意地悪な神様へ





 携帯の振動で目が醒めた。
 

「おはよー陣平くん、綺麗な日だね」

 
 そんなメールの一文だった。
 そこに“頑張ってね”“無理しないでね”“行ってらっしゃい”、様々な言外の想いが詰まっているのを感じる。本当に柔らかなヤツだと思う。

 いくつか繋げてベッド代わりにしていた椅子から、転げ落ちぬよう身体を起こす。もう朝か。睡眠は明け方から数時間しか取っていないが、不思議と身体は軽く、熟睡感がある。昨夜名前に会えたからだろう。
  
 軽く首周りを動かし、それから窓辺へと寄る。ブラインドカーテンのスラットを持ち上げた陣平は、目を細めた。

 ──あの日みてえだな。

 そう思う。萩原が死んだ日と同じに。名前の言う通りに。綺麗な日だ。朝陽が注ぐ紅葉が穏やかに揺れている。紅、黄、茶、緑。いくつも入り混じった街路樹だ。毎日見ていたはずだが、陣平は今、初めてその存在を意識した。

 ──はよ、名前。

 そう呼び掛け、それから冷蔵庫へと向かう。夕べ名前が届けてくれた料理を、今日こそは誰にも邪魔されぬうちに一人で食べるのだ。

 そうして温め直した料理を堪能し、ぷかぷかと一服していた頃だ。どの職場にもいる早起き早出勤の者たちが顔を出し始め、陣平一人きりだったフロア内に人気が満ち始めたのだった。




 
 予想通りだった。
 
 待ち構えていた陣平のもとに届いた例のファックス。記されていた忌まわしき暗号。それを解いた陣平はすぐに杯戸町のショッピングモールにある大観覧車へと向かう。

 到着した時には既に一度の爆発が起きており、現場は騒然としていた。爆発の影響で制御不能となっている観覧車の、その七十二番目。そこに爆弾があるのを確認するや否や、陣平は迷わず乗り込んでいた。この事件に爆弾が絡んでくることを見越して持ってきていた解体道具と共に。

 四年前、親友を死にたらしめた憎い憎い爆弾。さっさとこれを解体して、もう一つの爆弾の手掛かりを──と考えていた、その時だった。

 爆発音が耳を衝く。直後、ゴンドラが大きく傾ぎ、停止する。流石に慌てて爆弾を見ると、今の衝撃で水銀レバーが作動してしまっていた。⋯⋯まずいな。そう思うと同時に、地上で待つ佐藤からの着信。それに応じながら解体を進めようとした陣平は、突如として目の前に現れた光景に、ぷつりと言葉を切った。

 爆弾の液晶に、文字が流れ始めたからだ。
 
 その反吐が出るような文面を電話を繋いだまま読み上げながら、こう思わずにはいられなかった。この犯人は一体どこまで極悪非道で。どれだけ人を弄べば気が済むのだろうと。

 そんな陣平の胸中を他所に、液晶は淡々と告げるのだ。十四時に爆発すると予告されているもう一つの爆弾。その在処のヒント。それが示されるのは。


「爆発三秒前⋯⋯」


 自分の命と、大勢の命と。

 頭の中で天秤が揺れる。それぞれに命という何物にも代えられない重みを乗せた秤が、束の間だけ揺れる。どちらかしか選べないに等しいこの状況。ここで真っ先に浮かんだのは、悲観や絶望、或いは正義感や使命感ではなく、──名前の顔だった。


 ──名前。


 名前を想えば、自分の取るべき道はひとつだけだ。もう一つの爆弾が仕掛けられている場所に、最愛がいるかもしれないのだ。迷う理由など何もなかった。

 故に早々に佐藤との電話を切り上げる。煙草に火を付け、空で言える名前の携帯番号を押していた。

 陣平に残された時間はせいぜい三分程度。余りにも短く、余りにも残酷な時間だ。しかしその僅かな時間だけでも与えられたことが、陣平にとってはせめてもの救いに思えた。最後に名前を想ういとまを手に出来たのだ。

 だからこそこの時間は。
 すべて名前に使いたい。

 しかし、名前は今仕事中だ。恐らくこの電話が繋がることはないのだろう。それでも電話を掛けないという選択肢はなかった。話が出来なくとも構わない。ただ何かひとつでも、名前との繋がりを持っておきたかった。

