意地悪な神様へ





 本庁に戻り、草臥れた身体を椅子に沈める。降り掛かり続ける事件の合間を縫って萩原の墓参り──本来は明日が命日であるが、明日は例のファックスが届くことが予想されるため、前日である今日、同期四人で──に行ったはいいものの、そこでまた大変な事件に巻き込まれてしまった。まさかあんなドンパチをする羽目になるなど思いもしなかった。無事に生還出来たのも、空の上から見守ってくれているのであろう萩原のお陰だ。


「⋯⋯ありがとな、萩」


 天井を見詰め、改めて呟く。

 期日を少し過ぎてしまったが、入籍予定日には間に合うかたちで納品された結婚指輪。名前には内緒で受け取り内ポケットに仕舞っていた対の指輪を、無意識に撫でていた。

 今日の事件で傷が付かなくて良かった。

 明日、仕事を終えたら役所に出向き手続きをして、そして名前の指にこれを嵌める。そんな場面を想像しふっと息を吐いたその時、ポケットの中の携帯が振動する。届いたメールを確認した陣平は、重たかったはずの身体ですぐに立ち上がった。



 

「陣平くーん、こっちこっち」
「名前。いつも悪いな」
「ううん。昨日一昨日は来れなかったから少しでも会えて嬉しい! はいこれ、靴下とシャツとパンツと⋯⋯あと今日は仕事早く終わったから差し入れも!」
「⋯⋯すげーいい匂い」
「たくさん出来ちゃったから、もし残業してる同僚に手作りが嫌じゃない人がいたら一緒にどーぞ」
「あ? ヤローになんかやるかよ」


 鼻腔を擽る芳しさ。名前と過ごすあの部屋で。いつも陣平を満たす匂いだ。途端に腹の虫が鳴き、名前がくすくすと笑いながら袋を差し出してくる。受け取った袋はまだ温かい。隙間から中を覗くと、どれもこれも陣平の好物ばかりだった。

 名前も仕事だったのに。仕事を終え、何種類もの料理を作り、それをこうして持ってきてくれたのか。そう思うと、まだ食べてもいないというのに鳩尾がほかりとあたたまる。


「陣平くん、ちゃんと寝てる? 大丈夫?」
「ヨユーヨユー。どこでも寝れんのが特技なもんで。名前こそ無理してねえか?」
「うんっ、元気! 陣平くんのまだ洗ってないパジャマと一緒に寝てるし!」
「は⋯⋯」


 思わず呆けた陣平の目の前で、名前は「同じ洗剤で洗ってるのに、やっぱり少し違うんだよねえ」とはにかんでいる。何か。アレか。陣平のパジャマ──名前と色違いのものだ──を毎晩抱き締めながら寝ているとでもいうのか。

 ──何だそれ。可愛いかよ。

 
「それじゃあ、すっごく名残惜しいけど⋯⋯長居も悪いからそろそろ帰るね。明日の朝は、わたしも萩くんのお墓参りしてから仕事行くんだ。明日が決戦なんだから、今夜はちゃんと休んでね。わたし、待ってるから」
「──こら待て、名前」


 仕事の邪魔をしては悪いと思っているのだろう。言いたいことを矢継ぎ早に口にして踵を返そうとしていた名前を、引き止める。たくさん提げていた荷物が減り身軽になった名前の手首を掴み、「ちょっとだけこっち来い」と庁舎の非常階段へと連れて行く。

 困惑した様子で周囲を見回しながらも大人しく着いて来た名前。人目が届かなくなった瞬間、その身体を羽交締めに近いかたちで抱き締める。途端に香る名前の匂い。滑らかで繊細で、それなのにぴったりと吸い付くような肌の感覚。

 ──ああ、名前だ。
 
 陣平の肺腑の奥底から、深い深い息が漏れる。こうして名前を感じるのは、実に一週間ぶりのことだ。
 

「あ、の、陣平く⋯⋯?」
「お前だけ俺と寝てるなんてズリーだろ」
「じ⋯⋯陣平くんと寝てるわけではないのですが⋯⋯」
「同じようなもんだ。俺も足りねえんだよ、充電させろ」
「⋯⋯っ」


