意地悪な神様へ





 自分で歩いた記憶も、誰かと話した記憶もない。どうやってここに来たのか。何も分からない。伊達の告げた、ただ一言。殉職。それだけが頭の中で反響して、その他全てを拒絶していた。

 それなのに。そのはずなのに。

 目の前のベッドの上、布の掛けられた膨らみだけがしっかりと視界に入る。視線を逸らせない。目に映る光景の意味を考えるより先に、それはぐにゃりと輪郭を失い、そのまま世界のすべてが歪んでいく。

 そんな名前の身体を、誰かが支えてくれている。倒れぬように。しかしそれが誰なのか分からない。その誰かがいなければ、その腕がなければ、立ってさえいられないことだけは確かなのだが。

 恐らくはその人物が名前に話してくれているのだろう。爆弾。観覧車。病院。犠牲。そんな断片的な単語が、時折頭の中で木霊する。木霊して、勝手に映像を作って、目の前にいるのが陣平なのだと知らしめようとしてくる。

 言葉になど、したくはない。
 言葉にしてしまえばその時こそ現実になってしまう。今ならまだ。何かの間違いで済むかもしれない。悪夢で済むかもしれない。その希望を自らの手で終わりにするなんて。
 
 そう思うのに、それでも名前の口からは、ひとりでに零れ落ちていた。愛しい名が。何度も口にした、愛しい愛しい。


「⋯⋯じ⋯⋯陣平⋯⋯くん⋯⋯?」


 酷く掠れたその声の大半は喉に張り付いたまま、名前の呼吸を酷く阻害する。苦しい。息が出来ない。

 だって、どうして陣平は。

 
「⋯⋯ど、して⋯⋯返事⋯⋯」


 どうして陣平は、返事をしないのだろう。名前に顔を見せることもせず。本当なら「オウ名前、待たせたな。心配掛けちまったか?」と笑って、抱き締めてくれるはずなのに。


「ねえ、嘘だよね⋯⋯だって⋯⋯」


 帰って来ると、信じていた。
 信じて待つと、心に決めた。
 

「⋯⋯嘘だよ」


 ぽつりと呟いたきり。名前はついぞ動くことが出来なくなってしまった。どんなに支えられていても到底不可能な程に。自らの意思でコントロール出来る身体中の機能全てが壊れてしまったかのようだ。どうせなら、このまま拍動も止まってくれればいいのに。そうしたら何も考えずに済むのに。

 そんなことを、本気で思う。

 

 気付けば名前は、椅子に座っていた。いつの間にか誰かが座らせてくれていたらしい。陣平の身体のすぐ傍で。崩れてしまいそうな身体を、椅子と、そして誰かの手がそっと支えてくれている。

 名前は無感情に呟いていた。

 
「少し⋯⋯ひとりにしてもらっても⋯⋯いいですか⋯⋯ここにちゃんといるから⋯⋯」


 “ここにいるから大丈夫だ”と言わなければ、一人になれないのかもしれないと思った。皆が心配してくれている。それは分かる。逆の立場であったなら、名前だってそうしただろう。

 しかし今は、その優しささえ苦しい。

 逡巡しながらも、人が離れていく気配。その瞬間、名前は心のどこかに重たい扉を下ろした。世界中から、何もかもが消えていく。音も。色も。何も知覚出来ない。ただこのまま視界が真黒に塗り潰され、意識が閉ざされていくことを願い続けるだけだ。

 そんな名前の姿に、周りの人々は“絶望”という言葉の本当の重さを知る。声など誰も、掛けられなくて。ただ入口から名前の後ろ姿を見詰めることしか出来なかった。だが現実問題としていつまでもこのままという訳にもいかず、今後のことを誰もが考えあぐねていた、そんな折だ。

 す、と皆の横を過ぎ去る人影。

 一人の男が、部屋の中に入っていくのだ。迷いも躊躇もない足取りで、一直線に名前に向かって。その突然の出来事に、名前を見守っていた者たちは慌てて男に声を掛ける。だが男は、まるで「分かっている」とでも言うように軽く片手を上げただけで、そのまま名前の隣に立ち、耳打ちするように顔を近付けた。


「苗字さん。⋯⋯降谷さんと諸伏さんがお待ちです」
 

 男の小さな囁きは当然、名前にしか届かない。一体何を言われたのかと周囲がはらはらしている中、なんと名前は──徐に顔を動かしたのだ。
 
 名前が顔を上げたことに、その場の誰もが驚いた。それ程に名前は、外界との一切を遮断していた。
 
 
「⋯⋯可能でしたら、こちらに」


 男は名前に着いて来るよう促す。
 ゆっくりと頷いて、名前は立ち上がる。身体の感覚は曖昧だが、立つことが出来た。それは偏に、二人から──降谷と諸伏から聞けるのであろう言葉が、名前の最後の希望だったからだ。