17.濁った心と透明な心臓と



 試合中の一也くんは、今のところいつもどおりに振る舞っているように見える。しかしチャンスでは尽く凡退。らしくなさすぎて、周囲もそろそろ訝しく思うかもしれない。彼にとっても本当に歯痒いことだろう。

 あれから、ずっと考えていた。

 この選択が正しかったのか、今でもわからないままだ。彼を止められなかったわたしは、マネージャーどころか恋人失格なのかもしれない。

 でも、でも。

 止められなかった。

 ここまで来てしまえば、わたしにはもう如何にもできない。メガホンから大声を張り上げ、時には胸の前で指を組み、祈る。

 そんな折、ふと視線を流した先に、兄の姿を見た。三度見しても兄にしか見えないから間違いはないだろう。どうやら敗戦の傷はすっかり癒えたみたいだ。

 しかしプライドの高い兄のこと。決勝とはいえ青道の試合を観に来るなんて、一体どういう風の吹き回しだろう。雪が降ったら兄のせいだ。

 ていうかなんで多田野くんに荷物もたせてるの⋯⋯?

 少しちょっかいをかけたくなって、声をかける。


「おにーちゃーん! 復活おめでとー! こっちで一緒に観よ〜〜〜!」
「はあ?!?! ばっかじゃないの?! なんでお前と一也の応援しなきゃなんないの! しかも今日の一也、なんか情けなくて腹立つし」
「誰も一也くんの応援だなんて言ってないじゃん。一緒に観よって言っただけなのに、あはっ」
「うるさい!!」


 お兄ちゃんたら一也くんのこと大好きだね、なんて付け加えると、近くに寄ってきた兄から怒りのデコピンが飛んできた。

 ⋯⋯痛い。結構本気のやつだ。

 涙目で見上げると、ひとつ溜め息をついた兄がぶすりと言う。


「ねぇ何あれ。一也のやつ調子悪いの?」
「え⋯⋯心配してくれるの?」


 そう問うた途端、目にも止まらぬ速さで二度目のデコピンをお見舞いされた。額でチカリと星が弾ける。すごく痛い。


「いっ、た⋯⋯」
「心配なんかするわけないじゃん! せいぜい苦しめバーカ!」
「口、悪っ⋯⋯!」


 でもよかった。わたしは、元気な兄を確認したかったのだ。身体──というか額──を張った甲斐があったというものである。

 それを知ってか知らずか、悪態をつく兄の口元にも僅かに笑みが浮かんでいた。


「そんじゃーね。俺あっちで観るから」
「うん、ありがと」


 ちいさく手を振って、兄を見送る。

 隣で成行きを見守っていた春乃ちゃんが、どこか興奮した様子で話しかけてくる。なぜか小声だ。


「名前ちゃん! 成宮さんってあんなふうに笑うんだね⋯⋯!」
「ふふ、どんなイメージだったの?」
「なんて言うか、もっと意地悪そうに笑うと思ってて⋯⋯」
「あははっ、そのとおり! 今だって意地悪だったでしょ」
「ううん。優しい顔だったよ。お兄ちゃんって感じの」
「⋯⋯そ、うなんだ」


 与えてもらう愛情というのは、身近で当たり前になっていればいるほど気づきにくいのだと、春乃ちゃんの言葉で思い知らされる。

 そんな、気づかれないささやかなぬくもりを、大切な人のそばに置いておける人でありたいな。と、不意に思った。







 五回表、無死満塁のチャンスでも凡退となってしまった一也くんに、いよいよ皆の懐疑の視線が向くようになる。結局、裏の守備へと切り替わるタイミングで、ベンチ前でひと騒動となってしまった。

 つまり、皆に今の状態を知られたということである。

 チームメイトは、監督は、一也くんの状態をどう判断するのだろう。はらはらと落ち着かない。そのうち居ても立ってもいられなくなり、ついにはそっとスタンドを離れ、ベンチ裏へと駆け出した。

