意地悪な神様へ





 陣平の転属の日。十一月一日。
 その日まで名前たちは、毎日のように求め合った。何かに突き動かされているかのように、その衝動は尽きることがなかった。

 その日の朝も、名前は陣平の腕の中で目醒めた。触れ合っている素肌が心地良い。その温もりに頬を擦ると、陣平の腕が名前に回る。首を捻り見上げると、寝惚けているくせに愛おしそうに見詰めてくる瞳とぶつかって、その擽ったさに頬を緩める。

 まだ力の入らない声でおはようをし合った後、名前の髪を梳きながら陣平が言う。
 

「俺さ、今日から暫く帰れねえわ」
「⋯⋯? 毎日泊まりってこと?」
「いや、決まった業務ではねえんだけど、色々調べたくてよ。例の日まで時間もねえし、出来ることは全部しておきてえんだ」
「そっか⋯⋯うん、分かったよ」


 向こう一週間、帰宅せずに庁内に泊まり込むつもりだという陣平に、名前はゆっくりと頷き返す。


「そしたらわたし、替えのパンツとか届けに行くね」
「あ? わざわざいーよ、んなの」
「だめだよー、陣平くん集中したらすぐ他のことおざなりになっちゃうから、ほっといたらずーっとおんなじの履いてそうだもん」
「いや流石にそれは⋯⋯」
「⋯⋯それは?」
「⋯⋯ねえとは言い切れねえけど」
「ふふ、ほらぁ。ちゃんとシャワー入って、着替えもするの。新しい部署なんだから、せめて身体面くらいは愛想良くしなきゃ」


 などと、まるで陣平の愛想が悪いとでも言いたげに名前は笑う。その前髪を掻き上げるように頭を撫で、陣平は「けどよ」と続ける。

 
「オメーだって仕事あんのに」
「⋯⋯わたしもね、何かしたいんだよ。でもわたしが直接出来ることは何もないから。せめて出来ることをやらせて欲しいの。⋯⋯それに、陣平くんに会える口実にもなるし」


 陣平の腕に頬を預けながらぽつりと付け加えた名前を見下ろす。表情は見えない。しかし陣平に向いた頭頂部が。

 ──ほんとは、寂しいよ。

 そう、告げていた。

 同棲をし始めてからというもの、ほぼ毎日顔を合わせることが出来ていた。いつしかそれが日常となっていて、会えなかった頃の日々を思い出すことすら最早難しい。一緒にいることがそれ程当たり前になっているのだ。

 恐らく、たった一週間のことではあるが。

 されど、一週間なのだ。


「じゃあ頼むわ。ありがとな」
「うん!」
「けど無理はすんなよ」
「うん!」


 陣平が言うと、名前はぱっと顔を上げ嬉しそうに笑う。名前から向けられる無償の愛が、陣平も嬉しかった。

 名前を守るために。

 この愛に触れるたび、陣平は考えるのだ。名前を守って生きていくために、自分には何が出来るのだろうかと。




 
 転属初日ということもあり、陣平は普段よりも随分と早く家を出た。玄関で見送る名前にもいつもより気合が入る。
 
  
「行ってらっしゃい!」
「おう、行ってくる」
「喧嘩しないんだよ!」
「ああ、出来たらな」
「待ってるからね」
「ああ、待ってろ」
「陣平くん、大好き!」
「──⋯⋯」


 少し間を置いて、今日ばかりは「俺も」と返そうとした陣平の唇を、背伸びをした名前のそれが塞ぐ。陣平よりも少しあたたかく、ふっくらとやわらかな。毎朝陣平を送り出してくれる名前の感触だ。それをしっかりと抱き、陣平は部屋を出た。

 玄関の戸が閉まる直前。陣平がサングラスを掛けた音が、微かに響いた。



*
 
  
「松田くんて、いつもメールしてるのね」


 RX-7のハンドルを握り、佐藤美和子がそう溢した。助手席に座る陣平は視線を動かすこともなく、ただ答える。

 
「まあな。ここ数日一人きりにさせちまってるし」
「? 誰を?」
「彼女」


 刹那、車内を沈黙が満たす。
 陣平としてはこれ以上話すことはないので構わないのだが、その沈黙の中、佐藤からの視線だけを異様に感じ、陣平は溜め息と共に問う。


「あんだよ?」
「⋯⋯松田くんみたいな人にも彼女とかいるのね」
「はあ? ついさっきアンタも聞いてただろうがよ。『もしかして彼女かしら?』とかって」
「あれは一種の揶揄いみたいなものよ。まさか本当にいるなんて⋯⋯ていうかさっきは彼女いるなんて言わなかったじゃない」
「そりゃメールの相手聞かれただけだしな」
「⋯⋯それはそうだけど」


 その時のメールの相手を問われたから、ダチだ、と答えただけだ。天国の萩原に。自らの決意と、名前との未来を知らせていた。


「一人きりにって、一緒に暮らしてるの?」
「ああ。明日籍入れる予定だ」


 途端、再び沈黙が満ちる。
 佐藤が口をあんぐりと開けて陣平を見ているのが視界に入ってしまい、やはり溜め息と共に問う。


「だから、何だよ? つーかちゃんと前見て運転してくれよな」
「籍って⋯⋯え?! 結婚するの?!」
「それ以外に彼女と入れる籍っつーのがあんなら教えて欲しいね」
 

 いちいちオーバーなリアクション──しかもちょいちょい失礼な──を返してくる佐藤に、陣平は呆れた眼差しを向ける。それを受けた佐藤は、不思議そうにしげしげと陣平を見返す。

 
「貴方みたいな人と一緒になろうだなんて⋯⋯一体どんな女性なのかしらね」
「どーいうことだコラ」
「だって絶対大変じゃない。このたった数日で分かるわよ。松田くんを振り回せるくらい態度がデカいとか口が悪いとか、逆によっぽど出来た女性じゃなきゃとても⋯⋯」
「アンタも好き勝手言ってるよ。⋯⋯よっぽど出来た人間なんだよ、アイツは」
「へえ、素直なのね」
「ああ。なんせアンタが言うところの“この俺”が惚れ込むようなヤツだからな」
「⋯⋯へえ」

 
 向けられる佐藤の視線には物珍しさと、そして。⋯⋯──何だ? この微妙な表情は。陣平は内心で首を傾げる。奇っ怪なものでも見るかのような視線の他に、もうひとつ。上手く読み取れない感情が隠れている気がして。

 しかしその深読みも、車がちょうど目的の交差点に差し掛かったことで、陣平からは忘れ去られることになる。

 
「──あ、そこの角で止めてくれ」
「え? 何?」


 咄嗟にブレーキを踏み車を路肩に寄せ、佐藤が辺りを見回す。何か事件でもあったのかと探る素振りだが、陣平はただ個人的な用を済ませたいだけである。

 
「すぐ済むから少しだけ待っててくれ」
「ちょっと、勤務中よ。何の用かくらい言ったら?」
「⋯⋯頼んでた結婚指輪が納品されたんだよ。アイツに内緒で受け取っとこうと思って」
「は⋯⋯はあ?!」


 怒りを含んだ声を荒げる佐藤に軽く手を上げ、陣平はドアを開けさっと席を立つ。助手席のドアが閉まるかというその瞬間、佐藤がハンドルを強く叩く音と、陣平への怒号とが飛んできた。


「信っじらんない! 私の車はタクシーじゃないのよ!」