風が吹く。くん、と鼻先を掠めた匂いに、名前はふと足を止め空を見上げた。雲が高い。空が淡く遠い。からりと澄んだ空気に冷たさが忍び込んでいる。何も哀しいことなど起こってはいないのに、どこか物哀しくなる。秋が本格化してきたからだ。
左の薬指で、光が反射する。
あれから一年。入籍予定の日まで、あと数週間というところまで時節は流れていた。早かった。長いかと思われた一年も、過ぎてしまえばあっという間だ。
「⋯⋯もう秋かあ」
止めていた足を今一度動かし始めた名前の足元を、色付いた葉が一枚掠めた。
その日の夜のことだ。帰宅した陣平がスーツを脱ぎながら告げた言葉に、名前は目を丸くして問い返した。
「⋯⋯転属?」
「ああ」
「えっと、もう一回言って、強行犯⋯⋯何係?」
「捜査一課強行犯三係。本当は特殊犯係が希望だったんだけどな。あのクソ親父共⋯⋯しかも例の日まで時間もありゃしねえ」
「そこは⋯⋯何するところなの?」
何故警察の組織の名称はこうも複雑なのだろう。名前を聞いたところで分かりもしない。
どこか淡々と説明をしてくれる陣平によると、その捜査一課強行犯三係というのは殺人事件や強盗事件を担う組織であるらしい。萩原の仇を打つべく爆弾事件を担当する特殊犯係に長いこと転属希望を出し続けていたらしいが、それが叶わず言葉の端々に不満が滲んでいる。
しかし名前には。陣平の不満に寄り添う余裕がなかった。
「⋯⋯名前?」
「ごめん、陣平くん」
「どうした」
「なんか⋯⋯怖くなっちゃった」
身体の芯が震えている。陣平の言葉が落ちていった胸のあたりから振戦が広がり、手先にまで伝播していく。細かく震えてしまう手に力を入れようとするが、上手く力が入らない。抑えることがどうしても出来ない。
言うことをきかない手を胸の前で握り込む。
「ごめんなさい、こんな⋯⋯でも⋯⋯っ」
母を亡くした。
萩原を亡くした。
もう誰も、連れて行かないで。その想いが瞬く間に膨れ上がる。怖い。こわい。陣平がどこかに行ってしまう。名前の手の届かないところに。
そんな不穏な胸騒ぎばかりが、何かに取り憑かれたかのように心を占める。
数年前、陣平が爆発物処理班に入ると決めた時にしたはずの覚悟。去年、指輪を贈ってもらった時にした決意。ずっと心の底に敷き詰めていたはずのそれらが、今になって何故だかこんなにも揺らぐ。ぽろぽろと。ちいさな、しかし非情で残忍な音を立てて。崩れていく。
気付けば陣平の服の胸元をきつく握り締めていた。
「陣平くん、やだよ、どこにも行かないで⋯⋯っ」
「⋯⋯どーした名前。行かねえよ。お前置いて、どこ行くっつーんだよ」
「っ、⋯⋯やだ」
頭を横に振っていた。陣平の声が酷く遠い。こんなに近くにいるのに。真っ暗な海の底に沈んでしまったかのように目の前が朧げで、音が歪んで上手く聞こえない。
「名前」
「⋯⋯っ、」
「名前、こっち見ろ」
陣平の手のひらに両頬をむぎゅりと包まれ、目と目が合うように上を向かされていた。
「大丈夫だから。俺はここにいるし、どこにも行かねえ。さっさと犯人とっ捕まえて⋯⋯漸くお前と一緒になるんだからよ」
「⋯⋯そう⋯⋯だよね」
そうだ。それが少し先に約束されている未来のはずだ。
不安というものの多くは現実にはならないし、名前の杞憂が現実のものになる確率も低いのだろう。それに名前が心配したところで変わるものでもないのだから、もっと別のことを考えて──例えばもう少しで納品になる結婚指輪のこととか──幸せな気分でいたほうが、自分にとっても周囲にとっても良いに決まっているのだ。
それなのに。
何故、涙が落ちているのだろう。
「ごめんね、やだ、わたし⋯⋯どうしちゃったんだろう」
「大丈夫だ。大丈夫だから」
名前の狼狽ように、陣平も困惑しているようだった。名前の身体を抱き締め、背を擦り、安心出来るよう声を掛けてくれる。
本当は、すぐにこう言いたかった。
少しでも犯人に近付けて良かったね。頑張ってね。絶対捕まえられるよ。そう言って背を押し、帰りを信じて待ち、萩原との約束を果たせたことを共に喜び祝福する。そんな自分でいたかった。
理想とは程遠い自身の姿と、そんな自分を自覚してなお抑えられない憂慮。その狭間で葛藤し落ち込む名前を、陣平は切ない心地で抱き締めていた。
陣平には、名前の気持ちが手に取るように分かった。ずっと一緒に過ごしてきたのだ。名前の思考の性質や性格は心得ているつもりであるし、例え名前の生育環境を鑑みなくともその慈愛に満ちた心根を考えれば、此度の転属で並々ならぬ心配を掛けてしまうことは明らかだ。
いや、今回のことに限らず、日頃から名前が陣平の身を案じてくれていることは知っている。出来ることなら名前に心配を掛けずに過ごしていたいとも思う。
しかし。しかし、陣平には。
萩原との約束を、忘れることも出来ない。
友を想い、そして名前を愛するが故の葛藤に、陣平もまたその身を置いている。大切にしたい。守りたい。その気持ちはいつも揺るがないのに。それを貫くだけでは生きていけぬこの世界が、今ばかりは憎たらしい。
その憎々しさを浄化するかのように。名前の不安を少しでも払拭出来るように。名前を抱き締める力を強める。強がりで気丈に振る舞いがちな名前が、こんなにも心を露わにし陣平に縋ってくる。並大抵のことではないのだ。
その心に名前は、──一体どれだけの。
「⋯⋯陣平くん⋯⋯っ」
気付けば二人は、ベッドに雪崩込んでいた。
言葉は要らなかった。ただ互いの存在を、最も近いところで感じたかった。最愛を抱いて。この世でたったひとりの腕の中で、その愛に埋め尽くされて。
心に一分の隙間も残らないように。