18.綿雪に黙す



「だーれだっ!」
「うおっ」


 早朝だった。

 静謐に冷えた空気に、頭が冴えていく。肌が引き締まる。その感覚が心地よい。まだ完治には至っていないから皆の朝練の傍らでランニングでもしようとグラウンドへ向かっていた道すがら、背後からかかった声とともに視界が遮られる。直後、ふわりと微香。

 名前の、匂いだ。


「⋯⋯」
「⋯⋯あれ?」
「⋯⋯何してんのお前」
「あら冷たい」


 笑って手を離した名前を振り返る。「おはよ」と弾む音程がやけに上機嫌だ。何かいいことでもあったのだろう。


「機嫌いーな」
「ふふ、わかる?」
「朝からそんだけにこにこされた上に小学生みたいな悪戯されるとな。てか指先冷てぇぞ。そろそろ手袋履いといたほういーんじゃねぇの」
「まだ大丈夫だよ。真冬にとっておく」
「んなもんとっとくな」


 こりゃ冬本番にはしっかりあったかくしてやらないと、と思う。グラウンドに出れば常に身体を動かす俺らと違い、名前たちには寒さが堪える。放っておいてまた風邪でもひかれたら、名前がいなくなることでグラウンドがより冷えてしまう。


「一也くん、今日もクリス先輩のとこ行くの?」
「ああ、そのつもり」
「じゃあ、帰り道途中で降りて! 待ち合わせしよう」
「ん?」
「行きたいところあるの。一緒に行ってくれる?」
「いーけど⋯⋯珍しいな」
「ふふ、こんな機会も滅多にないし」


 確かにそうだった。
 野球、野球、野球、そして野球。俺らの毎日は野球にまみれている。お互いそれが本望でここにいるわけだから、不満が出たことはない。しかし確かに、名前とどこかへ出かけたことはないに等しかった。

 何も言わねぇけど、コイツもデートとかしたいって思ってんのかな。

 そんな考えが頭を掠める。


「じゃあ、時間と場所、あとでメールしておくね。わたしも今日は時間通りにあがるから、あんまり遅くはならないよ」
「わかった」


 だから、素直に頷いていた。

 しかしそうは言っても、だ。
 野球以外でどこかに行け、何かしろ、と言われると、途端に何も思い浮かばなくなるから困ったものだ。まぁ名前も名前だから、行ってみたらバッティングセンターだったなんてオチもあるかもしれないが。考えてみれば野球以外の名前を、──俺は存外知らない。

 そんなことを、思った。







 練習後に合流した名前は、苦笑してしまうほどテンションが高かった。俺の手を取り、まるで幼子が親に甘えるような仕草で引っ張りながら、とある建物へと入っていく。

 平日だからか、時間が遅いからか、たまたまなのか、俺たちのほかにはまだ客はいないようだった。


「わーい! 久しぶりに来た〜〜〜!」
「ここ⋯⋯プラネタリウム?」
「一也くんはやくはやく! こっち〜〜!」
「コラ走るな、周りちゃんと見ろ、ったく⋯⋯引率の先生かよ」


 ぶつくさと零しながら、見慣れぬ館内を眺める。プラネタリウムは、はじめてだった。

 一也くんはここ! と指定された席に身を沈め、きらきらうきうきしてばかりの横顔を見つめる。


「よく空見てんなーとは思ってたけど、こういうのも好きだったんだな」
「うん。一也くんは来たことある?」
「いや、はじめて」
「ふふ、そっか。興味なかったらごめんね、付き合ってくれてありがとう」


 再度「いや、」と首を振る。
 興味の有無など関係ない。名前のことなら、どんな事でも知りたいと思う。喜ぶことも、悲しむことも。すべてとは言わないが、名前が見る景色、その感じ方を分けてほしいと思う。

 そして欲を言えば、その中に俺がたくさんいればいいと思うし俺をずっと好きでいろよなと思うしずっと俺だけ見てればいーよなんて思ったり思わなかったりする。

 まだ何も投影されていない円形のスクリーンを見上げたまま、名前は静かに続ける。


「なんか、一也くんにも知ってもらいたいなって気持ちになっちゃって」
「? 何を?」
「一也くんと野球以外で、わたしが好きなもの」
「⋯⋯」
「それがきっと、わたしが一也くんにあげられるものだから」


 なんだか今日の名前の言葉は、返答に困る。悪い意味ではなくもちろん良い意味でだが、こういうところは出逢った頃から変わらない。こんなふうに素直に、そして真っ直ぐに、想いをやわらかに伝える術を持つ名前を好ましく思う。自分には持ち得ぬ術だ。しかし、不思議と羨望は抱かない。名前が隣にいてくれれば、自分の不足分を埋めてくれるような気がするからかもしれない。

 不意に名前の手が伸びてきて、俺の指先をきゅっと握る。スクリーンから視線をずらす。そこでは、今朝から変わらぬとびきりの笑顔に、日なたのような穏やかさを纏った名前が、真っ直ぐに俺を見上げていた。


「お誕生日、おめでとう。一也くん」
「え」


 俺は暫し固まった。
 今日? 誕生日? てか今日って何日?

 その間、名前は楽しそうな笑みを携えたまま、俺の指先で遊んでいた。考えてもわからないので、そのままを問う。


「⋯⋯俺、今日誕生日?」
「ふふ、やっぱり忘れてた。今日だよ。十一月十七日。一也くんが、生まれた日」
「⋯⋯なんか去年も忘れてた気ぃすんだけど」
「そうそう。せっかくお父さんがおめでとうってメールくれたのに、一也くんたら『なんのこと?』って返したんだよ」
「そーだっけ」
「やだ、それも忘れちゃったの? 男の子はエピソード記憶が苦手ってほんとなんだ⋯⋯」
「いーんだよ。名前が覚えててくれりゃ」
「ふふ。じゃあその代わり、わたしが忘れちゃうことは一也くんが覚えててね」
「⋯⋯」
「⋯⋯?」
「そんなことあるか?」
「あはは、あるよ、たくさん」


 静かに笑って、名前はその細い指を俺の五指にそっと絡めた。


「一也くんがここにいてくれて、幸せです。わたし」


 胸のあたりがくすぐったい。同時に少し苦しい。むずむずして、あたたかくて、もどかしくて、この心のうちを掻き出したいような衝動に襲われる。

 まいった。今日の名前には、どうにもこうにも打つ手がない。為す術なく手を握り返したその瞬間、照明が静かに落ちた。







 どこか、違う場所にいるようだった。

 俺の生まれた日。太陽が沈む時刻。この季節に輝く星の名。地球の中から覗く、見たことのない宇宙の深淵。この空間では、手のひらで感じる名前の体温だけがこの世界のものだった。

 俺たちの頭上には、こんなにも壮大な宇宙が広がっている。途方もねぇな、と思う。その途方もなさは、この世に生を受け、野球と出逢い、そして名前と出逢い、こうして共に歩んでいることの途方のなさでもあった。


「名前」
「んー?」
「ありがとな」
「⋯⋯わたしこそ、ありがとう」


 いくら言葉を尽しても足りない。

 生まれてきてくれてありがとう。この広い世界の中で、見つけてくれてありがとう。ここにいてくれてありがとう。

 こんな言葉では、足りない。

 それが互いにわかっているから、ただ、星空を見つめ続けた。

 願わくば、ずっと。こいつの隣にいるのが俺であれ、と。柄にもなく、思ったりして。

Contents Top