意地悪な神様へ





 まるで、“愛してる”を宿したかのような。そんな気配を纏った携帯を閉じ、丁寧に机に置く。少しの間それを見下ろしてから、弁当箱に手を掛けた、その時だった。

 不意に、名を呼ばれた気がして。
  

「⋯⋯⋯⋯陣平くん?」
 

 誰もいないはずの空間を、振り返る。
 
 それと同時だった。カチャリと休憩室の戸が開き、都が入ってくる。今の名前の言葉が聞こえていたらしく、訝しさの中に少しの悪戯心を混ぜたような表情で近付いてくる。

  
「なによー、私を“陣平くん”と間違えたっていうの? 流石に似てなさすぎじゃない? それとも新婚さんになるのが嬉しくてついに幻覚まで見ちゃったのかしらー」
「あれー⋯⋯確かに陣平くんに呼ばれた気がしたんだけどなあ」


 本当に、呼ばれた気がしたのだ。陣平の声に。名前、と。
 
 心底不思議そうに首を傾げる名前を見て、都は揶揄の気持ちを打ち消して問う。


「⋯⋯名前って霊感あったっけ? ほら、ここ病院だからさ、色々あるって聞くじゃん」
「残念ながら霊感はゼロでーす。会いたい人はいるんだけどな」


 母にも。萩原にも。もう一度だけでいいから会いたい。何度そう思ったか。しかしそれが叶わぬのが“死”というものであることが、名前の心には何年も掛けて刻まれている。

 気を取り直し昼食の準備を始めた名前の隣に腰を下ろし、都はしみじみといった調子で「それにしても」と口を開く。


「ついにもうすぐ名前の苗字、松田になるんだねえ」
「ふふ、何か変な感じ」
「あはっ、その顔彼に見せてあげたいな。嬉しいね」
「ふふ」

 
 そこからは、もう何度目か分からぬ女子の会話に花が咲く。指輪、結婚式、住居、等々。幾度考えても尽きぬ未来への希望を、二人で昼食を摂りながら語り合った。




 
 午後の仕事が始まり、どのくらい経った頃だろうか。何だか病院全体が妙に騒がしいような気配がして、リハビリ室の皆で「急変でも重なったのかな」なんて様子を伺っていた時だった。リハビリ室の受付の電話が鳴り、近くにいた和泉がそれを取る。いくつか言葉を交わしてから、和泉は声を張った。
 

「苗字さーん、外線っす! 良く分かんないんですけど、警察の人から(?)」
「え?」
「何か苗字さんの知り合いっぽい感じですけど」
「⋯⋯?」


 “警察”と聞いて真っ先に浮かぶのは陣平の顔だが、陣平と面識のある和泉がそういう言い方をするということは、電話の相手は少なくとも陣平ではないのだろう。それ以外で名前が面識のある警察関係者は陣平の同期数名くらいだが、彼らがちょっとした用事で名前の職場に電話を掛けてくるとも思えない。名前は居心地の悪い不安を抱きながら、和泉に近付く。

 
「苗字さん、警察のお世話になるようなこと、何かしちゃったんですか?」
「えー、良い事も悪い事も全然心当たりないよお⋯⋯何だろう」


 今日の出勤も平和なものだった。事故にも事件にも遭遇していないし、誰かとトラブルを起こしたり、逆に誰かを助けたりもしていない。普段と変わったことといえば出勤前に萩原の墓参りに行ったことくらいだが、それが原因とも思えない。

 嫌な、胸騒ぎがする。


「⋯⋯お電話代わりました、苗字です」


 自然と訝しむような声音になっていた。その名前の声に、男性特有の低音がやや食い気味に被さる。

 
「分かるか? 俺だ、伊達だ」
「⋯⋯班長?」
「ああ。携帯繋がらなかったもんで職場に掛けさせて貰ったんだが⋯⋯いや、やっぱり直接そっちに行くことにする」
「? リハビリ受けたいってこと?」
「すぐ着くから待っててくれ」
「え、班ちょ──」