 ぎゅう、と。腕に更に力を込めると、名前は息を詰め、それから大人しく陣平の背を掴み返した。
 
 
「⋯⋯何だかとっても悪いことしてる気分」
「要はバレなきゃいーんだよ」
「ふふ、警察官の台詞じゃないのよ」


 ──怖くない、と。
 そう言えば、きっとそれは嘘になる。

 明日。明日が例の日なのだ。何が起こるか分からない。自分がどうなるかも分からない。

 どちらかなのだ。

 ここまで来て何も起こらず肩透かしを食らうか。やはり何かが起こり、何らかの結末を迎えるか。微塵も予想が出来ない明日という日を目前にして、陣平も、そして名前も、心の中には漠然とした不安のようなものを抱えていた。

 出来る事ならいつまでもこうしていたい。離れたくない。

 ずっとこうして。
 ずっと、二人で。

 気付けば舌を絡めていた。幾度も角度を変え、深く深くまで差し込んだ舌で名前の咥内を堪能する。それに名前の小さな口が懸命に応じる。陣平がより一層求める。名前を抱く腕に力を込め、頭を撫で、何度も何度も。名前の膝から力が抜け落ちそうになるまで、そうして陣平は名前を蹂躙した。

 やっとの思いで離した唇。荒いだ息。何を理由に潤んでしまったのか分からない名前の瞳を焼き付けて、陣平は、切なく眉を寄せる。
 

「⋯⋯名前」 
「⋯⋯また明日ね、陣平くん」
「ああ。気を付けて帰れよ」
「うん」
 
 
 何度も振り返りながら、それでも見えない何かに引かれるようにして離れていく名前を見送る。ついぞその姿が見えなくなってからも、陣平は暫くその場から動くことが出来なかった。






 
「嘘! ちょっとなあに? 松田くん、彼女にそんなことさせてるの?」
「させてるわけねえだろ、今日だけだよ」
「本当かしら。⋯⋯ていうか美味しそうね」


 庁内に戻り、机の上で名前の手料理を食べていた時だった。帰り支度を済ませたらしい佐藤が通り掛かり、机上に並んだ料理を見て小言を言いながらも目を輝かせたのは。

 その直後に響いた、「ぐう、ぐぐぅぅー⋯⋯」という大層立派な音。陣平は思わず苦笑いをして佐藤を見上げる。
 

「⋯⋯んな腹の音させたってやんねえぞ」
「なっ、だっ、誰が!」
「ハハ、なんつってな。アンタも食うか? こんな時間だし腹減ってんだろ。アイツ、俺の他に腹空かせたヤツいるかもと思ってたくさん作ってくれたみてえなんだよ。アンタが男だったら絶対やんねえとこだけど、幸い女だしな、いーぜ」
「⋯⋯何よその言い方は」


 そう言いながらも空いている席にちゃっかりと腰を下ろした佐藤は、珍しいものでも見るかのように、並んだ料理にまじまじとした視線を注いだ。
 

「⋯⋯ほんとに好きなのねえ」
「だーかーらー、じゃなきゃ結婚なんかしねえっつーの」
「それはそうなんだけど。やっぱり余りにもイメージが出来なくて。松田くんがこんなに愛されるなんて」
「あ゙? 悪口ばっか言ってっと飯やんねえぞコラ」
「やだ、ごめんなさい、悪口じゃないのよ」
「十分悪口だよ」


 などと言い合いながら、佐藤はひとくち、名前の料理を口にする。すぐに「わあ、美味しい」と自然に溢れ出た一言に、陣平は自分が褒められたような心地になった。

 結局、明日の朝食分を残して二人で綺麗に平らげた料理を見て、陣平は「良く食う女だな」と若干の皮肉を込め笑う。佐藤は「良いじゃない、刑事は身体が資本なのよ。それにこんなに美味しいのが悪いわ」と言い残し、帰宅していった。

 その台詞もあってか、名前の料理を褒められた鼻高々な気分は佐藤の帰宅後も消えることはなく、加えて久しぶりに触れた名前の感触と空気を思い出し、この日の仮眠は転属後最も効率的で幸福感を携えたものになったのだった。