「あっ、いた、一也くん!」
「⋯⋯どした? 真剣な顔して」
「ちょっと、こっち来て」
「? 何だよ?」
帰校してすぐ、名前に捕まった。試合後からの名前の視線は、何か悟られてしまったことを如実に語っていた。だからそれとなく避けていたのに。捕まってしまった。
渋る俺に構う様子など微塵もなく、自室に押し込められる。ルームメイトは出払っていた。これも織り込み済みってか。
急いで閉められた扉。ぐいぐいと胸板を押され、背が扉にあたる。だん! というちいさな音は、両脇に名前の両手が置かれた音だった。かたちばかりのなんちゃって壁ドンの状態で、名前は挑むように見上げてくる。
「さて、白状してください」
「だから何を?」
「⋯⋯一也くん」
諭すような声音だった。
これ、は、バレちまってるな。そう直感する。上手いこと隠してたつもりだったのにな。諦めにも感心にも似た溜め息が落ちる。
名前なら、俺の気持ちを無視して誰かに話したりはしないだろうし、決勝に出ることも、きっと後押ししてくれる。
それでも話したくないと思うのは、超心配することが目に見えているからだ。バレてしまってはしらばっくれることのほうが心配をかけてしまうのだろうし、名前を傷つけてしまうのだと思う。名前は俺にとって特別だし、信頼してる。それをちゃんと伝えたい。
だから、話すけど。
でも、話したくはなかった。
不安げに寄る眉も、たくさんの気持ち──本当に試合に出て大丈夫なんだろうか。選手生命に影響はないのだろうか。痛みは。辛さは。でも、今日までの努力を無下になんてできない。懸けている想いも知っている。それでも、この選択は本当に正しいのだろうか。そんな名前の胸中は、手に取るようにわかる──を押し込んで最終的には背を押してくれるのだろうその葛藤も、俺が与えることになってしまう。
そんなの。格好つかねぇだろ。
名前が大切だ。いつだって笑っていてほしい。俺のプレーを安心してみていてほしい。でも、事実を隠すことで傷つけたくもない。
これは、俺にとっても葛藤だった。
だから最後の踏ん切りをつけるまでの間、ちょっとだけ、ちょっとだけ揶揄ってみる。
「なーに。部屋連れ込んでこんな体勢とって。俺のこと襲ってくれんの?」
「⋯⋯はい?」
拍子抜けしたようにきょとりと見上げてきた首筋に顔を埋め、キスを落とす。
「いーね、積極的なのも。襲って襲って」
だなんて茶目っ気たっぷりに言うと、名前の身体がむすっと力んだ。そろそろ怒るかな。怒られたら、謝って、そんで話そう。
そう思っていたら、名前は数秒俯いて、再度俺を真っ直ぐ見上げた。
強かな、瞳だった。
「では襲います」
「はははっ、ノリいーじゃん⋯⋯ってマジで?」
ぷち。ぷち。細い指がユニフォームのボタンを外していく。アンダーシャツの裾から滑り込んだ左手は脇腹あたりに添えられ、右手は襟を強めに引っ張る。
顕になった首筋に、軽く背伸びした名前の唇が触れる。先程のお返しと言わんばかりだった。
直後、柔らかな唇に吸いつかれるちいさな痛み。名前は何度か味わった痛みなのだろうが、俺にとってははじめての感覚だった。
確かに“痛み”なのに。
背筋をぞくりと快感が上る。
痛めた脇腹も、場所も時間も立場も全部忘れて、名前を抱きたいと思ってしまった。その希求を目一杯の理性で押し留める。
「ちょ、名前」
「襲われてる人は黙ってください」
「⋯⋯っ、その場所で喋んな」
「あれ⋯⋯あんまり残んなかった。痕ってなかなかつかないんだ⋯⋯」
悔しそうに尖る唇。それを見下ろして、そんな可愛い唇じゃ難しいだろうよと思う。つーか何してくれんだコイツ。普通のTシャツならギリ見えるくらいの位置だろこれ。
もう一度近づいてくる唇を掬い上げ、些か強引に唇を重ねる。一瞬驚いた後、口づけに応えながら回ってきた腕が、確かめるように俺の脇腹を──恐らくは名前のMaxパワーで──押した。
反射的に、身体が強張る。
「⋯⋯ここが痛いの?」
「⋯⋯ずりーぞ」
「なんにも狡くないです。可愛い一也くんも見れたし、わたしの勝ち。ふふ」
向けられる悪戯っぽい笑顔。
敵わねぇなと思う。結果的にはぐらかすかたちになってしまったこの状況でも、変わらず向けてくれる笑顔を守りたいと思う。
できることなら。ずっと。
「テーピングの本くすねてきたの。見様見真似だけど、ないよりはいいはず、たぶん。てわけで服脱いでくれる? 取りあえずテープ巻いてみよう」
「⋯⋯止めねぇの? 明日の試合」
「だって、止まんないでしょ」
「⋯⋯そうだけど」
落ち着いたように聞こえる言葉とは裏腹に、手にした本へと落とされるその瞳は、潤んでいた。眼球を覆う透明な薄膜は名前の葛藤を、気持ちを、何よりも表している。俺は咄嗟にその身体を引き寄せた。
「⋯⋯ごめんな。心配かけて」
「⋯⋯」
「ありがとな。皆に言わないでくれて」
「⋯⋯」
「⋯⋯名前」
ぽん。ぽんぽん。
何も答えぬ名前の頭を、優しく撫でる。名前の頬があたる胸が、じわりと濡れていく。
「⋯⋯生きて、帰ってきてね」
「ははっ、どこ行くんだよ俺」
「ちゃんと、この先も野球してね」
「トーゼン」
「勝って。一也くん」
「うん」
「勝って、甲子園行こうね」
「ああ。ぜってー勝つ」
捧げられた祈りと。捧げた誓い。
ふたつを握りしめるように、名前の身体を抱きしめた。