その晩のことである。
「ッはぁーーーー?! マネージャー?! だめ! ゼッタイダメ! あんな男だらけのところ!」
キィーンと騒ぐ受話口を耳から数センチ、いや数十センチは離したわたしは、盛大に顔を顰めていた。今日の顛末を報告しようと、兄の練習が終わるのを待って電話をしたのだけれど。
すごくうるさい。鼓膜が破れそうだ。
「お兄ちゃん。そんな大声出したら近所、っていうかルームメイトに迷惑でしょ」
「いーの、だって俺の部屋なんだから」
今日も今日とて安定の。
俺様鳴様お兄様である。
稲城実業高校、通称稲実で寮生活を送る兄の、そのルームメイトが不憫でならない。毎日どれだけの不条理を押し付けられていることだろうか。
名も知らぬその人へ思いを馳せて、一言。
「今度菓子折でも持って行ったほうがいい?」
「何言ってんのお前?」
春の夜。灯りの消えた部屋の中に、カーテンの隙間から月明かりが差していた。窓際のベッドの上で膝を抱えながら、その光をつつ、となぞる。
「甲子園なら俺が連れてってやんのに」
「ふふ、うん」
知っている。
その自信の裏側で、兄が、どれほどの時間、どれほどの熱量、どれほどの努力を費やしてきたか。甲子園という舞台へ、どれほどの想いを懸けているか。
「⋯⋯ね、わたしじゃ足りないのかな」
ぽつり、不安が漏れ出た。
わたしのこの熱の大きさでは、兄に、彼に、彼らに。及ばなさ過ぎるだろうか。
副部長に誘ってもらった。おじさんたちに背中を押してもらった。彼に、導いてもらった。そうして決意したはずなのに、そんな不安が拭えない。
兄は、──わたしをずっと傍に置いてくれていた兄は、どう思っているのだろう。兄から見た、わたしを知りたい。
兄にとってのわたしを。
そう考えて、はたと気づいた。
兄と妹。守られていたのは、その存在を必要としていたのは、きっとわたしのほうだったのだと。
「もし青道が女子だらけ(?)のチームだったとしても、やっぱり反対?」
「⋯⋯⋯⋯いや、名前が、男だらけの青道で、マネージャーをやることに反対なだけ。名前は向いてるよ。それは俺が保証する。青道のヤツらにくれてやるのがめちゃくちゃ不服だけど!」
兄の言葉が、胸の奥に浸透する。
月明かりを辿って、カーテンを開けてみる。満月だ。電線の向こうに、低い満月が浮かんでいる。
「お前の存在が、兄妹とか抜きにしてさ、俺の力になってるみたいに⋯⋯だからそこは不安がんなくていーよ。まあ俺は超不満だけどね!」
兄は今、何を見ながら、どんな気持ちで。その言葉を告げてくれたのだろう。この月は、兄のことも照らしているだろうか。
「⋯⋯お兄ちゃんがお兄ちゃんみたい」
「お前は俺を何だと思ってたの」
ワガママツンデレ彼氏。以前、兄のことをそう称したことを思い出したけれど、そっと胸中に留めておいた。
「こーなっちゃ仕方ないか。敵だとしても、名前は俺を応援してくれんでしょ?」
「うん、もちろん。でもそっとね」
「十分。あと男には気をつけろよ。これまでは俺がいたけど、これからはいないんだからな」
成宮鳴の妹。
エースの妹。
そうしてわたしは守られてきたのだと思う。兄のチームメイトや対戦相手と接していて、嫌な思いをしたことなどこれまで一度だってない。
「はい! 生意気は言いません! あとタメ口注意!」
「そういう気をつけろじゃない! 俺は男に気をつけろっつったの。一応言っとくけど、一也だって普通の男だからな」
「? うん」
「⋯⋯はあ、心配」
兄の溜め息が耳元で揺れる。
「ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「ありがとう。わたしを野球に出逢わせてくれて」
「何その結婚前夜みたいな台詞」
「結婚前夜? ふふ、彼氏ができる前兆かな」
「彼氏?! やっぱムカツク! ブッ潰す! 青道のヤツら絶対ブッ潰してやる!」
「お兄ちゃんてば、まだ彼氏できるかなんてわかんないのに⋯⋯そして部員が彼氏になるとも決まったわけじゃありません」
「野球バカの相手はどう考えたって野球バカだろ」
「わ、多方面にひどい」
──兄がいなければ、わたしはいない。
幼い頃、兄が初めて球を投げた姿を今でも覚えている。覚束ない手つき。懸命に飛んでいった球。嬉しそうに笑った顔。
その幼い面影は、もう兄には見えなくなってしまったけれど。あの日が兄のはじまりで、同時にわたしのはじまりだった。
自信家で、我儘で、気分屋で、プライドが高くて、あとなんか色々ご迷惑をおかけしますって感じの兄だけれど。
わたしには最高の兄なのだ。
「練習後で疲れてたのにごめんね、ありがとう。おやすみお兄ちゃん」
「ん、おやすみ」
電話を切って、もう一度。見上げた春の夜空。先刻より僅かにだけ高く浮かんだまんまるお月様が、わたしを見ていた。
◇兄、時々兄◆