17.濁った心と透明な心臓と


 青道はそのまま一点リードを守り抜き、センバツへの切符を手に入れた。やっと届いた夢の舞台。喜びに加え、心配やら安堵やらが重なりまくり、顔なんてとうにぐちゃぐちゃだった。


「はっはっはっ、名前、顔ひでぇぞ」
「うるさいです⋯⋯もう、怪我人は黙ってて⋯⋯うう」
「ははっ、また泣く」


 気が抜けたせいもあってか、一也くんは閉会式の時点でフラッフラだった。それでも皆の前ではこうして強がって、軽口を叩く。そのせいで、皆が彼にかける労りの言葉にはちくちくと小言が混ざっている。


「そういやさ、聞けよ名前」
 片付けの手は止めずに、彼は言った。

「ん?」
「この馬鹿さー、俺のことスランプだと思ってたんだぜ。ウケんだろ?」
「スランプ。一也くんが」


 彼は沢村くんを親指で示しながら、ぷくくと肩を揺らした。直後、いてて、と脇腹を押さえる。それでも思い出し笑いはおさまらないようで、「いやー笑わせてくれるわ」とお腹を抱えている。


「沢村くんってほんと⋯⋯ほんと才能あるよね、あはは」
「るせっ! さっさと病院行け!」


 沢村くんが噛み付くように言う。するともっちー先輩が「病院っていえばよ」と話しかけてきた。


「俺らがコイツのこと病院に連れてこうと思ってっけど、名前ちゃんも一緒に行くか?」
「⋯⋯いえ、ちょっとわたし今涙腺激ゆるだし、一也くんお墨付きのひどい顔なので⋯⋯タクシーも定員オーバーだし、積もる話もあるでしょうから」
「「んなもんねぇよ」」
「わあぴったり」


 コイツと積もるほど話すことなんてねぇ、と二人揃って明後日の方を向いている。

 新チーム始動から、今日まで。
 本当にたくさんの悩みや葛藤がそれぞれにあった。部員同士で衝突もした。それでもようやく甲子園への切符を手にしたのだ。肩の荷も少しは降りたのではないか。今日くらいは、幾らか素直な言葉で話ができるのではないか。そんな淡い期待を抱く。

 それに、正直な気持ちを言うと、少し怖いのだ。診察を受け、正式な診断名を頂戴する場面にいたくない。待つ辛さよりも、未知の現実と邂逅する恐怖が勝ってしまった。

 ⋯⋯きっと、大丈夫だよね。

 そう言い聞かせ、もっちー先輩の肩に嫌々担がれる一也くんを見送る。
 タクシーで彼が吐いたへにょへにょの弱音をリーク──もちろんリーク主はもっちー先輩である──してもらうのは、数時間後のことだ。







「あっ、帰ってきた!」


 優勝を決めたばかりだというのに素振りをする白州先輩や小湊くんを眺めながら、膝を抱えていた寮の前。タクシーのヘッドライトに照らされ、勢いよく立ち上がり駆け寄る。

 車から降りてきた姿を認め、ほっと息をつく。表情は、悪くない。最悪の報せではなさそうだ。


「おかえりなさい」
「やっぱ待ってた。休んどけっつったのに」
「気になっちゃって無理だった。自分でついていかなかったくせにね。で、一也くん⋯⋯ご無事でしたか」


 こくり。唾を飲み込んでいた。彼の口から返答が出るまでの僅かな時間が、異様に長く感じられた。


「ご無事ご無事。やっぱ腹斜筋の肉離れだって。骨はなんともねぇ。なのに全治三週間とか、大袈裟すぎんだよなー」
「三週間⋯⋯全治ってことは、ちゃんとケアしたら完全に治るってことだもんね?」
「そりゃ“全”に“治”って書くくらいだからな⋯⋯大丈夫か? 少し会わない間に阿呆になっちまったんじゃねぇの」
「もう今はアホでもいいよ。はぁ〜〜〜〜よかった⋯⋯」


