意地悪な神様へ





 ギギ、と重たい音の後だった。見知らぬ部屋の奥から、「⋯⋯名前ちゃん」と久し振りに聞く声。いつものように穏やかで、なのに酷く哀しみに満ちた。

 
「景くん⋯⋯っ」


 名前は覚束ない足取りで駆け寄る。諸伏の隣には降谷もいる。きっとこの二人なら希望を伝えてくれるはずだ。名前は詳しく知らないが、恐らく特殊な部署に配属されていて特別な任務に就いているのであろう二人なら。

 縋るように諸伏の両腕を掴み、見上げていた。

 
「嘘だよって、言いに来てくれたの?」
「──ッ」
「誰も、言ってくれないの。班長も⋯⋯ねえ、何かの間違いだよね⋯⋯? 景くんたちの部署が絡んだ特別な任務とかで⋯⋯そう、例えば爆発に巻き込まれたふりをしなきゃいけなかったとか⋯⋯」
「⋯⋯名前ちゃん」
「だって、顔だって⋯⋯」


 陣平の顔を、名前はまだ見ていない。
 極至近距離での爆発。対面はしない方が良いだろうとの周囲の判断だったが、仮にそうでなかったとしても名前は、あのベッドの上の布を捲ることは出来なかっただろう。

 しかしそれもあって、受け入れられないのだ。本当に陣平なのだということを。

 ぎゅっと唇を結び黙してしまった諸伏を見て、名前は降谷に顔を向ける。
 

「ねえ、零くん⋯⋯っ」
「──⋯⋯済まない。僕たちだって信じたくはない。嘘であって欲しいさ⋯⋯けど、事実なんだ」
「⋯⋯っ、じゃあなんで、わたしをここに呼んだの」


 ずるずると、諸伏の身体をずり落ちるようにして名前はへたり込む。ならばなぜ。わざわざ名前を呼んだというのか。この二人が理由もなくそんなことをするとは思えなくて、だからこそここに来たのに。

 ぺたりと座り込む名前の傍らに、降谷が片膝を付く。次いで見せた何かを差し出すような仕草にのろりと視線を向けると、ハンカチのような綺麗な布の中から小さな長方形の箱が出てくる。傷だらけで、煤けていて。まるで戦場から持ち帰られた物のようだ。


「これを、君に渡したかった」


 そう言葉にした降谷の声は、切なくも柔らかい。

 降谷の手の中にあるものは、遺留品の中から伊達が預かっていたものだった。当初は伊達が渡そうと時を見計らっていたのだが、ついぞ渡せぬまま元々入っていた外せない宿直の時間になってしまい、隠密に降谷たちに託したのだ。


「奇跡的に中身は傷付いていない。メールを送信して、最後⋯⋯庇ったんだろうな」


 伏せられた降谷と諸伏の瞳は苦しげで、哀しくて、しかしどこか穏やかだ。「本当にお前ってやつは」とでも言っているように。その表情が物語るのは、彼らもまた、友の突然の訃報や陣平が遺した名前への想いと葛藤しているのだということだ。

 名前は震える手で箱を受け取る。

 極々軽い箱だ。そのはずなのに、名前の手のひらにはずしりと重い。力の入らぬ指先を蓋に掛け、そっと開ける。そこに佇むのはふたつの。名前と陣平が二人で選んだ──結婚指輪だった。

 思い出す。あの日あの時。「この俺が指輪ねえ」なんて言いながら、名前の希望に沿う指輪と対になるものを選び、満足そうに眺めていた陣平を。それを微笑ましく見ていた名前の視線に気付き、「⋯⋯んだよ」と照れくさそうに不貞腐れていた姿を。
 
