17.濁った心と透明な心臓と



「俺がもっともっと投手として上に行くには、何が足りない?」


 すっかり日が落ちた夜の室内練習場。
 沢村くんのそんな言葉に、わたしたちは揃ってきょとんと目を丸くした。


「沢村くん⋯⋯金丸くんにそんなの聞いていいの? 大丈夫? 傷ついちゃうんじゃない⋯⋯?」
「おいコラ、どーいう意味だよ」
「いて」


 金丸くんにおでこをこつんと小突かれた。冗談ですごめん。

 なんて茶番はともかく、何を言われても受け入れる! と気合十分だった沢村くんも、次々湧き上がる指摘──ところどころ悪口が混ざっていた──についには涙を流してしまった。それでも「こんなことで落ち込んでたまるか!」と意気込んでいる。

 その時だ。

 沢村くんの大声に導かれるように、一也くんと渡辺先輩、そして落合コーチが練習場に入ってきた。

 その姿を認め、わたしは金丸くんの影にそれとない素振りで隠れる。“彼”がコーチに就任してからというもの、上手いこと逃げ回っていたおかげ(?)で、実はまだ一度も話したことがなかった。

 しかしこの少人数、この区切られた空間。今回も話さずに逃げ切れるだろうか。

 向こうはあの出来事はまったく気にしていない、というかきっと覚えてすらいないだろうけれど、わたしの気持ちとしてはやはり、できることなら話したくはない。

 さすがに怒りは自分の中で落とし所を見つけて消化できた──決して許したわけではないけれど──し、わたしのことはどう思われていたっていい。

 ただ、コーチに対する苦手意識だけがびっくりするほど根強いのだ。

 ちなみに事情を知らぬ金丸くんは、超不思議そうな顔で背後のわたしを見下ろしていた。


「⋯⋯どした? 苗字」
「ナンデモナイデス。でも金丸くんさえ良ければそのままの位置にいてほしいデス」
「⋯⋯?」


 首を傾げる金丸くんの影から様子を窺うと、一也くんが苦笑いをしていた。口パクでこんなことを言っている。


(出 て こ い よ)
(や だ)

「ちょ、俺挟んで会話しないでくれます?」


 わたしたちの間では、完全に巻き添えの金丸くんが「俺の居心地悪すぎんだろ!」と怒っていた。








 そのままあれよあれよと突如発生した、“沢村くんに変化球を教えようイベント”を見守っていたわたしは、瞬きも忘れて球の軌跡を追っていた。

 沢村くんの球を受けている一也くんが、ミットにあてるだけ、果ては後ろに逸らす、なんて所業をしているのだ。

 あの、一也くんが。

 握りを少し変えるだけで様々に変わるその軌跡。沢村くん本人は気づいていなさそうだけれど、彼は今、とんでもないものを手にしようとしているのではないか。一也くんやコーチの驚いた表情がその証明なのではないか。

 羽化する瞬間を目の当たりにして、逸る鼓動を抑えられなかった。


「⋯⋯名前」
「⋯⋯」
「名前」
「はっ、呼ばれてた、なに? 一也くん」
「よく見といて」
「見てるよ、めちゃくちゃじっくり」
「もう少しこっちで。どこ飛んでくかわかんねぇから怪我しない位置で⋯⋯」
「うん」


 ──コイツ、下手したら化けるぞ。

 言外にそんな声を聞く。俺がいないときも見てやって。そんなふうに聞こえる。

 応えたい。そう思う。


「⋯⋯随分信頼されてるんだな」


 このやり取りに、そう声を発したのはコーチだった。相変わらず掴めない表情で、顎の髭を弄っている。

 胸に渦巻くもやもやとしたものを振り払って、「⋯⋯ありがとうございます」とだけ言おうと口を開く。しかしわたしとは別の声がそれを阻んだ。


「「当たり前じゃないっすか!」」


 その場の皆が、さも当たり前みたいな顔でそう言ってくれていた。コーチったら何言ってんすか? みたいな顔で。ついでに「軍曹は来たばっかだからまだ知らないッスか?! コイツすげーんすよ! 言葉にするのは下手だけど!」と沢村くんが付け加えてくれる。

 不覚にも泣きそうになった。

 いや、ちょっと泣いた。

 このチームで行きたいな、甲子園。ずっとこのみんなと野球してたいな。その思いが強くなる。

 そして同時に、思い知らされる。

 一也くんがここで野球するのも、あと一年しかないのだということを。こんなふうに毎日毎日、近くにいられる日々にも、必ず終わりが来てしまうのだということを。

 考えても仕方のない未来のことまで考えてしまって、もう一度。ちょっとだけ泣いた。

Contents Top