 張り詰めていた緊張の糸が、ふつりと途切れる。今すぐ一也くんに甘えたい気分になってしまって、慌てて目線を逸らす。これ以上彼を視界に入れてしまうと、抑制ができなくなってしまいそうだった。

 故に目線は泳がせたまま、「そういえば」と切り出す。


「もう少しで祝勝会始まるよ。出れそう?」
「ああ」
「よかった。着替えておいでね」


 そう伝え、素早く踵を返そうとしたその時だ。手首を軽く掴まれ、引き止められる。


「コラコラ、どこ行く」
「? 食堂で準備でもしようと思って」
「お前の準備はこっち。アドレナリン切れて超痛ぇから着替えんの手伝って」


 きゃぴ、と可愛らしくお願いされた。なるほど。断れない。全然まったく断れるはずがない。

 巧妙な手口に一周回って感心していると、もっちー先輩が笑いながら耳打ちしてきた。


「(コイツ柄にもなくめちゃくちゃ弱ってっから、今日くらい一緒にいてやって)」
「(え)」


 もっちー先輩の口から、一也くんに対してこんな言葉が出てこようとは。明日雪が降ったら兄のせい、と思っていたけれど、もっちー先輩のせいで猛吹雪になるのかもしれない。


「(何かあったんですか?)」
「(あったあった、病院行く前なんてもう別人。あんなへなちょこな御幸初めて見たぜ)」
「(⋯⋯ちょっと見たかったです)」
「(ヒャハハ!)」
「⋯⋯だからお前ら全部聞こえてるって」


 額にイラッとマークをつけた一也くんを口々に笑ってから、先輩たちは皆その場を離れていってしまった。


「ったくあのヤロ⋯⋯普通バラすかよ」
「ふふ、仲良くなれてよかったね」


 どこか気恥ずかしそうに頭を掻いてから、彼は「来いよ」とわたしの手を引いた。

 自室へと戻った彼は、ジャージとティーシャツを手に床に腰を下ろした。目の前に座るように促され、彼の足の間にしゃがむ。本当にわたしがするの? と視線で問うと、にやりとした笑みが返ってきて、観念する。

 ユニフォームのボタンを遠慮がちに外しながら、「あ、今日ね」とスタンドでの出来事を話す。


「お兄ちゃん来てたんだけど、なんだかんだ一也くんのこと応援してたよ」
「本当かよ」
「うん、怒りながらね」
「なんだそれ」


 ユニフォームはスムーズに脱げるようだけれど、アンダーが辛そうだ。本当に、よくこの状態で一試合を完遂したものだ。


「手上げるの痛いね」
「うん。だから抱きしめて」
「あはっ」


 新しいシャツを纏った彼の胸に、ぽすりと顔をうずめる。背に回った彼の腕と、安心感とに包まれる。束の間目蓋を閉じ、彼に浸かる。

 程なくして彼が呟く。


「手当てって、手を当てる行為が由来だって言うだろ」
「? うん」
「あれって本当なんだよな」
「⋯⋯?」
「名前がここにいると、痛ぇの和らぐ」


 顔を上げると、頬に頬が降ってきた。柔らかい。⋯⋯なるほど確かに。もっちー先輩の言う通りの激弱りである。激レアだ。こんなに可愛い一也くんにはそうそうお目にかかれない。

 今しかない。堪能せねば。

 つまるところWin-Winな状態なわけで、互いに満足のいくまで体温を分け合う。その最中、ぽつりと零す。


「三週間、か⋯⋯」
「長えよな。その間エッチもお預け、いてっ」
「その心配じゃないしそんなサラッと言わないで、恥ずかしい⋯⋯」
「今更じゃん、っコラ、そこつっつくな、痛ぇんだって!」


 三週間。

 わたしにとってはいつも通りの三週間でも、彼には、彼らには、長過ぎる期間だ。その期間を戦い抜かなければならぬ彼を、支えられる自分でありたいと。

 そう願った。





◆濁った心と透明な心臓と◇

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