03.花細し桜


 そんな願いはしかし、ほんの一瞬で木っ端微塵に吹き飛ばされてしまった。嵐も嵐、最大風速55m/sの猛烈な嵐のようだ。


「ん⋯⋯? って名前!」
「⋯⋯一也くん」


 わたしを発見してしまった彼が、他の部員たちから離れ近付いてくる。心臓がうるさい。身体全部が心臓になってしまったかのようだ。


「お前、何してたんだよ?」
「何って⋯⋯お受験」
「んなもん知ってるわ。そうじゃなくて、ちっとも連絡寄越さねぇから落ちたのかと思っただろ」
「あてっ」


 額に軽い衝撃。それを認識してから、自分がデコピンされたことを理解する。おでこの真ん中を。人差し指で。弾かれたのだ。痛い。そこをさすさすと擦りながら、彼を恨めしく見上げる。


「ちゃんと受かったもん」
「だーかーらー、なんでそれを言わねんだよ。気遣って聞くに聞けねぇだろ」
「あ⋯⋯そっか」
「そうだよ、ったく⋯⋯あんなに電話してきてたくせに、大事な時にこれだから」
「え?」


 その言葉を聞いて、素っ頓狂な声が出てしまった。彼は今、なんと言っただろう。わたしの受験を大事なことと思ってくれていたのだろうか。わたしのことを、少しは考えてくれていたのだろうか。

 ねえ、一也くん。


「なっ、ちょ、お前、なんで泣いて⋯⋯」
「っえ、うわほんとだ。なんでだろ、ごめん、わかんない」
「おいおい、名前」


 珍しく狼狽する彼と。
 同じく狼狽するわたし。

 先程堪えた涙が、今頃になって落っこちてしまった。慌てて上を向き、なんとかこれ以上零れないように努める。


「おい御幸ー! 名前ちゃんイジメたら俺らが黙っちゃいねえぞー!」
「いやあ勘弁してくださいよ、大先輩方! ほら、お前はワケもわからず泣くな」


 ぐい、と彼の親指が目尻を拭う。同時に手のひらが頬に触れて、もとより強く打っていた心臓が、オーバーワークに悲鳴を上げる。苦しい。彼の感触が、苦しい。そして頬にはザラついた感触が残る。

 ん? ザラついた、感触?


「やべ、砂つけちった」
「! ひどい、女の子の顔に!」
「はっはっは、悪りぃ」
「っもう⋯⋯ぷっくく」


 一也断ちの期間のこととか。ひとりでうだうだしていたこととか。いろんなことが荒唐無稽に思えて、彼の笑顔につられて、笑ってしまった。頬に触れると砂粒がぽろぽろ落ちるものだから、余計に笑えてしまう。


「そーそー、お前はそうでなきゃ。笑ってろよ。⋯⋯そういや礼ちゃんと何話してたんだ?」
「そうだった、聞いて一也くん。なんとマネージャーのお誘いを受けちゃった」
「? うん」


 さも当然かのような表情の彼と。


「? うん?」


 その反応を不思議に思うわたし。

 二人で首を傾げ合って、一秒。二秒。先に口を開いたのは彼だった。


「いや、やるんだろ? マネ」
「なんで一也くんまでそんな当たり前みたいな感じなの」
「なんでってそりゃお前⋯⋯」


 彼がはたりと口を噤む。口篭ったその先を待ってはみるものの、彼はなかなか続きを話そうとしなかった。

 それを見ていたおじさんたちは、クスクスと肩を揺らし笑い合っている。「御幸のやつ、照れちゃって」だなんて声まで聞こえてきて、わたしは余計に首を傾げた。

 首筋を抑え、気まずそうに目線を逸らす彼を見兼ねたわたしは、兄に聞こうと思っていたことを問うてみた。


「ねえ、一也くんたちからしたら、マネージャーってどんなもの? わたしだと迷惑になっちゃわないの?」
「なるわけねぇだろ。お前みたいな野球バカは大歓迎。それに、野球はひとりじゃできねぇからな⋯⋯マネージャーは、俺らの一員だよ」
「⋯⋯一員」


 ずっと、ずっと。みているだけだった。どんなに声を張り上げても。胸を熱くしても。涙を流しても。野球と出逢ってから、それ以外の関わり方を知らずに生きてきた。

 一員になれる、のか。
 わたしも一緒に。彼らと一緒に。

 ぱあっと目の前にあの日の光景が浮かんだ気がした。あの日。彼に出逢ったあの夏の、忘れじの光景が。


「⋯⋯やれよ、名前。せっかく青道に来たんだ。一緒に行こうぜ、──甲子園」
「⋯⋯っ、うん」


 眩しい。彼のこういうところが、堪らなく眩しい。こんな言葉に惹かれないわけがない。昂揚が身を包み、先程の迷いが霞んでいく。気付けばふたつ返事をしている自分がいた。

 彼の言葉をじーんと噛み締めていると、少し遠くからわたしを呼ぶ声があった。視線を巡らす。見遣った先には、ここに通ううちに意気投合した彼の同級生の姿がある。


「久しぶりだな!」
「わーいもっちー先輩! お久しぶりです! 合格しましたー!」
「マジか! ヤリィ、ヒャハハ!」


 ぱちん! と景気よく響いたのはハイタッチの音。勢いがつきすぎて、手のひらがジンジンしている。向こうも痛かったのか、互いの手のひらがひらひら、痛みを振り払うように宙を舞う。


「何のテンションだよお前ら」
「一也くんもする? ハイタッチ」
「しねぇわ」
「ふふ」


 一陣の風が吹く。昇る砂煙。迷い込んだ桜の花びらが一枚、足元を過ぎった。

 こここら新しい生活が、始まる。





 ◆花細し桜◇

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