日々を紡ぐと何になる





「和泉くん。ごめんなさい」


 月曜日、昼休憩のことだ。
 名前に呼ばれた和泉は、やわらかな春風が吹く中庭で、真正面に立つ名前を見下ろしていた。

 
「⋯⋯それは、何に対してのごめんなさいですか?」
「⋯⋯和泉くんの気持ちには、応えられません。の、ごめんなさい、です」


 分かっていた。

 名前が和泉のものにならない事くらい。名前が、陣平の他に男を作ることなどない事くらい。

 分かってはいたが。

 暫く無言で名前を見下ろす。最初こそ真剣な瞳で和泉を見ていた名前だったが、和泉が長いこと無言を貫くうち、次第に目線は下がり、今は俯いている。

 こうしてどれくらい待ってみただろうか。

 名前はそれ以上を言うつもりはないようで、どれだけ待てども、その口が開かれる事はない。

 その事を確信し、和泉はふっと息を吐いた。
 
 
「──良かった」
「⋯⋯え?」
「何も、言わないんだなと思って。ほら、良くあるじゃないですか。気持ちは嬉しいんだけど、とか。友達としては好きなんだけど、とか。そんなふうに言われたら、たぶん俺⋯⋯」


 ──気持ちが嬉しいんだったら、友達としてでも好きなんだったら、俺と付き合えよ。

 こんな気持ちが爆発して、声を荒げてしまっていたかもしれない。きっともう、限界だったから。限界だったからこそあの夜、名前に想いを伝えてしまったのだ。

 叶うはずのない想いを。あんなかたちで。

 こんなに誰かを好きになったのは初めてだった。好きなのだ。自分でもどうしたのかと思うくらい、狂おしい感情だ。何よりも自分のものにしたかった。が、名前には出会ってすぐ、陣平という人間が出来てしまった。名前の心に和泉の入る隙間がないことはすぐに分かった。

 初めてだった。名前と陣平の関係が緩むかもしれないと思ったのは、先の飲み会の日が初めてだったのだ。
 
 揺らいでくれるかもしれない。そう思った。弱っている時なら、傷んだ名前の心の隙間に、和泉が入れるかもしれない。そんな邪な気持ちがあった事は確かだ。

 それでも、これはきっかけに過ぎなくて。限界ではあったのだと思う。いつまで経っても名前は陣平ばかりを見ていて、名前が幸せならそれでも良い、なんて綺麗事を言って名前の幸せを健気に願う事も出来ない。何も知らない名前の笑顔が、苦しかった。

 幾度も想像しては拳を握り締めた。名前の身体を抱き締めたら、どんな心地がするだろうか。唇はどれ程の柔らかさで。抱いたら名前は一体どんな顔で、どんな声で、喘ぐのだろうかと。和泉では触れることすら叶わないのに、陣平は容易く名前に触れ、抱いているのだと思うと、気が触れそうだった。いつの日か抑えられなくなり名前に乱暴してしまいそうで、そんな自分の狂気性が恐ろしかった。

 狂いそうだった。

 だから、良かった。
 
 自分の内に巣食う手の付けられない衝動が、暴れてしまわないような言い方をしてくれて、良かった。少しでも希望をちらつかされていたら、和泉は、自分を抑えられなかったかもしれない。

 今だって。こうして立っているのが不思議なくらいだ。頭まで上手く血が回っている気がしない。足元から崩れてしまいたい。自分を支える何かが崩れ落ちていく気がする。目の前の名前に縋ってしまいたい。しかし、それは許されない。

 こんなに近くにいるのに。

 何故、こんなにも遠い。

 
「⋯⋯だから、良かったなって。変な期待させないでくれて。あ、苗字さんが心配しなくても、これまで通りの先輩後輩でいますよ。仕事もちゃんとしますし、何も変わりありません。迷惑も掛けないです」

 
 声が少し、震えてはいないだろうか。威圧的になってしまってはいないだろうか。断ったことに、罪悪感を感じて欲しいわけではないのだ。和泉の好意で恐怖を与えたいわけではないのだ。和泉本人ですら、手が付けられない想いなだけなのだ。

 故にすぐに諦める事など、きっと出来ない。
 ──いや、違う。諦めるというより、好意をなくす事が出来ないのだ。好きなものを自分の意思で好きでなくするなんて、そんな理屈の感情ではない。

 
「ただ暫くは、好意漏れちゃうと思いますけど⋯⋯まあ、苗字さん気付いてなかったくらいだし問題ないですね。あとは俺の問題です。苗字さんは、是非これまで通りでいて下さい」
「⋯⋯和泉くん」
「ハハ、なーんか俺ばっか喋ってカッコ悪いですね。それじゃあ、この話はお終いで! 午後からもよろしくお願いします!」


 随分と早口で、自分ばかりが喋っていたことに漸く気が付いた。格好悪い。これが往生際の悪さとでも言うのだろうか。


「──⋯⋯」
 
  
 そんな和泉を見ていた名前の口が、何かを言いかけて。何も言葉を発さずに、そっと閉じられる。

 ああ、その口を噤める貴女で、良かった。
 一切の情けも掛けないこのやり方は陣平仕込みなのかもしれないが、それを実行に移したのは間違いなく、名前の強さだ。いつも他人の気持ちばかり考えているくせに。そんな強さを見せられたら、和泉も強かであるしかないではないか。

 
 “でも、あの人が嫌になったら俺いつでも空いてますんで。待ってまーす!”
 
 
 ──なんて。この先も名前と仕事をするならば言ってはいけないであろう言葉を、飲み込む。行き場をなくした想いで名前を滅ぼしてしまわないように、和泉が、この想いを手懐けなければならないのだ。

 名前も心を決めたのか、いつものように背を伸ばし、いつものような表情で、いつものような口調で「じゃあ、午後からまたね」と身を翻した。 

 貴女を守ってくれてありがとう。
 俺を、守ってくれてありがとう。

 その背を見て、和泉は思った。
 


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