 五回の守備を一点リードされた状態で終えたあと、一也くんはベンチ裏で皆に見守られながら診察を受けた。

 ──腹斜筋の肉離れの疑い。

 告げられたのはそんな単語。言葉にされると、重みが一気に増した気がする。もともと重たかったのに、これ以上重くされては敵わない。


「プレーに影響ないはずないんですが⋯⋯このテーピングは自分でやったの? このおかげで少しマシなのかもしれませんね」


 アンダーシャツの下に忍ばせたテーピングにも気づかれてしまった。そして、その言葉にわたしが身動ぐのと、一也くんがわたしを流し見るのが同時になってしまった。⋯⋯馬鹿みたいに素直な反応をしてしまった。わたしが素人同然のテーピングをしました、と白状してしまったに等しい。

 この双方の反応に、高島先生が口を開く。


「苗字さん⋯⋯もしかして知ってたの? 」


 向けられた視線が「どうして黙ってたの?」と語っている。言葉に詰まる。なんて答えよう。どの言葉が最適だ。そんな打算的なことを考え、返答に窮する。

 その時だ。


「──礼ちゃん」


 一也くんの、声だった。


「俺が黙っといてって頼んだんだよ。泣かせちまうくらい無理言ってさ。だから、名前のこと責めないでやって」
「⋯⋯あなたも、どうして昨日の時点で言わなかったの? この先だってあるし、辛い思いするのはあなた自身なのよ」
「今日勝たないと、センバツも神宮大会もないよ」


 自負。責任。渇望。
 短い一言に、彼の真意が、野球への飽くなき想いが詰まっている。

 彼は、すべての判断──試合継続の可否やタイミングなど──を監督に預けたそうだ。そのおかげか、彼の表情にはどこか吹っ切れたような清々しささえ滲んでいる。


「名前。何も気にすんじゃねぇぞ。あと四回、しっかり応援頼むぜ」
「うん。逆転満塁ホームラン待ってるね」
「ははっ、ハードル高ぇな」
「ふふ。ご武運を」


 無意識に祈るようにお腹の前で組んでいた手に、まだ笑みを浮かべたままの一也くんの手が重なる。見上げると、彼は大きく頷いた。そうしてベンチへと消えていくその背中を、ひたすらに見送った。







 一点リードを許したまま迎えた最終回。この回で最低でも一点を取らなければ、終わってしまう。死にそう。緊張で死にそうだ。声を出していないと、自分の心臓に食われてしまいそうだった。きっと皆も同じなのだろう。スタンド中で、祈りというよりもはや怨念に近い声援が渦巻く。

 しかし、走者を出せずに二死まで追い込まれる。ここで打順は小湊くん。春男でも春団治でもなんでもいいから打ってくれ! そんな失礼極まりない怨念が届き、小湊くんが一塁へ出て希望を繋ぐ。

 こんな場面で打順が回ってくるのが、御幸一也という男である。

 一也くんは、きっともう限界だ。
 肩で息をして、表情からして満身創痍。気持ちだけで動いているのだろう。それでも、ヒットを打つ底力。

 わたしはもう半泣きだった。

 滲む視界で見た光景。

 前園先輩の打球が二塁手の頭上を越え、三塁にいた小湊くんが本塁へ戻ってくる。二塁にいた一也くんも迷いなく三塁を蹴る。

 声に、ならない。

 一也くん、と名前を呼びたいのに。声にならないのだ。息さえ忘れて、その姿を見つめる。本塁へと頭から飛び込む一也くん。ほんの一瞬、コンマの攻防。皆が固唾を飲む中、主審の手が──地と水平に空を切る。「セーーーフ!」

 逆転が決まったその瞬間、球場が沸き立った。


「ゾノーーーー!」
「やりやがった!」


 歓声が注ぐ球場でしかし、一也くんだけが起き上がらない。──そんな、まさか。瞬時に嫌な予感が頭をよぎる。


「かず⋯⋯」


 スタンドの最前列へ駆け寄ろうとした、その時だった。

 一也くんの右拳が、地面を数度叩く。そのまま右手を掲げ、上がった顔には未だかつて見たことのない最高の笑顔。

 ついに、涙腺が崩壊した。

 まだ試合は終わっていないというのに、涙が止められない。次から次へと溢れてくる。

 わたしは、このときの一也くんの顔を。

 ──一生忘れないと思う。

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