銀河の隙間を縫うように





 名前は少しずつ、少しずつ、前を向いているようだった。それは陣平の死を受け入れ生きていくという、途方もない人生の入り口だ。些細な事にほんの少しだけ笑ってみせたり、陣平の想い出をぽつりと口にしてみせたりする名前に、諸伏も降谷も思った。身の内を削り取られるような絶望を幾度となく再確認しながらも、こうして最愛の死を受容し、ゆっくりと前に進んでいくのだと。

 しかしひとつ、二人を危惧させる事があった。

 いくら時が過ぎようとも、名前の身体が食事を全く受け付けないのだ。名前に食べようという気持ちはあるのに。その心とは裏腹に身体が拒絶するようで、何とか胃に押し込んでもすぐに戻してしまう。「ごめんね、せっかく作ってくれてるのに⋯⋯」と泣きながら謝罪する名前は心底申し訳なさそうで、名前自身も何故そうなってしまうのか分からず途方に暮れているようだった。

 当初はこれも時間が解決してくれるものと思っていた。だが状況は悪くなる一方で、ついには水さえも吐くようになり、胃内に何もなければ胃液まで吐いた。加えて酷い悪心と倦怠感が四六時中続くという名前は、ただただ衰弱していく一方だった。


「⋯⋯名前ちゃん、病院行こう。俺らも付き添える息が掛かってる安全なとこがあるから」
「⋯⋯でも、今もこんなに迷惑かけて」
「でもじゃない」
 

 諸伏がぴしゃりと言う。
 原因が何にしろ、とにかくこのままでは不味い。経口摂取が出来ていなさ過ぎる。生命活動を維持出来るだけの何かを身体に与えなければ。と諸伏が病院まで抱えていこうとしたところで、顎先に指を沿わせ難しい表情をした降谷がぽつりと、しかし真剣な眼差しで口にする。
 

「名前さん、失礼を承知で聞くけれど⋯⋯」
「⋯⋯?」
「その──最後に生理があったのは?」
「⋯⋯⋯⋯え?」


 その言葉に、名前は目を丸くして降谷を見た。

 無論、その質問の意味を汲み取ることは容易い。だが思いもしなかった可能性を唐突に示され、何よりもまず驚いてしまった。

 え、と小さな声を発したまま固まる名前を見て、諸伏が眉を下げる。仮に、──仮にだ。例え“その”可能性が本当にあるのだとしても、今の名前には余りにもデリケート過ぎる質問だ。

 だって。陣平は。

 ──もういないのに。

 この話題を出すことが状況的に致し方がないとはいえ、もう少しタイミングと言葉を選んで伝えたかった。というのが諸伏の心中である。
 

「零お前⋯⋯」
「ごめん、分かってる。だが遠回しにしたところで結局は同じことだろう? これ以上は名前さんの身体も限界だし」
「それはそうだけど⋯⋯」


 言い淀む諸伏をじっと見てから、降谷は名前へと視線を戻す。変わらない真剣な眼差し。降谷の瞳に見詰められ、名前は目線を逸らし、考える。

 確かに、陣平と過ごすことの出来た最後の頃は、何かに取り憑かれたかのように身体を重ねていた。転属を知らされた日からだ。愛と幸いとを心の限りに分かち合って。理屈ではなかった。故に、避妊はしていなかった。

 可能性はゼロではない。

 しかし、そんな、──まさか。

 こうして考え込む名前の反応を、降谷も、そして諸伏も固唾を呑んで見守っていることが窺えた。特に降谷は言い出しっぺの義務とでも言いたげに、何かを言葉にしかけては留めている。

 その素振りと雰囲気から、降谷が何を言いたいのか分かってしまった。もし名前が変に尻込んで「でも、きっとそんなはずないよ」とでも言おうものなら、検査を強く勧めるつもりなのだ。
  
 しかしその事を降谷に言わせるのは、余りにも野暮というものだろう。名前は頷き、自ら言い出す。

 
「⋯⋯二人ともありがとう。一応検査してみるね」
「⋯⋯ああ」


 名前から素直にそう言い出したことに、降谷と諸伏がほっと息をつく。その様子を見て、名前は二人に随分と気遣いをさせてしまっていたことを改めて思い知るのだ。

 二人は、陣平の友人は、本当に優しい。






 
「⋯⋯、⋯⋯うそ」


 トイレの戸が外れるかと、いや、外れたかと思った。蝶番が全て弾けたのではと疑いたくなる勢いでトイレから転がり出てきた名前は、そのままの勢いで足を滑らせ床にすっ転んだ。ドタン! という痛々しい音が響いて、諸伏が慌てて駆け寄ってくる。


