17.濁った心と透明な心臓と


「うわ、生で見たら成孔の人たちおっきすぎ⋯⋯ナベちゃん先輩、小川くんとかヤバくないですか? もはやレスラー? 近づいただけで潰されちゃいそう」
「アハハ、何それ。変な圧でも出てる?」
「わかんないですけど⋯⋯よく漫画である『殺気だけで殺されたと錯覚させられた!』みたいな感じです」
「微妙に分かんない⋯⋯」


 このときは、その巨躯が物理的な凶器になるなどとは思っていなかった。だから試合前に、こんな暢気な会話ができていた。体重三桁あるのかなとか。東先輩とどっちが大きいんだろうとか。そういえば彼の額に眉毛が見当たりません! とか。





 事件それが起きたのは、九回表、成孔にとっては勝ち越しの追加点がかかった場面だった。二死、走者二塁に小川くん、打者に枡さんという役者揃い。

 ツーストライクまで追い込むも、しぶとく粘った枡さんのバットがついに沢村くんの球を捉える。打球は三遊間を抜け、小川くんが本塁目掛けて三塁を蹴る。

 しかし麻生先輩からの華麗なバックホーム。球は全力疾走する小川くんを追い越し、本塁で待ち構える一也くんのミットへ。

 このとき、わたしは思った。

 こればかりは相手が悪かったね小川くん、と。なんせ本塁を守るのは一也くんなのだ。彼を掻い潜りホームベースに触れるなどできっこない。

 なのに、だ。

 小川くんのその巨躯は、なんの躊躇もなく、本塁で待ち構える一也くん目掛けて突っ込んだ。

 完全なるラフプレー。
 一也くんの身体は後方へと突き飛ばされ、そのまま地面に打ち付けられた。


「っ、一也くん!」


 吹き飛ばされた一也くんはしかし、決してボールを手放さなかった。少し昔のプロ試合であれば乱闘に発展していたってなんらおかしくないプレーをした相手を、只々静かに見遣る彼には、言葉にならぬ覇気さえ纏わりついていた。

 そのプレーにどよめく球場。仲間からの声。一也くんにも笑顔が見られたけれど、どことなく形容し難い不安が渦巻く。


「⋯⋯」
「⋯⋯苗字? 立ったり座ったりどうしたの?」
「え? 立ったり座ったりしてましたか?」
「え? うん、三回は繰り返してたけど⋯⋯」


 渡辺先輩が不思議そうな表情でわたしを見ていた。バツが悪い心地で俯くと、頭の上に優しい声がかかる。


「⋯⋯御幸が心配?」


 こくん。無言のまま頷いて答えた。「そうだよね」と穏やかに笑って、渡辺先輩は続ける。


「試合終わったらすぐ行ってあげな。今は、ここで応援しよ。監督が交替させないってことは、今はプレーできるってことだと思うし」
「⋯⋯はい」


 怪我は、嫌だ。
 皆の努力を、一瞬で容赦なく奪っていく。重ねた年月を嘲笑い、心を挫いてくる。誰であろうと、そんな想いはしてほしくない。

 漠然とした不安を残したまま、試合は延長十回裏、わたしの心配を他所にした一也くんの超絶かっこいいソロホームランで終止符が打たれた。





 試合後ベンチ裏へと急ぐ。
 そこでは、荷物を手早く纏める青道と、次の第二試合の準備をする薬師が相見えていた。反射的に足を止める。

 まさか決勝であたるかもしれない相手の前で、一也くんに怪我のことなどを問えるはずもなく、咄嗟に忘れ物のチェックなんかをしてしまう。ああもう何してるんだろう、早く一也くんと話したいのに。

 置き忘れられていた誰かのキャップを手にひとり悶々としていると、「おーい妹!」と声がして、振り返る。


「明日の決勝よろしくなー!」
「真田さん⋯⋯妹って呼ぶの定着させないでください⋯⋯そして準決に勝ってから言ってください」
「何、プリプリしちゃって」
「してません!」
「ほらしてんだろ。御幸と喧嘩でもしてんの?」
「してません!!」
「あ、明日の決勝俺らが勝ったら連絡先教えるとかどう?」
「教えません!!!」
「ははっ、冗談だよ」


 真田さんの考えていることが全然わからない。なぜこの人はいちいちわたしにちょっかいをかけてくるんだろう。一也くんだっているっていうのに。ていうか早くベンチ入ってください、わたし一也くんとお話したいんです!

 そんな気持ちなものだから、プリプリだってしてしまうというものである。


「名前お前、いいようにおちょくられ過ぎだろ⋯⋯ほら、行くぞ」
「⋯⋯はい」


 呆れ顔の一也くんに、面白可笑しそうな真田さん。なんだか悔しい。次こそはもっとスマートな対応をしてみせようと心に誓い、その場をあとにする。

 そしてようやく声をかける。


「一也くん、かっこよかった⋯⋯じゃなくて、大丈夫?」
「ん? ああ、あのクロスプレー? まぁあん時は全身痛かったけどなー、今は全然」
「⋯⋯」


 汗が多いような。息遣いが違うような。少し表情が硬いような。無理やり言葉にしたらそう表現される、微妙な違和感がある。気がする。

 何か隠して、どこか無理をしているのではないか。そう穿って一挙一動を見てしまう。

 病院へと向かう降谷くんから、「いいんですか? 御幸先輩は行かなくて」と聞かれたときも変にしらばっくれていたし、いずれにしても、皆の目があるときはこれ以上の詮索はナシだと悟る。

 それもそうだ。

 たとえ怪我をしていたとして、明日に決勝を控えた今、それを素直に打ち明ける人ではない。主将。正捕手。四番。彼の性格。そして、野球への飽くなき欲求。そのどれもが、彼に歯止めをかける要因になる。

 寮に帰ったらどうしようか。

 頭の中で対御幸一也の作戦を練りつつ、薬師対三高の試合を観戦した。

Contents Top