日々を紡ぐと何になる





「名前、明日仕事終わったら飯行こうぜ」
「明日⋯⋯? いいの?」
「ああ。明日がいいんだ」
「ん、分かったよ」


 明日は、十一月七日だった。
 萩原が亡くなって、もう三年になる。あの日に萩原だけを残して、名前たちはもう三年分も歳を重ねたらしい。

 敢えて命日に食事に行きたいと陣平が言うのだから、名前に断る理由はない。どこへ行こうか相談しようと口を開きかけた矢先、陣平が先に言葉を発する。


「今年は名前も一緒に行かねえか? 墓参り」
「んー⋯⋯久々に皆の顔は見たいけど⋯⋯でもわたしは仕事の前に行こうかな」
「そーか?」
「うん。途中で仕事抜け出すのも難しいと思うし⋯⋯誘ってくれてありがとう。皆によろしくね」
「おう」


 多忙な勤務の合間を縫っての同期水入らずの墓参り。萩原を追悼し思い出話をするには短か過ぎるであろうが、せめてその時間くらいは、同期だけで過ごして欲しい。
 

「ね、そういえば明日ってどこか行きたいところでもあった?」
「ああ──ここ。このホテルのレストラン。もう予約もしちまった」
「えっ?!」
 

 名前は頓狂な声を上げていた。

 陣平が事前に何の相談もなしに何かの予約を取るなど珍しい事この上ないし──珍しいというか初めてである──、しかも陣平が口にしたホテルときたら、庶民代表の名前でも名前だけは知っている高級ホテルではないか。そんなホテルのディナーを。

 ──予約。しちゃったの。

 その事実を認識した途端、名前の脳内は一気に忙しなくなった。
 
 そんな場所に行くのは当然初めてであるし、そもそも自分のような一般人が立ち入ることは出来るのだろうか。というか何より、せめて一週間前に言ってくれればあれこれ見繕って相応の準備が出来たのに。


「──⋯⋯」


 と、開きかけた口を噤む。
 いやしかし陣平がこうして準備を整え誘ってくれるなど、本当に初めてのことである。きっとのっぴきならない“何か”があるのだろう。まあ“何か”と言ったところで、この急場では明日が萩原の命日であること以外は思い付かないのだが、とにかく。絶対に無下にはしたくない。

 名前は懸命に考える。
 ドレスコードとかある、よね。服⋯⋯何か服あったっけ⋯⋯あ、ある、辛うじて一着、飛び切りのやつがある、買っておいてよかった⋯⋯バッグも何とかなるかな、髪は丁度先週美容室に行ったし、あとは──

 などと暫く考え込んでから、名前は少しだけ首を傾げて陣平を見上げる。
 
 
「⋯⋯⋯⋯明日は一度帰宅してたんとおめかしをしてからでも?」


 この一言にすべてを要約して詰め込んだ。陣平はそれに気付いた素振りもなく、平然と頷き返す。
 
 
「ああ。遅めの時間にしてあるし。俺は仕事終わったら直行になっから、現地集合な」
「らじゃです!」
「? 気合すげえな」
「当たり前じゃない! そんなとこ行くの初めてだもん、楽しみ! ていうかむしろ陣平くんは何でそんな感じ⋯⋯?」
 

 もしかして名前が知らないだけで、陣平はそういった場所の経験が案外豊富なのだろうか。警察関係の付き合いとかで。いや、寧ろ名前の方が気負い過ぎなのか。

 兎にも角にも、楽しまなければ損でしかない。せっかくの機会だ。雰囲気も空間も時間も料理も、その場で触れる全てを堪能したい。


「そしたらわたし! 明日に備えてお風呂に入ってきます!」
「? おう、ゆっくりな」


 そのためにも、取り敢えずは身体を清めてみよう。そう思う。隅々まで洗って、全身の肌に入念な手入れをして、入浴後は特別な時用のパックも使ってしまおう。これに何の意味があるのかは定かではないが、身体を整え少しでも自信を付けておくと、堂々と楽しめる気がする。何もしないより気持ちも落ち着く。

 こうして、まるで結婚式前夜でもあるかのような気合が入った夜は、静かに更けていった。
 





 
「わあ⋯⋯すごい⋯⋯」


 高々と聳えるホテルを見上げる。建物自体もそうなのだが、建物から滲み出す空気そのものが聳えているような感覚になる。凄い。一頻り外観を眺めてから、恐恐とエントランスを潜りロビーの椅子に腰を下ろす。約束の時間まであと十分といったところか。陣平の姿はまだない。

 ホテル内の洗練されたデザインや装飾を見回してみる。きっとこのどれしもが、見る人が見れば、何世紀の何という様式だとか、この部分がこういった理由で素晴らしいだとか、そういった話に花を咲かせることが出来るのだろう。