 この小さな指輪に、名前を刻み、年月を刻み、互いの誕生石を埋め込んだ。誓った永遠の証。それが今、名前の手のひらの上で燦然と光輝いている。

 皮肉なものだ。

 恐らくは今日渡してくれるつもりだったのだろう久遠の証。それが、陣平が命を落としたのだという証にもなってしまうのだから。


「⋯⋯っ」
  

 胸の真ん中に掻き抱くようにして、名前は指輪を抱き締める。

 陣平くん。

 ──陣平くん。
 
 
「⋯⋯、景くんも零くんも、心配してくれてありがとう。でも、大丈夫⋯⋯もう大丈夫だよ」
「いいや、大丈夫じゃない」
「⋯⋯?」


 即座に否定の言を呈したのは諸伏だった。座り込んだままの名前に目線の高さを合わせ、瞳の奥を覗き込む。
 

「だって名前ちゃん⋯⋯泣けてないじゃないか」
「⋯⋯泣、く⋯⋯?」


 その音の意味するところを幾秒か考えて、名前はふるりと首を横に振る。

 
「嫌だよ⋯⋯泣いたら、涙と一緒にどこかに行っちゃう。陣平くんが、陣平く、が⋯⋯っ」
「あいつが涙と一緒に流れるような、そんなタマか?」
「でも、でも⋯⋯! わたし、陣平くんと一緒にいたいよ⋯⋯っ」


 途端に取り乱す名前の心は今まさに、壊れるか保たれるかのはざまで揺れ動いている。そんな名前の姿は、諸伏と降谷の目には余りにも脆く見えた。たった一歩でも踏み出す先を誤ってしまえば、名前は誰の手も届かぬところに行ってしまいそうで。

 本能的に、手を差し伸べる。

 
 ──“さーわーんーな! 仲良いのはいいけど、触んなって! 俺んだ!”
 

 いつか聞いた台詞だ。冗談を言ってふざけ合っていた萩原と名前──確か何かの拍子にほんの少し萩原の手が名前の髪を掠めただけだったと思うが──を見て、陣平が窘めていた。

 その言葉をもう一度、もう聞くことの出来なくなってしまった陣平の声で反芻して、諸伏は目を閉じる。
 
 ごめん、松田。今だけ許してくれ。お前を追っていってしまいそうな彼女を、繋ぎ止めさせてくれ。お前が最期まで想っていた彼女を。──お前が守った世界に。

 諸伏が手を伸ばす。
 嫌々と頭を振り震える身体で指輪を抱き締める名前を、今にも崩れてしまいそうな心ごと腕の中に抱え込む。どうか。どうか名前を守った陣平の想いが一分も零れ落ちることなく、今も、そしてこの先も永劫名前を守ってくれるように。

 そう祈った、遠慮がちな、しかし確かな抱擁だった。


「⋯⋯っ、⋯⋯じん⋯⋯ペ、く⋯⋯っ」


 諸伏の体温に包まれた途端、名前の両の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。耳が触れる胸から直に伝わる心音と呼吸音。生きている確かな音だ。名前の中でも刻まれているこの音は、陣平が命を賭して守ってくれたものだ。分かっている。名前だって、その灯火を後生大事に抱えて生きていきたい。

 でも、でも。


「陣平く、やだよぉ⋯⋯っ、ど、して⋯⋯どうして⋯⋯わたしだけ、おいていかないで⋯⋯っ」
 
 
 聞いている者の胸を裂くような慟哭だった。名前を支えるという強い意志を携えていなければ、周囲の心など容易に切り裂かれ散り散りになってしまうような。

 そんな、涙だった。





 
 名前には、決めていたことがあった。 
 陣平が爆発物処理班に配属になると聞いたその日から、後悔しない日々を送ろうと心に誓っていた。眠りにつく前には絶対に「ごめんね」をして、決して気持ちを違えたままで離れることがないように。互いが発した最後の言葉が、後悔に塗れたものにならないように。“失う”ということを知っているからこそ、大切に大切に、毎日を紡いできた。ずっと一緒にいられることを願いながら。

 それでももし。

 日常のどんな些細なことも、最後だと分かっていたなら。一緒に覚醒めて。一緒にご飯を食べて「美味い」と言ってくれる顔を見て。ちょっとしたことで一緒に笑って。手を繋いで歩いて、同じものを見て、同じ音を聞いて、感じたことを分かち合う。抱き締め合って愛を交わし、一日の終わりに穏やかな眠りにつく。

 そのどれしもがもし。最後だと、分かっていたなら。名前は陣平の一挙手一投足を目に焼き付けて、その体温を抱き締めて、生涯決して忘れゆくことのないようにと祈っただろう。

 後悔ではない。後悔の日々を送って来たわけではないから。しかしそれでも叶うのなら。もう一度だけ。あと一度だけでいいから。


「陣平くん⋯⋯っ」



 
 ──名前。愛してる。


 

 この言葉を最期に遺して、陣平は、名前の中で永遠になった。


運命なんて