩原がいなくなってしまったことでより強いものとなった。

 だから、わたしもごめんね、と。

 これが陣平の心を抉る。まさか名前から謝罪の言葉が出るとは思ってもいなかった。実際、謝ることはひとつとしてない。

 これだから、名前が好きなのだ。

  
「俺には、名前だけだ。オメー以外の女なんて目に入らねえんだ」
「⋯⋯あの時くっついてた子も?」
「ったりめーだろ。あんな乳だけのアタオカ女眼中にねえよ」
 

 陣平としては如何に名前だけを想っているかを伝えたくて、如何に名前が良い女なのかを伝えたくて。名前が嫉妬したという女を下げることで、陣平の気持ちがより伝われば良いと思った。
 
 しかしそれが、浮気騒動、酒、後輩からの告白、といった具合に非日常が立て続けに起こったせいで情緒の安定していない名前には裏目に出る。陣平の発した「乳」という言葉に、わっと泣き出す勢いで反応する。
 

「わーん! 陣平くんやっぱり特大おっぱい見てた! ああいうのが好きなんだ!」
「おまっ、俺も男なんだから仕方ねえだろ?!?! 好きとか嫌いとかじゃねえんだって! つーか乳くらい誰でも目に入っちまうっつーの! オメーだってそうだったんだろーが!」
「誰でも?! たった今自分で『男なんだから仕方ない』って言ったじゃない⋯⋯! ねえ景くんも? 景くんも男の子だからおっぱいに負けちゃうの?」


 突然とばっちりを食らった諸伏は、ずっこけそうになりながら名前と陣平とを振り返った。本来であれば二人が話し始めた時点で席を外そうと思っていたのだが、名前が諸伏の後ろ身頃を掴んで離さないため、動くことが出来なかった。故に二人に背を向けたままで存在を消すことに努めていたのだ。

 幸いなことに、聞いていればいい感じに仲直りが出来そうですっかり安心していたのだが、今やどうだ。せっかくの和睦話がどういう訳か胸の話題にすり替わり、犬も食わぬ口論へと発展しているではないか。

 呆れを含んだ溜め息を落としてから、諸伏は恰もそれが“普通のこと”であるかのように答える。

 
「⋯⋯いや? 俺は別に」
「ほらやっぱり! 陣平くんのエッチ!」
「⋯⋯諸伏テんメェ⋯⋯」


 ぷりぷりと怒る名前の隣で、にこやかな笑みが陣平を見ている。この表情は、アレだ。「今回は松田が悪いんだから、甘んじて受けろ」ということだ。

 陣平はふうと深い息を吐き、懸命に言葉を探す。名前の謎の怒り──それともこれも嫉妬なのだろうか──を収め、はやく、陣平のところに戻ってきてくれるような。


「⋯⋯名前、一旦落ち着け。外見じゃねーんだって。いや、俺はお前の見た目もアレだけどよ⋯⋯とにかく俺は、全部お前がいーんだっての⋯⋯」


 どうすりゃいいんだ、こんなの。
 歯切れ悪く言葉を繋ぎながら、陣平は内心で頭を抱える。困り果てた末に名前を抱き締めようとした腕が、はたりと途中で止まる。些かの逡巡の後、諸伏の服を掴んでいた名前の手を取り、指先をきゅっと握る。そうして項垂れるように呟いた。


「⋯⋯戻ってきてくれよ。頼むから」
 

 その言葉を切なく絞り出した陣平のしょぼりとした旋毛を見て、名前はついに「⋯⋯最初から戻るつもりだもん」と零し、陣平の手を握り返した。







「ほら、帰るぞ。早いとこ諸伏のこと任務に戻してやんねえと」
「えっ?! 景くん任務中だったの?! やば! 国家機密が! わたしのせいで?!」
「は? 何言ってんだお前?」


 帰り支度を始めていた陣平が、手を止めきょとりと名前を見る。

 
「だってわたしの妄想では、景くんは国家機密を守って戦ってることになってるから」
「ははっ、ドラマの見過ぎだ」


 ぴこん、と額を弾かれ目を瞑る名前の後方で、諸伏がほっと胸を撫で下ろす。諸伏と降谷が公安に配属されたということを、一般人である名前に知られるわけにはいかない。これは、万が一の時に名前を守るためでもあるのだ。

 それを承知でとぼけてくれた陣平に目配せをし、それから名前に荷物を手渡して、諸伏は口を開く。
 
  
「そうだ、名前ちゃん。一緒にいた奴のことだけど⋯⋯変に気遣ったりしたら駄目だからな。傷付けないように、って考えちゃうだろうけど、余計な感情も伝えない方がいい。紙一重だと思うよ、彼は」
「あ゙?! 名前アイツに何か言われたのかよ?!」
「あ⋯⋯その⋯⋯そう、告白された」


 言い難そうにしている名前の様子と、諸伏の言葉とから、名前が断るつもりなのだということは明白だった。だが断るといっても一筋縄ではいかない状況らしい。

 そんな状況だったというのに、陣平に会った時の和泉のあの態度。あの数分間を思い出し、思わず舌打ちをしていた。

 
「チッ、あのヤロ⋯⋯」
「あ、あの、陣平くん、わたしちゃんと断るつもりで──」
「わーってるよ、んなこと。アイツに⋯⋯いや、告白させるような状況作っちまった自分に苛立ってるだけだ。ストーカーにでもなられちゃ堪んねえからな。あとでゆっくり対策考えようぜ」
「ス、ストーカー⋯⋯?」


 突然出てきたその単語に、名前は反射的に身を竦める。まさか、和泉が、そんな。そう思いたい自分と、あの時の怖いくらい真っ直ぐな視線を思い出してしまう自分とが鬩ぎ合っている。

 
「名前、お前のせいじゃない。誰だって成り得るんだよ。あの男は素質が高えってだけで」
「⋯⋯うん」
「まあ、ここからの話は後でだ。取り敢えず今は帰るぞ」
「はっ、そうだった、国家機密の極秘任務!」
「ははっ、まだ言ってやがんのか」

 
 漸く戻ったいつもの笑顔を携えて、三人揃って玄関を出る。名前達とは逆方向に向かうという諸伏にありったけの礼を言い、「気を付けてね」とその背中を見送った。







 街頭の少ない路地裏で、携帯の画面が夜を照らしていた。
 
 
「ああ、零。お待たせ。こっちは無事仲直りしたよ」
「そうか、良かった。毎度ご苦労様。今回はヤバそうだったのか?」
「いいや、毎回可愛いものさ。⋯⋯で、そっちは」
「こっちも大丈夫だ。上々の首尾だよ。どのくらいで合流出来る?」
「十分⋯⋯いや八分だな」
「了解」


 ピッ、と電子音。次いで液晶の明かりが消え、夜の闇が纏わり付く。別れ際の仲睦まじい二人の顔を思い出してから、諸伏は降谷のもとへと急いだ。



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