 だが予想に反し、陣平からのコール音は瞬く間に途切れる。その間僅か一コール。


「もしもし、陣平くん?」

 
 名前の声が、耳に届いて。
 

「──⋯⋯」
「あれ? もしもーし」


 まさか名前が電話に出るとは思っていなかった陣平は、咄嗟の返答に窮した。驚きに開いた目で、一度耳から離した携帯をまじまじと見詰める。

 これも何かの運命だろうか。
 
 最後に名前と話す時間をくれた神──など信じてはいないが、それでも敢えて名を付けるとするならば、そう呼ぶのがふさわしいのだろう──に、生まれて初めて感謝をした。

 
「⋯⋯お前、仕事は」
「少し早めのお昼休憩に入ったところで、ちょうど携帯触ってたの。ふふ、びっくりした?」
「⋯⋯ああ」
「⋯⋯陣平くん? ⋯⋯何かあった?」


 三分か。改めて思う。たった三分で、何を話せる。名前に何を伝えられる。将来を約束し合ったまま、たったひとり。名前だけを残して逝ってしまう自分が、この時間で名前に残せるものは、──何だ。

 そう考えながら、口を開く。

 
「名前⋯⋯悪い、今日の夜、ちょっと行けなくなっちまった」


 言えなかった。まさか自分が今から数分後、爆弾に殺されるなどと。仇は取れず、萩原と同じ場所に行くことになってしまったと。だから今夜予定していた役所には行けなくなった。なんて。

 言えるはずが、なかった。

 陣平の言葉を聞いた名前は、仕事が立て込むせいだと思ったようで、慌てたように答える。
 
 
「ううん、大事で大変な日なんだから、もともと行けたら万々歳くらいに思ってたし⋯⋯それなのにわざわざ連絡までありがとうね」
「ああ」
「お昼ご飯はこれから? 無理してない?」
「ああ」
「帰って来れるかもまだ分からないよね。でも一応、温め直しても美味しいもの作っておくからね」
「⋯⋯ああ」

 
 朝、名前が昨夜持って来てくれた料理を食べた。最後に口にした食事が、名前の作ったもので良かった。美味かった。いつも美味い飯ありがとう。

 そう伝えたいのに。

 言葉が出なかった。ただ、いつも通りの名前の声を抱いているのが精一杯だった。陣平を気遣い掛けられる名前の言葉に「⋯⋯ああ」と、こう返事をすることしか出来なかった。

 でなければ、零れてしまう。

 涙となって。

 いや、とうに零れているのか。分からない。名前の声を聞いているだけで、喉の奥が熱い。妙に凪いでいるはずの心の表面、その奥底で、今まで感じたことのない激情が渦巻いている。

 痛くて、切なくて、苦しい。

 心に誓っていた。仇を打つと。そのための覚悟も持っていた。つもりだった。しかしいざその局面に立たされてみるとどうだ。

 名前。

 名前だけ。

 名前だけが、置いていけねえ。

 ギリリと奥歯を噛んでいた。知らなかった。名前と出逢うまで、こんなかたちの幸福があることを。

 陣平は、知らなかったのだ。

 瞼を閉じてみる。名前と過ごした日々の一瞬一瞬が、些細な一瞬の幸福と充足が、脳裏を一分の隙もなく埋め尽くす。余りにも多くを与えてもらった。陣平の手に有り余る程を、名前は与えてくれたのだ。
 
 許されるのなら、最後にもう一度だけ。名前に触れたい。叶わぬとは分かっている。分かってはいるのだ。だからせめて。昨晩この手で抱き締めた名前の感触を抱いたまま、その時を迎えたかった。

 電話越しの存在を確かめるように、手のひらを強く握る。
 

「なあ名前」
「んー?」
「──愛してるぜ」
「⋯⋯え⋯⋯な、急に、どうしたの⋯⋯」


 名前が息を呑んだのが分かった。陣平に似合わぬ台詞に、もしかしたら何かを勘付かれてしまうかもしれない。しかしそれには構わず、もう一度、囁く。
 

 
  
「名前──⋯⋯愛してる」
 

 

