料理に舌鼓を打ち、会話を楽しみ、景色を眺め、あっという間に最後のデザートも惜しみながら食べ切った頃だった。名前よりも少し先に最後の一口を済ませていた陣平が、「飯美味かったな」と笑ったそのままのトーンで話し出す。
「俺さ、ずっと考えてんだけどよ」
「うん⋯⋯あっ、え、もしかしてついに本題?! すごいさり気なく始めるね」
「何だよ。仰々しく始めたほうが良かったか?」
「ふふ、いいえ」
手にしていたグラスを置く。ゆらりと、水面がグラスの中を揺蕩って。それから陣平を見ると、酷く真摯な眼差しとぶつかった。
「考えてるっつーか、もうずっと希望は出してんだけど」
「うん?」
「転属してえんだ」
「──てんぞく」
転属、という単語を上手く変換して理解出来ず、その音だけをオウム返しにしていた。
「ああ。爆処のまんまじゃアイツの仇は打てねえから」
「⋯⋯萩、くん、の」
仇という言葉。その言葉を陣平が発すると現実味があり過ぎて、何だか恐怖さえ感じてしまう。心臓がどきりと強く脈を打つ。仇。その言葉が“本物”として存在することに、実感が持てなかった。萩原を亡くしているというのに。いつになっても、自分とは掛け離れた場所の話のような気がしてしまって。
そういう世界だと、分かっているはずなのに。
「約束したんだ。アイツと」
そう呟く陣平の瞳には、静かで強かな意志が宿っている。誰にも変えることは出来ない。決して曲がることはない。強靭な意志だ。
約束した、と陣平は言った。
萩原の最期の言葉を、名前は知らない。知らないが、恐らくはこれが。
「それを果たさねえと、俺はどこにも進めねえ。まあ、俺自身への誓いみてえなもんなんだ」
「⋯⋯うん」
「んで、この件には来年、決着をつける」
「⋯⋯来年?」
「悪い、詳しくは話せねえ。けど、来年の今日、絶対萩の仇取って、そしたら──」
ここで陣平ははたりと言葉を切る。
名前に伝えると決めてからというもの、数え切れぬ程に思い描いた。今日のこの場面を。名前に言う言葉を。人生でこれ程シチュエーションに悩み、口にする言葉を選び尽くしたのは間違いなく初めてであると断言出来る。
それでも、決行に移した今となっても、果たしてこの選択が最適なものであったのか分からないままだ。
だからこそ、今日という日を選んだのかもしれない。
柄にもなく自信が持てなくて──というのも、降谷に植え付けられた“求婚を断られるかもしれない”という迷惑極まりない危惧も一因なのだが──、しかし何が何でも掴みたくて。
だから、今日この日を選んだのは。
──萩原の力を借りたかったからなのかもしれない。
いつだって陣平を支えてくれた。背を押してくれた。陣平ちゃん、と笑って。何があっても、陣平と名前のことを想ってくれていた。そんな萩原の力を。
「そしたら、俺と⋯⋯」
緊張で湿った手のひらの中に仕舞ったものを、握り締める。ちいさいくせにしっかりと硬い。この中に陣平の決意と覚悟が眠っている。
いつしか言い淀んだまま視線を拳に注いでいたことに気付き、名前へと視線を動かす。名前はただ、静かに穏やかに陣平の言葉の続きを待ってくれている。そんな名前の顔を見た瞬間、自然と唇が動いていた。
まるで名前に誘われでもしたかのように。見えない何かに、導かれでもしたかのように。
「──俺と、結婚してくれ。名前」
煌めくのはダイヤモンド。
広げた陣平の手の上。ちいさな四角い箱の中には、悩みに悩み抜いた末に選んだダイヤの指輪が我が物顔で、それでいて持ち主を待ち望んでいるようにも見える様相で、可愛らしくも気品高く鎮座している。
正面から、息を呑む音がありありと聞こえて。それからはたりと動きが止まる。その終始を視界の端で感じ取る。一度目を瞑り、深く息を吸って気持ちを落ち着ける。ゆっくりと瞼を持ち上げ、名前を見ると。
──名前は、泣いていた。
ふたつの瞳からぽろぽろと雫を落とし、ちいさな唇を微かに震わせ、涙を堪えるように何度も何度も瞬いてはそのたびに雫を零していく。
「⋯⋯泣くなよ、せっかく可愛くして来てんだから」
「だ、って⋯⋯っ」
痛いくらいに分かった。名前の涙が、感涙以外の何ものでもないことくらい。名前の気持ちはまだ聞けていないが、その涙こそが名前の気持ちすべてなのだと。
