それぞれがそれぞれの想いを認識してからというもの、屋上で過ごす二人の距離は、少しずつ確実に縮まっていく。
──なんていうことは起こらず、相変わらず自由に過ごし、時折笑い合い、時折喧嘩をし、そんなふうにしてこれまでと何ら変わらぬ時間が流れていた。
流れて。流れて。
気が付けばそこかしこに秋の気配が溢れている。
「⋯⋯秋だなー」
積み重ねた参考書を枕に、ぼうっと空を仰いでいた。綿花を引き裂いたような雲が薄く伸び、高い青空に散らばっている。黄金色が似合う秋の空。
その時だ。
ギイ、と音。顔だけを向けると、片手をポケットに突っ込んだ陣平が屋上への扉を開けていた。
「陣平くん」
「ちーっす」
「うん、ちーっす⋯⋯って、うわ! 何その顔!」
近付いてきた陣平の顔を見るや否や、名前は悲壮な声を上げる。
大小の絆創膏。擦り傷切り傷打撲痕。全身から「ボロッ」という効果音が崩れ落ちそうな佇まいに、名前は焦って上体を起こす。
「ちょ、え、大丈夫?! 事故?!」
「ウルセーな、ただの喧嘩だよ」
「ただの喧嘩⋯⋯?!」
男子の生態に詳しくない名前は、目を白黒させて陣平を見る。対して陣平は仏頂面を作ったまま、名前が使っていた参考書枕に頭を預け、身体を横たえた。
「デケェ声出すな、頭に響く」
「あ⋯⋯ごめん」
傍らの陣平を見下ろす。無意識のうちに手が伸びていた。
指先に、陣平の頬の感触。
「痛そう」
「別に痛くねえよ」
「こことか」
「痛って! 押すな!」
「わっ、びっくりした。痛いなら最初からそう言えばいいのに⋯⋯」
「だーかーら! ウッセーっての」
くわ、と牙を向く陣平を見て、名前はきょとんと目を開いた。
「うそ⋯⋯歯もなくなってない?」
「悪いかよ」
「いや、悪いかって言われても、だって歯が⋯⋯あはは」
「あんだよ」
頬を撫で、そのまま添えるように手のひらを当てる。まだ滑らかな、それでも名前とは違う肌質だ。
「男の子だなあって思って。けど⋯⋯無茶はしないでね。心配になっちゃうよ」
「⋯⋯ッ、余計なお世話だ」
勢い良く手を振り払われてしまう。顔までそっぽを向かれてしまって、名前は手を握りしめながら「⋯⋯ごめん。出しゃばっちゃった」と呟いた。
その声が、陣平の外耳道をひりつかせる。
余計なお世話などではないのだ、本当は。ただ、耐えられなかった。慈しむように向けられるその視線も。労るようなあたたかい手のひらも。これ以上触れられたら。
──溢れ出してしまいそうで。
しかし如何なる理由があろうとも、名前を邪険に扱ってしまったことは確かだ。この場に漂う空気も一気に気不味いものになってしまった。決まりが悪い陣平は、身体はそっぽを向いたまま、顔のみ振り返る。
「おい」
「なっ、何?」
びくりと肩を震わせ、名前は顔を上げた。その表情を見た途端、陣平の胸を後悔が埋め尽くす。
⋯⋯そんな傷付いた顔、すんなよ。
傷付けた張本人でありながら、身勝手にそんなことを思う。たった今振り払ってしまった手を胸の前で抱き締めている名前を目の当たりにして、初めて自分の行いの意味を知る。
自分はなんて餓鬼なんだろう。
そう、陣平は思う。
「⋯⋯悪い、そーいう意味じゃなかったんだ」
「⋯⋯?」
「いや、きょとん、じゃなくて」
「? きょとん⋯⋯?」
「あーもー! だからそのきょとんとした顔のことだよ! 自分がどんな顔してるかくらい把握しとけ!」
「そ、そんな無茶な」
狼狽える名前を見ていると、胸を埋め尽くしたはずの後悔がさらに降り積もる。
素直に言えればいいのだ。
ごめん。悪かった。お前のことが嫌で振り払っちまったわけじゃねえんだ。心配してくれてありがとな、と。どれも簡単な言葉だ。難しいことなどひとつもない。
なのに、言えない。
気が付けば喧嘩腰になってしまっていて、気が付けば胸の内を吐露する雰囲気などではなくなっている。
そして、きっと。
そもそもこれらを言えるような人間であれば、名前の細い腕を振り払ったりはしないのだろう。そんな当たり前に行き着き、陣平の口からは自嘲の吐息が落ちる。
「⋯⋯おい、もーちょっとこっち来い」
「やだ、怖いもん! また怒られそう」
「怖くねえし怒んねーよ、もっと近くに座れっつってるだけだろ」
「それが怖いんですが⋯⋯もう怒ってるし⋯⋯」
「いいから。四の五の言うな」
「はい⋯⋯」
恐る恐る動く名前との距離が、少しずつ縮まる。その焦れったさを辛抱強く堪えて、陣平は頭を浮かせた。
後頭部から参考書の硬い感覚が消えて。
次の瞬間には、やわらかく温かな感触に降りる。
「⋯⋯っ?! じ、陣平くん⋯⋯?!」
目線の先では丸々と目を見開いた名前が、所在無さげに手を忙しなく彷徨わせていた。当然だろう。急に陣平の頭が、──大腿に乗ってきたのだから。
「昨日の今日で頭痛えんだよ、ちょっと膝貸してくれ」
「そん、⋯⋯な」
「⋯⋯だめか?」
突然、無垢な眼差しでどこか甘えた声を出す陣平に、名前は周章狼狽した。
大腿を擽る陣平の癖毛。頭の確かな重み。名前を見上げる双眸。心臓がうるさい。身体全部が心臓になったかのようだ。
こんな、こんなの。
心臓の音が、陣平に聴こえてしまう。
「お前⋯⋯顔赤っけーな。相変わらずこういうのは弱いんだな」
「〜〜〜〜っ」
なによぉ⋯⋯と言い返すこともできず、名前はきゅっと唇を結ぶ。
きっと陣平は何とも思っていないのだろう。でなければこんなふうに、無邪気に会話などできるはずがない。名前なんて、息をするだけで精一杯だというのに。
手を振り払ったり。かと思えば膝枕をしてきたり。陣平の気持ちがまるで分からない。分からなくて、翻弄されてしまう。絡めとられていく。逃れられなくなっていく。
陣平は、何とも思っていないというのに。
癖毛が揺れる頭を撫でたくなる衝動を、死に物狂いで抑える。昂ってしまった感情を必死に宥める。そうでもしなけれは。
涙が、落ちてしまいそうで。
「──⋯⋯」
そうして一言も発さなくなった名前の膝の上。陣平は顔を斜めに向け、随分と高くなった秋の空を見上げていた。
名前の顔を、見ることができなった。
これまでで最も赤いのだ。名前の頬が。それだけであればこれまでのように揶揄えたのだが、今回は両の瞳まで潤み出してしまった。上気した頬に。潤んだ瞳。
なんでうるうるしてんだよ。そんなに嫌か? と考えてみるが、どんなに穿って考えても、陣平のことを嫌がっている涙だとは思えないのだ。
では、何故。
それが陣平には分からない。
ただ、欲情を誘われる名前の表情と、そこに含まれる陣平には理解のできない情緒に。正視を拒まれてしまったのだ。
後頭部に名前の肌を感じながら、陣平はそっと瞼を閉じる。どこからか、金木犀の香り。秋を漂う風が、二人を攫った。