「え、名前ちゃん?!」
「⋯⋯っ」
「な、大丈──」
「ひ、景くん⋯⋯っ」


 床に座り込んだまま諸伏を見上げる名前の目には、今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいた。片手はしっかりと胸元の指輪を握り締めていて、震える唇からは微かな声が途切れ途切れに発せられている。 
 

「よ⋯⋯よう、せい⋯⋯だって⋯⋯」
「え⋯⋯よう⋯⋯?」


 諸伏は名前の言葉を反芻しながら、その単語を脳内でいくつかの漢字に変換する。要請。妖精。陽性──? そして直後、目を大きく開いて名前の両肩に手を当てる。
 

「ほ、本当か?!」
「⋯⋯っ、ひっく、ふぇ」


 嗚咽を漏らしながら頷く名前を認めて、諸伏は胸の奥から込み上げるものを必死に抑えていた。

 諸伏たちは、何も出来なかった。
 陣平を失ってしまった名前のために自分たちに出来ることを何度も考えた。が、何もなかった。確かに側にいることは出来た。物理的に一人にしないことは出来たが、名前はずっと、一人だった。余りにも深過ぎる傷に他者は触れられないのだと知った。無力だった。だから名前は今日まで、自分で自分を懸命に生かしてきたのだ。陣平のいない世界の中で、必死に息をしてきた。

 しかし今、名前の瞳に僅かな光が差している。諸伏たちがどう足掻いても渡すことの出来なかったものだ。その僅かばかりの名前の変化に、胸の奥が震えるのだ。

 ──いや、気が早い 。

 浮足立つ心を、すぐさま抑える。 
 そもそも“そう”であることが確定したわけではないし、何よりも名前の意思──目の前の涙ぐむ名前からは前向きな未来が感じられるが──を確認もしていない。
 
 何はともあれ、取り敢えずは。

 
「びょっ、病院! 行こう! 車出すから! ていうか今転んだの大丈夫か?!」


 その狼藉ぶりは諸伏にしては酷く珍しい。その姿に、成り行きを見守っていた降谷が見かねて声を掛ける。

 
「おいおい、少し落ち着けヒロ、お前の子どもじゃないんだから」
「は、いや、誰の子どもとかいう問題じゃなくて⋯⋯ていうか何でお前はそんなに落ち着いてるんだよ?」
「はは、何でって」


 諸伏の乱れ様に苦笑した降谷は、ゆっくりと視線を動かした。窓から空を見上げる。晴れている。初冬の薄い青空がやわらかく広がっている。

 
「何となくそういう気がしてたからさ。──なあ、松田」


 そう呟いた降谷の声は、名前がこれまで聞いた中で最も穏やかで優しく、そして“素の降谷零”に最も近いものに感じられた。







 悪心に耐えながら連れられた病院。映し出されるエコー画面。そこで刻まれていた、ちいさな命の拍動。それを見た瞬間、名前は泣き崩れた。双眸から転がり落ちる涙には、余りにも多くの感情が溶け出していた。言葉になど、とても出来なかった。

 陣平と、名前と。永遠を誓った二人の間に宿った命。陣平が守った命は、繋いだ命は、名前の中にもうひとつ存在していた。
 
 名前は微塵も迷わなかった。選ぶ道はただひとつだった。
 
 この先たったひとりで。それはもしかすると、厳しい道になるのかもしれない。経済的なこと。社会的なこと。周囲の反応。父親に会うことは永劫叶わず、その存在の在り方を知らずに育つ子ども。唇を噛み締め涙を耐え忍ぶ日は、この先いくらでも訪れることだろう。

 それでも。陣平の命の繋がりを途絶えさせることなど、出来るはずがなかった。突然立たされた絶望の淵。暗闇へと変貌した世界に灯った、確かな生きる希望だ。
 
 神様は、いないのかもしれない。母を、萩原を、そして陣平を。連れて行ってしまった。どんなに満ちた愛を与えてくれたとて、どんなに愛し合っていたとて、容赦なく。これでは、宿った命さえ陣平はその手に抱くことも出来ない。

 神様は、──いないのかもしれない。
 
 けれど、それでも。いないと思ったはずの神に向かって、祈りのように思うのだ。
  
 陣平が名前を守ってくれたように。このちいさな命を守れるだけ、強く。例えどんな未来が待ち受けていようとも、最後には幸せだったと笑えるように、強く。

 そして出来ることなら。守るために死を選ばなければならない未来が、二度と訪れんことを。


命を手繰る