名前の流す涙は、涙とは無縁と言っても良い陣平がつられてしまいそうになる程、嘗て見たどれよりも美しく、この世のものかと見紛うくらいに尊く見えた。
思わず時を忘れて、見惚れる。
人はこんなふうに、幸福で泣けるのか。名前といると自分の情緒までが豊かになる錯覚に陥る。そんなことをぼんやりと考えながら名前を見詰めていたのだが、いつまで待っても名前からの返答はない。そのうち先に陣平の痺れが切れてしまう。
「⋯⋯んで、返事は貰えないのかねえ」
故に冗談めかして言ってみた。その直後、それが自分の口から出たものなのかと疑った。それくらい優しい響きをした声だった。
陣平の言葉に、名前は幾度も幾度も頷いて。何度か唇を開いて閉ざしてを繰り返し、湿った涙声を懸命に紡ぎ出す。
「じっ⋯⋯陣平くん」
「ああ」
「わたし、と⋯⋯ずっと一緒に、いて下さい⋯⋯っ」
「⋯⋯返事の代わりに願われちまった」
願うのは陣平のほうだ。
それを叶えるために、かたちにした決意であり覚悟なのだ。それを、名前も願ってくれるというのなら。陣平は生涯をかけて名前を守り、命ある限り離れないと誓う。
いや、例え命が──散ったとて。
「んなのたりめーだ、バカ。俺はもう、名前なしじゃ──」
──生きていけねえ。
そんな言葉が口を衝きかけて、流石に重過ぎるかと踏みとどまる。自分が心の奥底ではそんなことまで思っていたのかと気恥ずかしくなり、代わりに弁明にも似た言葉が転がり出る。
「一年も待たせちまうのにこんなこと言うなんて、随分と自分勝手だよな。けど、これが俺なりのケジメみてえなモンなんだ。だから⋯⋯ありがとな、名前。もう少しだけ、待っててくれ」
「⋯⋯っ、うん」
頷く名前を抱き締めたくて仕方がない。涙を拭って、その体躯を腕の中に仕舞い込んで。
そんな衝動を懸命に抑える。
そうするうち涙が止まり、火照った心を落ち着けてから、名前は酷く嬉しそうに「指輪、着けてもいい?」と首を傾げた。名前のモンだぜ、と箱を手渡すと、華奢な指先が僅かだけ震えながら、そっとリングを掬い上げる。
左手の薬指。ゆっくりと爪先を潜ったダイヤはやがて、そこが自分の居場所だと言わんばかりにぴたりと基節部を彩った。
それを見た陣平から、ほうっと深い吐息が落ちる。
ああ、──良く似合っている。
「⋯⋯きれい。それに凄いぴったり。サイズ知ってたの?」
「いや全然。ただ俺、手先の感覚鋭いからな。名前の指の感覚思い出したら一発だったぜ」
「⋯⋯へ?」
名前は間の抜けた声を出した。陣平の言っていることが良く分からない。例えば手を繋いだ際の感覚を思い出したのだとして、そこから指輪のサイズを当てるに至るというのだろうか。全くもって謎である。
「それに、こんな素敵な場所も用意してくれて」
「これはよー、マッッジでこういうの柄じゃねえから、これでも死ぬ程考えたんだぜ。出逢った高校に行くとか、星見たあの公園にするとか、寧ろ家か? とか⋯⋯けどレストランもちょっとベタ過ぎたか」
「ううん、夢みたい⋯⋯」
──夢みたいだ。
左手の薬指。ダイヤモンド。四方に眩く光を弾くそれを愛おしく見詰めて、名前は現を彷徨うように思う。本当に、夢みたいだ。
陣平と出逢ってからの日々が自ずと浮かび上がっては、記憶の中に戻っていく。
屋上で過ごした高校時代。空白の五年間。嘘みたいな再会。初めて身体を重ねた日。萩原の死。ひとつ屋根の下で過ごした毎日。その日々の最中、陣平がひとり指輪を選んでくれている場面を想像して、また、涙が滲み出す。
ずっと思い描いてきた。このまま、この人と。人生をともに歩めたらと。最愛の。自分よりもずっとずっと大切な。
それが、松田陣平という人間だ。
願わくば、最期の日を迎える時、お互い皺々になった手を握り合って、長かった人生を「色んなことがあったけど、でも、一緒に生きられて本当に幸せだった」と語れるような。そんな平凡な生を全う出来ますように。陣平の人生が、限りない幸福で満たされますように。その生を名前の微々たる力で守り抜けますように。
どうか、どうか、ずっと一緒に。
そんな尽きぬ願いを。
心の底から、願った。