18.綿雪に黙す


 御幸スチール。

 そう書かれた下町のちいさな工場を指差し、「古い建物で悪ぃんだけどさ」と彼は言った。

 入り口から中を覗き込む。
 見たこともない機械がずらりと並ぶ。その奥に男性が一人。その人物に向かって一也くんが声をかける。もしやお父様か、と身構える。


「親父! 連れてきたぜ」


 や、やはりお父様⋯⋯!

 上がった顔に、一也くんの面影を感じる。いや、一也くんの顔にお父さんの面影を感じる? この際どっちでもいいけれど、やはり親子だ。どこか似ている。

 寡黙そうなお父さんと目が合って、わたしはがばりと頭を下げる。


「はっ、はじっ、初めまして! 苗字名前といいます。年末にお邪魔してしまってごめんなさい。その、一也くんと、おつ、お付き合いを」


 だめだ。

 緊張しすぎて頭も口も回らない。わたしが喋った言葉のはずなのに、誰か別の人物が勝手に放った言葉のような気分だ。

 こんな第一印象はいやだ。なんとか持ち直さなければ。そう焦っていると、隣から堪えきれないといった様子の笑い声が聞こえてきた。


「ぷっくっくっ」
「⋯⋯ちょっとなんで笑うの」
「だってお前、緊張しすぎ⋯⋯ぷくく、腹痛ぇ」


 お腹を抱える一也くんにつられたのか、お父さんの口元にもちいさく笑みが浮かぶ。嬉しいような恥ずかしいような、いややっぱり恥ずかしい。無念だ。たくさんしたイメトレもあまり役に立たず。

 笑いの余韻を提げたまま、彼は爪先の向きを変える。


「親父はもう少し仕事かかるみたいだからさ、先上がってよーぜ」
「あ、そうなんですね⋯⋯その、お邪魔します」


 頭を下げる。お父さんは、軽く手を上げて答えてくれた。口元にはやはり、僅かに笑みが浮かんでいる。

 先導するように表に回り階段を上り始めた一也くんが、なんとも言えない声を出す。


「っあ〜〜、マジで筋肉痛やべぇ⋯⋯」
「あはは、押してあげる! 頑張れ頑張れ!」


 彼の腰のあたりを後ろから押す。あの冬合宿の後なのだ。全身をどれほどの激痛が襲っているのか。わたしには想像もできない。

 そんなこんなでえっちらおっちらと階段を上り終え、ついに彼の家へと踏み入る。のだが、目の前にしても現実味がなくて、玄関で立ち止まる。


「お邪魔します⋯⋯ここが一也くんのおうち」
「? 何してんの早く入れよ」
「うん⋯⋯」


 お父さんがいないとはいえ、やはり緊張する。脱いだ靴をいつもより丁寧に揃えたり、ハンガーに上着をきちっとかけたり。失礼でないように、それとなく室内を見回したり。

 そんなぎこちない動作に、彼はまたもやぷくくと笑う。


「親父いねぇんだから気抜けよ。ロボットみてえだぞ」
「そんなこと言ったって⋯⋯」


 唇をへの字に曲げた、その瞬間だった。

 肩を抱き寄せられ、そのまま彼の胸に仕舞われる。壁に背を預けた彼の胸板に寄りかかる体勢だ。耳には彼の規則的な呼吸音。彼の匂いに包まれて、ひどく安心する。

 気づけば逞しい胸板に自ら頬擦りしていた。


「⋯⋯きもちい」
「俺も」


 そう言いながら、腰に回っていた手が徐に臀部へと下がり、丸みを確かめるようにやわやわと揉み出す。


「ちょっ」
「まだ当分戻ってこねーから」
「そういう問題じゃ⋯⋯」


 抗議もそこそこに、顎を掬い上げられ唇が重なる。久しぶりのやわらかな感覚に、つい、肌がぞくりと悦ぶ。息継ぎの合間に「合宿あんなしんどかったのに名前に触れなくて超フラストレーション溜まってんの」だの「名前は? 違ぇの?」だの、あらゆるところを優しく撫でられながら囁かれ、理性が侵食されていく。


「ん、は⋯⋯ぁ、まって」
「なんで」
「だって、⋯⋯欲しくなっちゃうもん」


 もう知ってしまった。覚えてしまった。この先にある更なる快楽を。交わし合える幸せを。

 いやしかし、だからといって今の発言は非常に恥ずかしい。赤面していくのが自分でもわかる。こんなことを言ってしまうのも、どれもこれも理性がなけなしであるせいだ。もう少しちゃんとしていたいのに、一也くん相手だとどうしてもこうなってしまう。


「ったくお前は⋯⋯」
「きゃ、」


 下着の中に手が入り込み、直にヒップラインを覆われる。


「せっかくキスコレだけで我慢しようとしてたのに⋯⋯ほんとにシちまうぞ」
「だ、だめだよ、お父さんいつ戻ってくるかわかんない⋯⋯」
「んな目で言われても説得力ねぇけどな」


 彼の囁きに、全身が身震いする。再び重なった唇に必死に応えていると、突然──

 カタンッ!