 もっと口にすれば良かった。好きだ。愛してる。誰よりも名前を。世界中で名前だけを。 

 ──愛していると。

 言葉にしてみればこんなにもあたたかい。羞恥や面映さを遥かに凌駕するぬくもりが、胸をいっぱいに占めるではないか。

 何度だって。伝えれば良かった。

 陣平のこの言葉を、名前がどう捉えたかは分からない。だがこういう時、決して茶化したりしないのが名前という人間だ。幾ばくかの間を取ってから、名前が静かに、息を吸う。 

 
「わたしも⋯⋯わたしも愛してるよ、陣平くん。誰よりも、陣平くんを愛してる」
「──⋯⋯ッ」


 もうじき破裂してしまう心臓が、名前の言葉にやわらかく締め付けられる。

 陣平に“愛”を説いたのは、間違いなく名前だ。その存在で。ぬくもりで。共に過ごす日々で。陣平に愛の何たるかを教えてくれた。 
 

「⋯⋯ふふ、やだ、恥ずかしい」
「ほんと、何してんだかな」


 今の自分はきっと、誰もが驚くような穏やかな表情をしているに違いない。もう名前と話していられる時間もないのに。これが、最後だというのに。それでも浮かぶこの表情が、心に灯るぬくもりが、陣平の選んだ道の正しさを示す答えのような気がした。

 ──ああ、もう時間だ。

 最後に手にし得た名前との繋がり。決して手放したくないそれから、陣平は、決死の想いで手を離す。
 

「⋯⋯んじゃあそろそろ切るぜ。──じゃあな、名前」
「うん、またね」


 名前は敢えてその言葉を選んだように感じた。「またね」。陣平の帰りを信じてくれている名前の笑顔が、胸に刺さる。
 
 切実に願った名前との未来。それはもう潰えてしまうが、陣平が隣にいなくとも、名前の未来は続いていく。願わくばその未来が永劫、幸福に満ちたものであらんことを。

 そして最愛を、友へと託す。
 
 ヒロ。ゼロ。班長。

 悪いな。一足先に、萩んとこ行くことになっちまった。名前のこと頼むわ。アイツ、皆の前ではいっつもにこにこしてるけど、本当は凄え泣き虫なんだよ。優しくて、慈愛に満ちてて、些細な幸福で泣けるような。

 俺がいなくなったら、名前、どうなっちまうかな。泣いて、泣いて、泣いて、そのあと、どうなっちまうかな。そんな時こそ俺が傍にいてやんなきゃなんねえのに、俺が最後に名前を傷付けちまう。せめて名前が傷付くのが、今日が最後であるように。心から願う。

 ふう、と吐き出した煙草の煙が上る。いつもより随分と湿り気を帯びた煙は、ゴンドラの中をゆっくりと上り、霧散する。

 名前の父親は、名前の母親を亡くし暫くしてから再婚したと言っていた。今の陣平には分かる。人生を共に歩みたいと思える相手に出逢える奇跡も。その存在の尊さも、心強さも。だからこそ、いつか名前も。陣平の死を乗り越えて、その先で新たに生涯を共にする男に出逢ったなら。

 ──どうか幸せになってくれ。
 
 いや、強がりだろうか。心のどこかでは、ずっと陣平だけを想っていてくれと、そんなことを思っているのかもしれない。だが強がりでも良い。名前が幸せになれるのであれば。ちゃんと笑って、泣いて、美味いものを食べて、ぐっすりと眠る。そんな日々を守ってくれるような相手が現れるのなら。

 だから、そんな日が来るまで。
 
 頼むぜ、お前ら。


  
 固く握り締めていた携帯を開き、メール画面を用意する。内ポケットに仕舞っていたつがいの指輪をきつく握る。液晶に文字が流れ始める。ああ、嫌な予感が的中した。ここには今も名前がいる。陣平が生涯で何よりも守りたかった、たったひとりの愛おしい人間だ。

 でも、良かった。あとは仲間が爆弾を解体し、名前を救ってくれることだろう。名前の命を守る礎になれるのなら。この命、喜んで差し出せる。

 名前の勤める病院名を入力し、送信ボタンを押す。もう一度。指輪を硬く握り込む。

 ──名前。

 お前を守って死ねるんだ。最高に格好いい死に方だぜ。ありがとな。お前と出逢えたおかげで、俺の人生、この上なく満ち足りて幸せなものだった。
 
 お前の幸せを、心の底から願う。萩と一緒に、ずっと見守ってるからよ。じゃあな。

 名前。

 ──⋯⋯愛してる。