──⋯⋯ちゃぷ。
両手で掬った湯の上に乗った真白な泡の塊が、ふるふると揺れている。ふうっと息を吹きかける。泡はいくつかに離散し、バスライトに彩られる水面へと飛んでいく。
綺麗だ。そして眠たい。いや、眠たいとかいうレベルではない。最早気を失ってしまいそうだ。何故自分は今、ベッドの上で寝ていないのだろう。そのことが恨めしい。
事の発端は陣平の何気ない一言だった。
情事の後、薄れゆく意識の中「名前、風呂どうする?」と陣平が問うた。名前は耳を疑った。陣平は一体、今の名前のどこに入浴する体力が残っていると思っているのだろう。息をするだけで精一杯だというのに。不思議でならない。
そう思いつつのろりと視線だけを向けると、陣平は親指でくいっと浴室の方を指差した。
「ここの光るみてえだぞ。お前好きだろ、そういうの。身体も流してえだろうし」
「⋯⋯? 光るって⋯⋯何が?」
「見てみっか?」
好奇心が勝ってしまったのだ。
その問い掛けに頷くと、流石に足腰の立たない名前を陣平が抱えて連れて行ってくれた。既に湯が張られ始めていた浴室を見て、名前は眠気も忘れて声を上げた。
「うわあほんとだ光ってる! 陣平くん! すごい!」
「そーだな」
「泡! 泡が! 泡風呂になる! 見て!」
「はいはい見てるって」
などときゃあきゃあ騒ぎ、怠くて動かない身体を陣平に洗ってもらい──恥ずかしくて散々抵抗したが──、いざ後ろから抱えられ湯に浸かると、瞬く間に眠気に襲われた。せっかくのこんなに綺麗なお風呂だというのに。抗いきれぬ眠気に瞼が落ちる一方だ。
そうして呆気なくうとうとと船を漕ぎ始めた名前を見て、陣平は苦笑する。なんか子どもあやしてるみてえだな、と。
「名前ー、寝んなよ、溺れるぞ」
「うぅ⋯⋯ん」
「……おい、名前って」
「⋯⋯んむ」
「ダメだこりゃ。出るぞ、このままじゃのぼせる」
ほぼ寝ている名前にバスローブを着せ、だだっ広いベッドに寝かせる。その頃には既に寝息が聞こえ始めていて、よくまあこの状態で風呂で騒げたものだと感心さえした。
身体中に情事の痕が散った名前を腕に抱き、陣平も身体を横たえる。流石に草臥れたなと思った次の瞬間には、陣平も深い眠りに落ちていた。
中途覚醒は一度もなかった。夢を見た記憶もない。
自然と目醒めた時には、──窓がないので感覚だが──日は随分と高くなっているようだった。かなり寝たはずなのに、身体には何とも言えぬ気怠さが残っている。だが、嫌な倦怠感ではない。
自分の状態を確認してから、視線を下げる。陣平の腕の中では名前が未だ泥のように眠っていた。
一応時刻を確認してから、名前に声を掛ける。が、幾度呼び掛けようとも身動ぎひとつしない。余りの微動だにしなさに、ほんとに寝てんのか? と心配になり鼻を摘むと、数秒してから苦しそうに顔を背け、再び寝息を立て始めた。寝起きが良い方の名前も、今日ばかりは無理そうだ。なんせ瞼すら上がらないのだ。
それから大体三十分おきに声を掛けること三回目で、漸く名前は目を開けた。
「名前」
「⋯⋯⋯⋯おはよぉ」
「おう。体調どうだ?」
「んん⋯⋯ん⋯⋯どうなってるのか、自分でもちょっと分かんない」
「⋯⋯悪かった。やり過ぎた自覚はある」
「ふふ、なんで謝るの」
陣平の腕に乗せた頬を、むにゅりと潰すようにして見上げてくる寝惚けた眼。顔の輪郭に沿って手を当てると、名前は擦り寄るようにして目を閉じる。
朝のこの時間が、陣平は好きだった。
昨夜の名残りを引き摺った心は名前に対して非常に弱く、愛おしさばかりを募らせる。
「⋯⋯起きれそうか?」
「うん。ゆっくり動く」
今日は互いに休日だ。急ぐ用事もないので、ゆっくりと準備をする。名前は昨夜見られなかった分、室内を物色してはいちいち感嘆の声を上げ、最終的には「楽しかったなあ」と暢気に笑っていた。
ホテルを出て、近場の喫茶店で朝食兼昼食を摂る。カフェオレに口を付ける名前をじっと見遣ってから、陣平は口を開いた。
「んで、アイツをどーするかだけどよ」
「あ⋯⋯和泉くん⋯⋯」
カップを持ったまま、名前は暫し固まった。
そうだった。昨日は話すどころではなかったから。名前の脳内に昨夜の和泉の姿が蘇る。一言一句と言って良い程に鮮明に覚えている、和泉の言葉が蘇る。
衝撃的な告白だった。
その場では受け止めきれず、向き合いきれず、諸伏の助けに甘んじて逃げてしまった。
「オメー優しいからな。諸伏も言ってたみてえに気遣っちまうんだろうけど。止めといた方がいいぜ」
「⋯⋯具体的なライン、って」
「最低限だ。アイツが何をどう言ったかは分かんねえけど、断るための最低限。気持ちには応えらんねえ。その一言だけ」
言って、しまいそうなのだ。
後輩としては好きだけど、とか。こういう所は尊敬してるんだけど、とか。気持ちは本当に嬉しいんだけど、とか。好きになってくれてありがとう、とか。これからも先輩後輩として仲良くはしてたいんだけど、とか。
罪悪感を減らすために。免罪符のような言葉を。どれもこれも、和泉を目の前にしたら口を衝いてしまいそうで。
「⋯⋯んな顔すんな、俺が複雑な気持ちになんだろ」
「⋯⋯っ! ごめん!」
「いや⋯⋯まあお前の性格上無理もねえし。⋯⋯仕方ねえんだよ。結局断るんだったら、あれこれ言わねえ方が良いんだ。痴情の縺れによる被害なんて、この組織にいたら掃いて捨てるほど聞くからな⋯⋯オメーには当事者になって欲しくねえんだ」
奇跡のようなことなのかもしれない。誰かを好きになる事も。その人に好いて貰える事も。
身の引き締まる思いだ。
陣平とこうしていられる日々が、いつの間にか当たり前になってしまわないように。ずっと続くものなのだと慢心せず、大切に紡いでいけるように。
「⋯⋯ありがとう、陣平くん。月曜日に話すね」
「ん。話すなら日中にしろよ、それなりに人目が近いとこで」
「うん」
陣平のこの余念のなさに、今回ばかりは緊張してしまう。何かを飲み下したくて口に運んだカフェオレ。甘いはずなのに。舌の上に残ったその味は、酷く苦い気がした。