目の前の陣平の顔を見て、名前は瞬時に悟る。今の懇願の無意味さを。寧ろここからが、本番なのだと。
自分では拭うことさえ出来ない溢れた涙を、陣平が唇で受け止めながら言う。
「お前は俺がヤメロっつっても言うこと聞いてくれなかったしなあ」
「だって、それは⋯⋯」
「だってじゃねえ。仕返しっつったろ」
「⋯⋯っ?!」
突然、視界が真黒に染まり、息を詰める。──布だ。布のような感触が目元にぐるりと回って。
視界が、奪われる。
途端に襲い来るのは不安と期待。
陣平に限って“酷いこと”は絶対にしないと言い切れるが、“視覚”という自由までをも失ったこの状況は、名前にとって未知の不安と興奮を呼び起こした。
五感のうちどこかを失うと、それを補うように他の感覚が研ぎ澄まされるという。まさに今の名前がその状態だった。
肌が空気に触れるだけで、びりびりと悲鳴を上げている。衣擦れの音に、陣平の息遣いに、鼓膜が震えているのが分かる。外界をひとつでも知覚しようと、感覚が酷く研ぎ澄まされている。
人間は視覚から得る情報が約八十パーセントを占めるという。如何に視覚に頼って生きていたのか、それを今、如実に感じる。
「っ⋯⋯ぅ」
だから、陣平が軽く肌に触れただけで、自分でも驚く程敏感に反応してしまう。つつ⋯⋯と肌を辿る指先に震える呼吸を繰り返していると、背中に腕が回り、鳩尾あたりに陣平の顔が埋まるかたちで抱き締められる。やわらかな髪の毛が擽ったい。
乳房の膨らみの基部から、乳輪に向って舌が這う。決して先端には触れないその動きに誘われ、張り詰めた神経すべてが乳頭に集まったかのような、そんな感覚。
いっそのこと自分で刺激してしまいたくて。けれど、拘束された手は言うことを聞かなくて。それならば自分が動けばどこかに擦れたりするのでは、と淡い期待で捩った身体も、しっかりと抱き締められていて思うように動かない。
目の前にぶら下げられた悦楽に手が届かないことはこんなにも苦しいのかと、ぼんやりと思った、──その瞬間だった。
「──ぁぁあっ!」
乳頭に、信じ難い快楽が落ちる。
待ち望んでいた刺激。焦らされ、焦らされた末に与えられたそれは、常軌を逸した快感だった。理性の欠片もない嬌声が身体の奥から溢れる。仰け反った身体はきつく抱きかかえられたままで逃げ場はなく、先程とは打って変わって、今度は執拗とも言える程口内で嬲られる。
「ん、ぁあ、ぁ」
反射的に陣平の頭を抱こうとしてしまって、ガチャリと拘束具が鳴る。彷徨った手のひらが空を握る。黒いだけの視界に、ちかちかとした快楽の火花を見た気がした。
しかしその次の瞬間には、火花が飛び散るような別の快楽に襲われる。
「ぁ、ぁっ」
「濡れ過ぎ⋯⋯つーか溶けてるっつーか」
ぐちゅりと鳴ったのは名前の秘部。もういつから止めどないのかも分からない。シーツに染みを作ってしまって久しい愛液が、表面をなぞるだけの陣平の指に纏わりついていく。その滑らかさを纏ったまま、痛い程に膨れた陰核に、陣平の指先がつんと触れる。
「ひっ、ぅ⋯⋯ゃ、だめぇ」
「全然ダメそうじゃねえけどな」
「ぅあ、ぁ⋯⋯っ!」
駄目だ。こんなの、すぐに。
そう思った時には既に脳内で何かが弾け、身体が痙攣を始めていた。気持ちいい。おかしいくらいに。こんなにすぐに達してしまうなんて。一体自分の身体はどうなってしまったのだろう。
短く呼吸を止めながら快楽をいなし、痙攣が止まるのを待つ。待って、待って。漸く身体が弛緩し始め息をつこうと思った矢先にしかし、再度陣平が陰核を捏ねる。
「んぁあ⋯⋯っ」
準備が整い過ぎている身体は、容易に絶頂へと導かれる。何度も。何度も。経験したことがない程に至上の快楽を浴びる。
もう、ほんとうに、おかしくなってしまいそうで。
──ここでギブアップすれば良かったのだ。もう無理です。ごめんなさい、と。だが、これまで散々焦らされたが故に正常な思考が出来なくなっていた名前は、思ってしまったのだ。その先の行為を望めば、“少なくとも今の状況からは逃れられる”と。
そうして譫言のように呟いていた。
「お願⋯⋯っ、じんぺ、く、」
「あ?」
「も、むり、だよぉ⋯⋯いれて、くださ⋯⋯陣平く、が、ほしい⋯⋯っ」
「──ッ」
この時陣平がどんな顔をしていたのか、名前には知る由もない。が、陣平がいるのであろう辺りの空気が変わったのは、分かった。分かってしまった。そして思う。自分は今、頼んではいけない事を強請ってしまったのではないかと。
