夢みたいな話をしよう





 春になっていた。
 凍てつく風の吹く冬をどうにかこうにか乗り越え──屋上へ通ずる中階段には名前の毛布が常備されていて、それを二人で奪い合った──、ようやくひとつ、季節が巡る。

 街道を薄桃に染める桜を、名前が見下ろす。屋上のフェンスが視界を格子型に横切り、せっかくの景趣に水を差される。いっそのこと飛べたらいいのにな。そう思う。空にでもなって。何にも邪魔されず。


「こんな日だったよねえ」


 隣で胡座をかき、本日発売の少年誌に視線を落としていた陣平に声をかける。


「あ?」


 陣平は誌面を見下ろしたまま、無意識に返事だけをした。


「陣平くんが入学してきたの」
「⋯⋯ああ、⋯⋯、何?」
「あら全然聞いてない。陣平くんが入学してきたの。こんな日だったよね、と思って」
「あー、お前に刺された日な」
「あっはは」
「いや笑い事じゃねーし」


 膝枕騒動後の名前たちはといえば、結局これまでと同様の関係が続いていた。あの時の名前は陣平に膝枕の真意を問えなかったし、陣平は名前に溢れかけた涙の訳を問えなかった。

 怖かった。勇気が出なかった。聞いてしまえば、何かが壊れてしまいそうで。だからこれまで通りに戻るしかなかった、とも言えるかもしれない。

 片想いのもどかしさと。片想いの高鳴りと。片想いの、切なさと。

 それぞれに染み付いた想望だけを広げながら、日々が過ぎ去る。

 このままでもよかった。二人だけで。この場所で。名前のつく関係ではなくとも、こうして同じ時間を生きる。

 それでよかった、はずなのに。

 あの日“壊れてしまうのが怖い”と思ったはずの心で、逆のことを思う。即ちこのもどかしくも幸せな現状が続くことに先に我慢が利かなくなったのは、──名前だった。


「ねえ⋯⋯陣平くんて、好きな人いるの?」


 欲が出てしまった。もう少し、近付きたいと。知りたかった。名前はそれを望んでもいい立場なのかを。故に端的に事実を確認しようとして、つい、問うてしまった。

 春に──いざなわれてしまった。

 ずっと誌面を映していた双眸が、このとき初めて名前を見上げる。

 ぱちり。ぱちり。
 些か眼裂を開いてから、陣平は二度、ゆっくりと瞬いた。いったいどんな心境でいるのか。表情からは読み取れず、名前は息を詰めて陣平を見返す。

 沈黙が、横切って。それから陣平が口を開く。


「⋯⋯誰が教えるかよ」
「⋯⋯え?」
「お前には関係ねえだろ。つまんねえこと聞くなバーカ」
「──⋯⋯、」


 時間が、止まったかのような。
 そんな錯覚。薄桃に美しく彩付いていたはずの世界がモノクロに転じ、何もかもが動きを止める。風も。音も。においも。世界が止まってしまったみたいだった。


「⋯⋯陣平くんのケチ」


 辛うじて絞り出すように呟いていた。

 少しだけ、いや、正直に言うと結構だ。期待していた。
 この場所で一年を共に過ごしてきた。様々な事があった。いつからか陣平が随分と心を解いてくれていることを知っている。嫌われていないことも分かっている。きっと名前しか知らぬ陣平の顔だってある。最早ただの“先輩後輩”で片付けられる関係ではないと、自負していた。

 或いはそこ──陣平の誰かを慕う心の近く──に、名前が居たりはしないだろうかと。そんな期待をしていたのだ。

 それがどうだ。

 ──お前には関係ねえだろ。つまんねえこと聞くなバーカ。

 それは、つまり。

 陣平には恋慕を募らせている相手がいて、しかしそれは名前ではなくて。名前には関係がないのだからしゃしゃるな、ということか。

 自負を抱いてしまえる烏滸がましい胸のうちを見抜かれてしまった気がして、酷い羞恥に襲われる。ずきり。刺されたように痛んだのは心臓だろうか。それとも。

 ──心だろうか。


「⋯⋯い、いやー、変なこと聞いてごめんね。気にしないで。あとわたし急ぎの用事思い出しちゃったから行ってくるね! 鍵は後で貰うから、締めるのだけ忘れないで。じゃ!」
「は? おい、待て⋯⋯」


 その様、まさに脱兎の如く。
 陣平の声を無視し、屋上を飛び出て中階段、そしてそのまま校舎の階段を駆け下りる。

 バタバタと喧しく鳴っているのは誰の足音だろう。自分のものなのか。赤の他人のものなのか。感覚が曖昧だ。陣平に背を向けた瞬間に眼球を覆った水膜のせいで歪んでしまった視界は酷く不安定で、今や足の感覚だけで階段を駆け下りている。いつ踏み外したっておかしくない。それでも転がり落ちるように一階を目指して一目散に駆けていた──刹那のことだ。


「──っ、?!」
「うおっ?! あっ、ぶね、」


 ドン、と全身に衝撃。
 視認するよりも先に衝撃がやってきた。名前よりも強靭な体躯の持ち主にぶつかってしまったのだと認識した頃には、跳ね飛ばされた名前の身体はその相手にしっかりと抱き支えられていた。


「ごっ、ごめん、なさい! 大丈夫⋯⋯?!」
「ああ、俺は別に⋯⋯って名前ちゃんじゃん」


 ぶつかった際の衝撃で、瞳に溜まっていた涙雫はいずこかへ飛び散っている。目の縁に残った僅かな水分だけを慌てて拭いながら、名前は顔を上げ、「⋯⋯萩くん」と呟く。


「どうした? そんな急いで。つーか陣平ちゃんは? てっきり一緒だと思ってたけど」
「⋯⋯、」
「ん?」
「⋯⋯っなんでも、な」


 名前の震える声と、濡れた瞳に。萩原が目を瞠る。少し逡巡した素振りを見せてから、萩原は訊く。


「⋯⋯足とか捻った?」


 ふるふる。名前は無言で首を振る。


「どっか痛えの?」


 ふるふる。名前はもう一度、首を振る。萩原の優しい声音に、抑え込んだはずの涙が再び溢れ出す。先程痛んだ心から溢れて、名前の目の縁にせり上がる。


「⋯⋯名前ちゃん。どした?」
「⋯⋯ううん、大丈、」


 言い掛けた、その時だ。
 廊下の方から誰かの笑い声が近付いてきて、名前ははっと言葉を区切る。こんなところを見られては、萩原に迷惑が掛かってしまう。慌ててこの場を離れようとして、しかし萩原の手が名前の背中をそっと押す方が早かった。


「おいで。話さなくていいから、ひとまず、さ。ここ離れようぜ」