18.綿雪に黙す


 時は少し遡り、冬合宿直前のことである。
 夕食後に姉から入った一本の電話──ちなみにわたしはこのとき、寒さから逃れるように室内練習場に持ちこんだ球磨きをしていた──が、すべての発端であった。

 肩と耳でスマホを挟み、球磨きを続けながら電話に出た。


「もしもし、名前? 今話せる?」
「はーい、大丈夫だよ」
「この間帰ってきてた時さ、お正月は練習休みって言ってたわよね?」
「うん! お兄ちゃんも帰るって言ってたよね、皆で紅白観ようね」
「年越し蕎麦作ってあげる⋯⋯ってそれはそうと、さ。もし時間あるようだったら、御幸くんも連れておいでよって言いたくて電話したの」
「えっ?!」


 驚いた反動で、スマホは落ち、球も落ち、タオルも落ちた。大きな声が出てしまったせいで、ティーをしていた小湊くんと前園先輩が不思議そうな視線を寄越した。


「今すごい音したけど⋯⋯大丈夫?」
「ああ、うん、大丈夫、落としちゃっただけ。画面割れてなかった⋯⋯それで、な、なんて?」
「だから、御幸くん連れておいでって。皆会いたがってるし、鳴もいるから丁度いいでしょ」


 丁度いいってなんだ。
 むしろ丁度悪いのではないか。

 スマホに次いで球とタオルを拾い上げながら、わたしは少し唇を尖らせた。


「⋯⋯さてはお姉ちゃん楽しんでる」
「うふふ、いーじゃない」


 父や母、そして姉が一也くんに会いたいというのは本当だろう。昔から彼の名前は知っているし、試合で見かけたこともあるし、わたしもよく話すし。

 しかし、だ。

 今現在の御幸一也と成宮鳴は、混ぜるな危険と注意書きがあるのだ。それを無視しようなどとは、わたしの家族は皆度胸がある。ていうか今度こそ本当に一也くんの命が危ない。


「でもお正月だし⋯⋯お兄ちゃんいるし⋯⋯」
「もちろん無理にとは言わないけど、聞いてみないとわかんないじゃない。意外と乗り気になってくれるかもしれないし、ご馳走たっぷりだし。それに鳴は大丈夫、私達がいるんだから」


 こう言われてしまえば、返す言葉がない。わたしの予想はあくまでも予想で、実際に一也くんに聞いてみなければわからない。そして確かに姉たちがいれば兄の手綱を取ってくれる。

 ゆえにわたしは「わかった、聞いてみる」と頷くよりほかなかったのだ。







 ピカピカに磨き上げた球を片付け、彼の姿を探すこと五分。裏の土手で素振りをしている彼を見つけ、階段下まで歩み寄る。


「一也く〜〜ん⋯⋯ものは試しでご相談です」
「ん、何?」
「あ、素振り終わってからで大丈夫なの。待ってる」
「いーよ、しながら聞く。こっちこいよ」
「⋯⋯じゃあ、ちょっとだけ」


 三段だけ上り、階段に腰を下ろす。

 なんだか気が引けてしまい、これ以上近付けなかった。だって突然、彼女の家族と食卓を囲むことになるかもしれないのだ。しかもお正月に。会うタイミングだって今じゃないかもしれないし、そもそも会うなんて考えてもいなかったかもしれないし、すごく迷惑かもしれないし、等々考え始めればキリがない。

 迷った末、微妙な距離感を保ったまま話そうとしたところで、彼の怪訝な声が頭上から降ってくる。


「いや⋯⋯遠くね? 話しにくいことならちゃんと聞くからそう言えよ」
「いや、なんていうか⋯⋯」


 口篭っている間に、手を止めた彼が階段を降りてくる音がする。そのままとさりと隣に座る。軽く鳴ったのはバットが段差に立て掛けられる音だ。

 キャプテンになってから、こういう気遣いに磨きがかかった。それをわたしに対して発揮させてしまったのかと思うと、さらに身が竦む。かと言って聞かぬわけにもいかない、というか聞いてみたいし。だってこんなに大好きな彼氏のことは、やっぱり家族にも紹介したい。


