ふと意識が浮上し、名前は徐に目を開いた。瞼が異様に熱く、そして重たい。頭が酷く痛む。身体全体が鉛のようだ。ぼんやりと滲む視界には、知らない天井が映っている。
「──⋯⋯」
痛む頭で記憶の最後を手繰り寄せようとした、その時だった。
「あ⋯⋯気が付いた?」
掛けられた声だけで、姿を捉えずともその人物が分かった。諸伏だ。⋯⋯そうか。そうだった。──陣平が。思い出した途端、胸が信じられない程に痛む。その痛みに苛まれながら、返事代わりに「⋯⋯景くん」と呟いてみたが、それは喉にべったりと張り付き声にはならなかった。
「名前ちゃん、あのまま倒れて⋯⋯」
先刻、名前は泣き崩れたのち、ぷつりと何かが切れたかのように意識を手放した。そんな状態の名前を自宅に帰らせるわけにもいかず、一先ず諸伏たちが根城にしている部屋へと連れ帰り、休ませていたのだ。
「大丈夫か? どこか辛いところは──」
言い掛けて、諸伏ははっと口を噤んだ。名前の双眸からぼろぼろと零れ落ちる涙に、とても二の句が継げなかった。それは意思の及ぶ範囲には到底含まれない場所から零れ落ちる、名前の心の欠片だった。ひと粒落ちるたびに、心もひとつずつ欠けていってしまうようで、諸伏は硬く拳を握る。
暫くして、顳顬から髪を伝って寝具に浸透し続ける涙に気が付いた名前は、反射的に謝っていた。酷く掠れた声だった。
「あれ、やだわたし泣いて⋯⋯ごめ⋯⋯」
「⋯⋯いや⋯⋯」
視線を逸らし俯く諸伏を視界の隅で認識してから、名前はきつく瞼を閉ざす。
──陣平は、もういない。
思い切り笑うといつかのあどけなさが蘇る顔も、不敵に笑う顔も、拗ねて仏頂面になった顔も、気が短くてすぐに怒る顔も、穏やかな寝息を立てて眠る顔も、愛おしそうに名前を見る顔も、どれももう、見ることは出来ないのだ。いつも隣にあった体温。すぐに頭を撫でてくれる大きな手。煙草の香り。ふわふわの癖毛。大好きな声が「名前」と呼ぶ。
そんな世界は、もう、存在しない。
「⋯⋯っ、陣平くん⋯⋯」
名前はあと何度、胸が潰れるようなこの想いを鷲掴んで生きていくのだろう。日々の全てに陣平が思い出される世界の中で。どうやって息をしていけばいいというのだろう。終わりの分からぬ果てしがない生を全うしながら、一体どれ程。
それは気が遠くなりそうな道程だった。耐えられるだろうか。乗り越えられるだろうか。いつか空の向こうで陣平に会えた時、胸を張れるような人生を送れるだろうか。
しかしその一方で、こうも思うのだ。
──でも、このままでいい。
このまま痛いままでいいから。陣平との想い出を、どうかひとつも色褪せさせないで。最早生き方さえ分からないが、それでも、陣平と紡いだ日々がどこか少しでも褪せてしまうことの方がずっと恐ろしい。時の流れは容赦がないから。いつかその力に負け、何かを忘れてしまうのなら。忘れたことすら忘れてしまう日が来てしまうのなら。それくらいならどうか。痛いままでいいから。
──ずっと陣平といさせて欲しい。
名前は目元を手の甲で覆う。散り散りになってしまった感情は、拾えど拾えど纏まらない。心がついて来ない。荒ぶ情動の渦の中、ただ、陣平が守ってくれた命だけは途絶えさせてはいけないという、その思いだけで何とかこの場に存在している。
只々涙を流しながら嗚咽を堪える名前のベッドの下に、諸伏は背を向けたまま座り込む。諸伏に出来ることは、名前を一人にしないことくらいだった。
諸伏は以前、目の前で両親を失った。凄惨だった。諸伏は命こそ奪われなかったが、一時期声を失くした。降谷と出逢い声を取り戻してからも、何年も何年も縛られた。身体の髄にまで及ぶ苦しみを知っているのだ。だからこそ、名前に何も言えなかった。静寂が重たい。しかし安易な言葉も吐けない。ただこの空気の中、哀しみという共通項を静かに分け合っている。