 一方的と言っても過言ではないだろう。
 伊達にしては珍しいやり取りに、首を傾げながら受話器を見詰める名前。そんな姿に、和泉が聞く。


「何でしたか?」
「全っ然分かんなかった⋯⋯陣平くんの同期の人だったんだけど、これからここに来るって。怪我でもしちゃったのかなあ」
 

 それにしても、ここに来たからといって医師の診察や指示無しにすぐにリハビリが出来るわけでもないし、その点は伊達も承知だと思うのだが。

 と、ざわつく心から目を逸らしたくて“何かの理由”を探している自分を自覚しながら、それでも名前は業務に戻ったのだった。







「わ、班長、本当に来た⋯⋯!」


 言葉通りすぐに姿を見せた伊達は、その大きな肩で息をして、まるで全力で走ってきたかのような佇まいだった。


「⋯⋯良かった、大怪我してるわけじゃなさそうだね」


 良かった。と、そう口にしたのは、不安を打ち消すためだったのかもしれない。なぜなら伊達の表情が見た事もないほど険しく、そして曇っていたからだ。その表情のままじっと見下ろされ、名前は得体の知れない恐怖を覚え、思わず一歩、後退る。


「班長⋯⋯? 本当にどうかした⋯⋯?」


 不安そうに見上げる名前の視線を受けた伊達は、数呼吸分だけ息を整えてから、ゆっくりと口を開いた。恐ろしく静かな声音だった。

 
「⋯⋯落ち着いて聞いてくれ」
「⋯⋯え⋯⋯な、なに⋯⋯」


 途端名前の脳裏に、木霊する台詞があった。
 
 四年前。丁度四年前のこの日。陣平の口から、同じような台詞を聞かなかっただろうか。落ち着いて聞けよ。そう前置きして。

 胸の奥でどくりと心臓が脈打つ。
 その胸騒ぎのままに逃げ出したくなった。嫌だ。班長、嫌だよ。怖い言い方をしないで。そう叫んで、この場からいなくなりたかった。

 しかし身体は金縛りにあったように動かない。指一本さえ。瞼さえも。動かすことが出来ない。ただ名前は、目の前で伊達の唇が動き出すのを、動き出してしまうのを、見詰める他に成す術がなかった。

 その重たい唇が、僅かにだけ隙間を作って。





 


「松田が、⋯⋯──殉職した」





 


 時が止まったようだった。
 カチリと。時計の針が最後の音を立てて、動きを止める。


 ──“松田が、殉職した”


 周囲のすべてが動きを止めたのに、伊達の口から出たその言葉だけが動きを持ち、名前の脳内に響き続ける。その度にぐわんと頭の中が揺れる。何者かの手に頭の中を直接掻き回されたような感覚。すべての平衡感覚が失われ、酷い嘔気に襲われる。
 
 
「っ、苗字さんっ!」
「え⋯⋯名前?!」


 傾いだ名前の身体を支えたのは、近くで様子を伺っていた和泉だった。和泉の只ならぬ声にすぐに都が駆け付け、膝から崩れ落ちるようにへたり込む名前を、和泉に代わって抱き留める。
 
 名前の視線はどこか虚ろを彷徨い定まらず、過呼吸に陥りそうな短く浅い呼吸を繰り返している。異常だ。名前がこんなふうになるなんて。異常事態が過ぎる。この男──名前は陣平の同期だと言っていたか──は、一体名前に何を言ったというのだろう。

 都が説明を求めるように伊達を見上げる。その口から発せられるのはただ一言。陣平の殉職。それだけだ。警察側に何かしらの事情があるのか、名前への配慮なのか、この場でそれ以上の詳細が伊達から語られることはない。

 ただ一つの事実だけ。

 それだけが、伝えられる。

 
「嘘、そんな⋯⋯名前⋯⋯」


 都は必死に名前を抱き締めていた。

 だって、こんな。こんなことがあって良いものか。さっきまであんなに。あんなに幸せそうに笑って。燦然と輝く未来を描いていたのに。その未来の真ん中で笑う名前を、ありありと想像出来たのに。


「名前⋯⋯っ」
 

 何処かに心を置いてきてしまったかのような。或いは完全に閉ざしてしまったかのような。神様に魂ごと奪われた名前はただ、呆然と宙を映している。

 そんな名前を目の前にした都は、込み上がりそうになる涙を死に物狂いで堪えながら、必死に考えていた。どうしよう。どうしたら。名前。ああ、こんな時に、自分はなんて無力なのだろう。名前を抱き締めることしか出来ないなんて。
 
 そんな二人を硬く拳を握ったまま見下ろしていた伊達が、何かを堪えるように唇を震わせ、それから静かに告げる。
  

「⋯⋯俺と一緒に、来てくれるか」


 その言葉に、唇を噛み締めた都が頷く。
 恐らく名前の耳には届いていない。しかし今、行かなければならない。だからこそ伊達はここまで来たのだろう。名前を連れて行くために。

 陣平が、名前を待つ場所に。