「どーした?」
「⋯⋯あのね、なんか我が家の皆さん(お兄ちゃん以外)が迷惑でなければ一也くんを家にお招きしたいみたいなんだけどお正月休みどこかで時間あるかな?」


 勢いに任せひと息に言い切る。
 言い切ってから恐る恐る見上げると、眼鏡の向こうでは綺麗なかたちの目がぱちりぱちりとしばたいていた。

 数秒フリーズ。それから、彼はぽつりと呟いた。


「⋯⋯そりゃまたやべぇ案件きたな」
「⋯⋯ですよね」


 そりゃあそうだよね。

 と、思っていたはずなのに。
 実際に言葉にされると、少し寂しく感じている自分がいた。なんて面倒くさいんだわたしは。なんでちょっと落ち込んだりしてるんだ。

 自然と伏せてしまっていた睫毛を慌てて戻そうとした瞬間、繕うように彼が言う。


「ああ、やべーってのはそういう意味じゃなくて」
「そういうって?」
「行きたくないとか、親に会いたくないとか、そういう意味じゃなくてさ」
「⋯⋯?」
「それ、俺超緊張すんじゃん。って意味のやべぇ」


 きょとん。
 今度はわたしが大きく瞬いた。


「一也くん⋯⋯って、緊張とかするの?」
「⋯⋯お前は俺のこと何だと思ってんだよ」
「だって、いつだって満点のスリルを楽しんでるから⋯⋯」
「そりゃ野球の話だろ。お前のことは別、全然別」


 嬉しくもあり、面映ゆくもあり。わたしは再度瞼を伏せた。同時に下がった視線で、膝の上に置いていた指先に先程の球磨きでついた土汚れが残っているのに気づく。


「でもそうだな、挨拶は早めにしときたいし、迷惑じゃねえなら行くよ」
「えっほんと」
「ははっ、なんで名前がそんな驚くんだよ。俺はいつでもいいからさ、家の人たちの都合聞いといて」
「うん⋯⋯」


 想像もしていなかった答えに、不意打ちをくらってしまった。今日も今日とて一也くんは格好いい。鼓動が逸る。彼に逸らされる心臓は果報者だ。


「やべ、緊張してきた、バット振ろ。あと百回は振ってから戻るわ」
「あはっ」


 再び階段を上りバットを振り始めた姿を見上げつつ、胸の内で規則的に波打つ感覚に浸っていると、彼が思いついたように言う。


「なあ、名前も俺んち来る?」
「⋯⋯え?」
「親父にも会ってもらいてぇし、まあ嫌じゃなけりゃだけど」
「なんと」


 まさか我が身に降りかかるとは思ってもいなかった。明日は我が身ならぬ数秒後は我が身だ。

 一也くんのお父さんに会う⋯⋯?
 一也くんの生きてきた家に行く⋯⋯?

 なんだこのイベント。幸せ過ぎやしないか。自分には知り得ないと思っていた領域に、彼の内側に、踏み入ることを許された感覚。わたしたちの関係にはまだまだ先があるのだと教えられたようで、嬉しさに心が潤っていく。

 しかし同時に、不安も押し寄せる。

 彼のお父さんに好感を持ってもらうとまではいかなくても、嫌悪感を抱かせずに会話ができるだろうか。彼に更に近付くことで、幻滅されてしまうような何かが露呈してしまわないだろうか。彼の大切な何かを、壊してしまわないだろうか。

 ⋯⋯そうか。
 彼のいう緊張とは、こういうことなのか。なるほど確かに、これは、非常に緊張する。


「お正月に迷惑じゃない? 久しぶりの親子水入らずの時間なのに」
「全然。男二人だし、休みの間ずっと二人で話し続けるわけねぇし」
「⋯⋯お父さんがいいって言ってくれるなら、行ってみたいな」
「ん、決まりだな」
「うわ、やばい、緊張する! わたしもバット振りたい!」
「はっはっはっ! だろ? 終わったらバット貸してやるから待ってて」
「うん、ありがと。実はバット振ったことないけど」


 彼のバットが空を切る。
 その音は、まるで羽根でも生えたかのように。先程よりも軽やかな気がした。

 そして数十分後、見様見真似で振ってみたバットがわたしの手をすっぽぬけ、彼の横をビュンと飛び、そのまま土手を軽快に転がり落ち、それを一也くんが呆れながら拾いに走るという事態が発生するのだった。


「コラなんで手ぇ離すんだよ?!」
「違うよバットが勝手に!」


 とかなんとか。

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