 名前の知らない、世界の話だ。

 その時、エントランス側の視界の端に見慣れた人影を捉え、名前はぱっと顔を向ける。


「悪い。遅くなった」
「来たー! 陣平くん!」


 駆け寄ろうと立ち上がって、しかしその足をはたりと止める。
 
 サングラスをすらりと外し建物内に入ってくる姿が酷く様になっていて、思わず見惚れてしまったからだ。ほぼ毎日見ているはずなのに。それなのに、何年経っても。

 ──いつまでも恋をしている。

 結果として、陣平が近付いてきてくれるのを惚けたように待っているだけになってしまった。名前の前で足を止めた陣平を見上げ、「何だか今日⋯⋯格好いいね」と言おうとした時だ。陣平がじっと名前を見ていることに気が付き、首を傾げる。


「? どうかした?」
「なんか今日の名前⋯⋯」
「⋯⋯?」


 陣平の視線に、慌てて自分の服を見下ろす。一応この場にいても恥ずかしくないような装いで来たつもりだが、どこかおかしかっただろうか。


「あの⋯⋯どこか変?」 
「⋯⋯いや、似合ってるぜ」


 ぽん、と頭に手が乗る。
 それからすぐに離れてしまった手を追うようにして再度陣平を見上げると、ふいっと視線を逸らされる。


「え、な、何?」
「何でもねえ」
「で、でもっ」


 不安になり食い下がる。と、陣平は余計にそっぽを向いて耳の端を微かに染め、「あーもー、可愛いからこっち見んなって」とぶっきらぼうに言い放った。

 数秒、理解に要して。

 嬉しいやら恥ずかしいやら。顔を染めた名前が両手で頬を覆う。それをエントランスに控えていたスタッフが微笑ましく見ていたことに、二人はついぞ気が付かなかった。
 


 絢爛という言葉を、初めて実感した。
 装飾に明るくない名前にはこれ以上は詳細に言葉に出来ないのだが、この空間にいるだけで気持ちが舞い上がってしまうのだ。

 案内された窓際の席からは都会の夜景が一望出来た。窓に反射する自身の姿の向こう、無数に煌めく光の粒が名前を見詰め返す。息が詰まるほど美しい。壮観だ。


「⋯⋯きれい」


 思わずぽつり、呟いていた。
 窓に反射する陣平は、無言で地平を見遣っている。その姿を見て思う。恐らく陣平はあまり夜景に興味はないのだろうと。数多の光を見下ろしながら「このうちの何割が残業なのかね」とか考えていそうだ。それでもこれを名前に見せるために窓際を選んでくれたのだろう。


「ふふ」
「何だ?」
「ううん、嬉しくて。⋯⋯綺麗だねえ。夕暮れ時とかも素敵なんだろうな」
「⋯⋯ああ」


 どこか上の空のような、何かに気を取られているかのような。そんな陣平の返事に、名前は窓から視線を剥がし直接陣平を見る。

 これが、今日の本題だ。 

 何か話があるはずなのだ。しかも重大な。そうでもなければ、わざわざ萩原の命日を選んで、こんなレストランを予約するなんて。

 一体何の話だろうか。
 
 先程の会話や態度、この雰囲気を鑑みても、別れ話を持ち出されることは流石にないだろうとは思う。もしそれが出来る人間であるのならば、陣平は後世に語り継げる逸材──需要はないだろうが──である。とすれば仕事のことだろうか。それとも目が飛び出るほど高額な買い物をしたいから名前の機嫌を取りに来ているとか。

 などと名前が考えていると、陣平が徐にその口を開いた。咄嗟に身構える。今考えた中のどの話題が出てくるのか、或いは全く別の話なのか──
 

「そういや料理はコースで頼んであるけど、他に気になるもんあったら頼んでいいからな」
「えっ、ほんと?! わあい、ありがとう! ⋯⋯ってそうじゃなくて!」
「あ?」
「あ? じゃないよぉ! てっきり今日の本題話してくれるのかと思っちゃったじゃない!」


 思わずそう返すと、陣平は可笑しそうに笑った。
  

「ああ、そりゃ食べたあとでだ。せっかくの料理味わえなくなっちまうだろ」
「ええ〜〜〜ご飯食べれなくなる内容なの⋯⋯余計気になる⋯⋯」


 勿体ぶっていることが楽しくなってきたのか、陣平は悪戯好きな少年のような顔をして、ワインが注がれたばかりのグラスを持ち上げた。
 
 狡い。そんな顔を見せられては。何も言えないではないか。


「ほら、乾杯しよーぜ」
「んんもう⋯⋯」


 観念した名前の指先が、細く美しいステムを掴む。乾杯、と。グラスがからりと音を立てた。
 


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