「「──っ!」」


 玄関からした物音に、二人揃って肩を跳ねさせる。不服そうに様子を見に行った彼は、すぐに戻ってきた。溜め息と共に何かのファイルを机に置く。


「回覧板だった。こんな時に回してくんなよなマジで」
「ふふ。助かったような、ちょっと残念なような」
「まあ、これがなきゃ押し倒してたわ」
「⋯⋯」


 彼のことだから本気でそう思っていそうで、わたしは口を噤んだ。その様子に笑ってから、彼は「仕方ねぇから味噌汁でも作っとくか」と台所へと向かう。

 その途中、棚の上に一枚の写真を見つける。


「一也くん。これって」
「ああ、お袋だよ」
「お母さん⋯⋯綺麗な人⋯⋯ふふ、一也くん赤ちゃんだ」


 母に抱かれる赤子。その隣の父。
 その一枚に写る二人の表情が慈愛に満ちていて、涙が滲みそうになる。

 ──一也くんをこの世に産んでくれて、ありがとうございます。

 そんな言葉が落ちそうになって、ぐっと堪えた。

 買ってきた食材を調理台に並べながら、彼がぼそりと言う。


「⋯⋯あとで見るか? アルバム」
「え! 見る!」


 めちゃくちゃ食い気味で返事をしてしまった。“アルバム”の“ア”の字あたりで既に返事をしていた。


「お前んち行ったら名前のも見せて」
「うん。一也くんとお兄ちゃん写ってる写真とかあるよ」
「それは見なくていい」
「えっなんで、二人とも可愛いよ」
「いい」
「え〜〜〜」


 ぶつくさ言いながら、彼の隣に並ぶ。いつの間にかエプロンを付けていた姿に気づき、まじまじと眺める。


「うわ⋯⋯もうほんと何着てもかっこいい」
「は? このエプロンが? 補正入り過ぎだろ」
「くう、毎度参っちゃう⋯⋯これが惚れた弱みってやつなのかな」
「⋯⋯使い方違くね?」
「そう? じゃあなんて言うの」
「そりゃあお前⋯⋯知らねぇけど。痘痕も靨とか?」
「ふふ、全然痘痕じゃないのですけども」
「またそうやって⋯⋯わーったよ。わかったからもうその目やめろ、襲うぞ」
「きゃ、あははっ」


 戯れながら野菜を切ったりお出汁を取ったり、簡単なおかずを作る彼の手伝いをする。


「名前、味見して」
「ん⋯⋯お、おいし〜〜〜! もう一口、いや二口!」
「お前それ味見じゃなくてつまみ食いっつーんだよ」


 なんて話をしている頃に、お父さんが帰ってきた。準備をし、皆で食卓につく。

 お父さんは、分かりにくいけれど歓迎してくれているようで、昼間からビールを開けていた。一也くんに言わせると、珍しいことだという。

 お父さんは自分からあれこれ話すタイプではないようだった。しかし一也くんとわたしの話を静かに聞くその目元には終始柔らかさが滲んでいて、お酒が回ってくると時折彼の昔話をしてくれた。その度に彼は少し恥ずかしそうに「んなこと教えなくていーって」と言う。

 微笑ましいことこの上ない。

 食後に開いたアルバムには、丁寧に写真が並べられていた。お母さんがいなくなってしまってからもそれまでと同様に並んでいる写真から、お父さんの彼に対する愛が感じられた。

 彼が何も言わずに見守ってくれるのをいいことにしっかりと二周見終え、余韻に浸りながらお茶を飲む。

 お父さんはリラックスした様子で正月特番を見ていて、一也くんはいつの間にかわたしの膝を枕にしてうたた寝をしていた。


「⋯⋯一也は寝たのか」
「⋯⋯寝ちゃいました」


 お父さんの前でこんな、膝枕なんて。かと言って起こすのも気が引けるし、どうしよう。と困っていると、お父さんが静かに言う。


「良ければもう少し寝かせてやってくれないか。⋯⋯あまり甘えることを知らない子だから」
「⋯⋯はい」
「重たくなったらその時は遠慮なく起こしてくれていい」
「ふふ、はい」


 言外に、「一也も君には甘えられるようだから」と言ってもらえた気がして、彼の寝顔へと視線を落とす。嬉しさ。温かさ。少しの切なさ。色々な感情に見舞われた今の顔を、お父さんに見られたくなかった。

 それから一也くんが起きるまで、ぽつりぽつりと会話をしながらゆっくりと時を過ごした。

 無言の時間も、不思議と苦ではなかった。

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