そうしてどれ程の時が流れた頃だろうか。部屋のドアが控え目なノックに揺れる。
「⋯⋯零」
顔を上げた諸伏が名を呼んだ。
カチャカチャと鳴るのは降谷の手の上のトレー。そこには温かな湯気の立つマグカップと、サンドイッチが数切れ乗っている。
降谷は二人の様子を見て、刹那苦しそうに眉を寄せてから、気を取り直したように努めて朗らかな声を出した。
「二人とも、温かいミルクでもどうだ? 気は進まないだろうが、こんな時こそ少しでも何か口にした方がいい」
真っ赤に染まった名前の双眸が、重たげな動きで降谷を捉える。断るつもりだった。何かを食べられるとはとても思えなかった。だが降谷の顔を見て、辞する言葉を飲み込んだ。降谷もまた、心の底から名前を慮ってくれていることが明らかだったからだ。
それを降谷も分かってくれたのだろう。「起きられそうかい?」と差し伸べてくれた手に、素直に頼る。何とか起こした身体は、驚く程重たく怠い。そんな身体を叱咤しマグカップを手に取る。仄かに甘いミルクが香る。恐る恐る口に含むと、酷い悪心と眩暈に襲われた。身体が、心が、飲食物を受け入れられる状態ではないのだ。許されるのなら今すぐに、もう一度臥せってしまいたかった。それでもミルクの流れ込んだ鳩尾のあたりはあたたかくなり、ほっとひとつ、息をつくことが出来た。
「⋯⋯ありがとう。長居しちゃってごめんね、これ頂いたら帰るから」
「いや、一人には出来ないさ。親でも友人でも、とにかく誰かと⋯⋯勿論君さえ良ければ、好きなだけここにいても構わない。僕たちも四六時中居られるわけじゃあないが、ここなら安全だしね」
「⋯⋯でもわたし、一人で大丈夫で──」
そう口にした名前を、降谷は軽く手を上げ制する。ふるふると首を横に振ってから、静かに告げる。
「それじゃあ言い方を変えようか。僕たちが、一人で居ないで欲しいんだ。⋯⋯僕たちのために、そうしてくれないか」
「──⋯⋯っ」
困ったように笑う降谷に、止まることのない涙が勢いを増す。ここまで言わせては、流石に名前も分かる。傍から見た名前はそれ程までに危ういのだろう。情けないがしかし、どうやっても自身でコントロールは出来そうになかった。
⋯⋯一緒に居てくれる人、か。
まず初めに父や都の顔が脳裏を過ぎり、それから同室内の二人の顔を見る。陣平を良く知る親友。同じ痛みを抱え、同じ記憶をなぞり、言葉にせずとも分け合える。そんな時間が必要なように思えた。そして何より、身体が言うことをきかないのだ。上体を起こし、飲み物を流し込んだだけでこれだ。先程は強がってみたが、本当は自宅にすら帰れる気がしないのだ。
些かの時間逡巡してから、名前は静かに、頷いて返事をしてみせた。
葬儀は滞りなく執り行われた。
大勢の命を──そして名前の命を──救うため自らの命を賭した陣平の葬儀には、多くの警察関係者が参列した。その手前、棺に縋り続けることも出来ず、名前は胸元に忍ばせた指輪を絶えず握り締めていた。
陣平の結婚指輪だ。
名前の胸元でネックレスチェーンに通され揺れるそれは、陣平の左の薬指に収まるはずのものだった。この世から送り出される陣平に持って行って貰うという選択肢もあったが、名前はそれを選ばなかった。
名前の命に終わりが来るその日まで。共に在ることを選んだ。
生前に結んだ絆を確かめるように幾度も指輪を握り締め、ゆっくりと空に上っていく煙を涙とともに見上げる名前の表情は、その場の多くの者の胸に刻まれた。
生きることと。死ぬことと。
守ることと、守られることと。
まるで永遠に答えの出ない問を、その横顔に投げ掛けられているようで。