しかし後悔すれども、時既に遅し。間髪入れずに両膝を押され、下肢が開かれる。
視線を感じる。いや、“見られているはずだ”という思い込みが、視線を感じる気にさせているだけだろうか。兎も角恥ずかしい。今すぐに足を閉じたい。しかしそんな力が残っているはずもなく、ただ、陣平のなすがままにされる。
この時の名前は、思っていたのだ。
またきっと散々勿体ぶらされて、待てども待てども挿れて貰えなくて。虐め抜いた末に漸く挿れてくれるのだろうと。
しかし次の瞬間。
これまでで一番の快感が、ひと息に名前を貫いた。
「あ──っぁぁあ!」
「⋯⋯ッんだ、これ、挿れただけでこれかよ」
ぐちゅりと音を立てながら最奥を穿たれ、身体中に衝撃が走る。何度も身体を重ねたことですっかり陣平のかたちに馴染んでいる膣壁がぎゅぎゅうと陣平を締め付ける。内側から名前を押し広げるのは確かに陣平の温度だ。しかしその膨張した質量と硬さは嘗てなく、名前が知らないものだった。
陣平も、興奮してくれているのだろうか。
そう嬉しく思ったのも束の間、中を慣らすこともなく幾度も奥を打たれる。その度に脳天まで痺れが突き抜け、名前ははくはくと唇を動かした。
「ぁん、っす、ご⋯⋯激⋯⋯っ」
溢れる涙を目元の布が吸う。掠れてしまった嬌声を、陣平の唇が塞ぐ。それでも鼻から抜ける声は絶え間なく、自分の声のはずなのに、それさえも名前の聴神経を犯した。
突かれて。突かれて。達して。
これ以上この状態が続けば、敏感になり過ぎた感覚のどこかが使い物にならなくなってしまう。そんな漠然とした不安に襲われた名前は、不意に唇が開放されたその瞬間に、息も絶え絶えに陣平を呼んだ。
「じ⋯⋯んぺーく、」
「ん、ど、した」
抽挿を止めることなく、陣平は名前の耳元で、荒くなった息のまま囁いた。その声に肌が粟立つのを感じながら、名前は乞う。
「か、顔、みたい⋯⋯っ」
本当は抱き着きたい。その体躯に縋りついて、こんなにも与えられる愛を受け止める振りをして、その指先から陣平にも愛を流し込みたい。
けれど、手錠を解いては貰えなさそうだから。せめて顔を見せてほしいと願う。愛おしい顔を見せてほしい。愛する人が名前を抱く時の表情を、刻んでおきたい。
そう願った直後、少しの間が挟まって。しゅるりと目元の布が緩む。恐る恐る瞼を上げると、暗闇に置かれていた瞳に光が入り込む。眩しい。数度瞬いてから、陣平を見上げる。そこでは陣平も名前を見下ろしていて、その口元が、フッと緩む。
「ぐっちゃぐちゃ」
「ん、」
目元を湿らせていた涙を拭われる。労るように顳顬から梳かれた髪束がはらりと落ちる。陣平の顔を見ることが出来てほっと息をついた名前に、今日一番の優しい口づけ。絡んだ熱い舌は、仄かに残る煙草の匂い。
──ああ、陣平だ。
ずっと陣平といたのに。今更ながらにそんなことを思った、その時だ。キスの間も止まなかった腰の振りが、ひと際おおきく打ち付けて。
耳朶を擽るようにして、一言。
「⋯⋯名前、好きだ」
「──ぅぁ、あ⋯⋯っ!」
──好きだ。
滅多に囁かれることのないその一言で、名前の身体は一瞬にして絶頂へと導かれた。自分でも予想の出来なかった、急激なオーガズムだった。
これだから、女は心で抱かれると言うのだろう。
その激しい膣内の収縮に陣平も急激な射精感に見舞われたのか、名前の中でびくりびくりと果てたこと知る。
軋むことを止めたベッドの上。互いの荒い息が乱れる中、陣平がゆっくりと腰を引く。直後、名前を掻き回し続けたものがずるりと抜けて。永遠に思われた時間が終わったのだと、寂しさよりも大きな安堵を得た、その時だった。
目の前で汗を拭い、いつの間にか避妊具を付け直した──付け直した⋯⋯?──陣平が、ぺろりと唇の端を舐めた。
「足りねえ」
「え⋯⋯な、に」
手錠は外して貰えぬまま、くるりと身体を回され腰を持ち上げられる。シーツに頬が潰れ、陣平の目の前に臀部を曝け出す体勢。それを恥じる間もなく、顕になったそこにずぶりと陰茎が埋まる。
「ま、待っ⋯⋯ぁ、んっ、んぁあ」
すぐに再開される律動に、名前は認識を改める。
終わりなどではなかった。終わりではなく、長い夜の始まりに過ぎなかったのだ。
ここから陣平が満足し名前が解放されるまで、一体どれ程の時間を要したのか。兎にも角にも、最後の最後まで意識を保てていた事が不思議でならないくらいの。
甘く激しい一夜となった。