「んぁ⋯⋯俺寝てた?」
「ふふ。おはよう」
「ん⋯⋯」
寝惚け眼の彼は、寝惚けたままわたしの太腿に顔を押し付けた。頭を撫でる。指の隙間を彼の髪の毛が滑る。
「⋯⋯どんくらい寝ちまってた?」
「全然、まだ三十分くらい。合宿で疲労困憊だしもう少し寝る?」
「んや⋯⋯超すっきりした」
腿の上でごろんと寝返った彼と目が合う。邪魔になると思い外していた眼鏡を手渡すと、彼は緩慢な動作で眼鏡をかけた。
それからゆっくり数えて五秒後くらいだろうか。状況を思い出したのか、彼は突然むくっと起き上がり室内を見回す。そして、わたしのお土産をつまみながら新聞を捲っていたお父さんと目が合う。
父と息子。
双方無表情のまま沈黙が流れる。
流れて、流れて、ようやく口火を切ったのはお父さんだった。
「⋯⋯よく寝れたか」
「⋯⋯うん」
この空気に耐えられず、わたしは咄嗟に間に割って入った。
「かっ、一也くん、お水飲む?! お昼寝すると喉乾くよね!」
「⋯⋯飲む」
心無しか項垂れ気味に返事をした彼のつむじを、愛おしい気持ちで見つめる。彼の知らないところで彼の話をたくさん聞いたことは、ずっと大切に内緒にしておこうと思った。
「⋯⋯よし、そんじゃ行くか」
水を飲み、今度こそしゃきっと覚醒した一也くんが身支度を整え言う。
「ほんとにいいの?」
「また明日には戻ってくるし。な? 親父」
「ああ」
窓から夕陽が差している。
カーテンをくぐり斑に室内を染めるその色は、外の寒さを感じさせない柔らかさだった。
当初はこのまま帰宅し、明日改めて我が家にお招きしようと思っていた。しかし、「駅まで送ってく」という流れから、姉の「今日はすき焼きにしたから、そのまま御幸くんも連れておいで!」という誘いに、彼が乗ってくれたのだ。
「慌ただしくてごめんなさい。今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました」
「こちらこそ。またいつでも来るといい。一也、迷惑かけるんじゃないぞ」
「わかってるって。つっても鳴がどう出るかにかかってるみてえなとこはあるけど。⋯⋯じゃ、行ってくる」
互いに軽く手を上げ挨拶を交したのち、後腐れなく扉が閉まる。その瞬間、師走の冷たい風が緩く吹き付ける。
──あたたかい、家だった。
「ここが我が家です!」
普段よりも人数の少ない電車を乗り継ぎ、かつて通っていた中学校の前を通ったりしながら、彼と二人、家への道を歩いた。幾度となく通ってきた道なのに、何かが特別になったような不思議な気分だった。
家の鍵を開け、扉を開いた──その瞬間だ。
「何しに来た! 帰れ一也ぁ!」
玄関マットの上で腕組みをしている兄、成宮鳴の怒号が飛んできた。わたしは思わずぱたりと扉を閉める。
「一也くん、今何か見えた⋯⋯?」
「うん」
「なんか只ならなかったよね⋯⋯?」
「鬼みてぇだったな⋯⋯」
見間違えだったらいいなと願いながら、もう一度。今度はゆーっくりと開けてみる。
「お前にこの家の敷居を跨ぐ権利はないね!」
「わあ、やっぱりいた!」
修羅の門番と化した兄が、鬼の形相でやはり行く手を阻んでいる。
堪らず一也くんが吹き出す。
「はっはっはっ、鳴の頭に角見えんだけど。あと変なオーラ出過ぎ、降谷かよ! 何コレ腹痛ぇ」
「あはは、一也くん合宿で全身酷使したあとだからちょっと笑っただけでお腹に響くんでしょ。今日容易にお腹痛くなり過ぎ」
「ちょっと! 俺を無視して楽しげに話すんな! 聞け!」
叫ぶ兄の後ろから、ぞろぞろと家族が顔を出す。いち、に、さん、よん。うん、全員いる。
「あらあら、いらっしゃい御幸くん。お正月に来てくれてありがとう。なんだかうるさくてごめんなさいね」
「鳴、少しは静かにしないか」
母と父に窘められ、「なんで?!」と憤慨する兄を無視し、一也くんはきちっと頭を下げた。
「初めまして、御幸一也です。今日はありがとうございます。名前⋯⋯さんとは、夏からお付き合いしています。よろしくお願いします」
「ふふ、昔からよく知ってるし、よく話にも聞いてるわ」
母は上機嫌に顔を綻ばせた。父も「よく来てくれたな。さ、入って入って。寒かったろう。中でゆっくり話そう」と普段より声の調子が高い。
姉たちは「近くで見るともっとイケメンー!」「鳴よりちょっと大きいね」などと遠慮のない距離感で声を掛けまくり、一也くんを一瞬たじろがせた。両者なかなかの強者である。
皆が歓迎するなか兄だけが、うるさい。とてもうるさい。
「お兄ちゃん〜〜はやくおいでよ、玄関寒いよ」
リビングの入り口で振り返り声をかける。兄は文句を垂れながら、渋々なくせに地団駄を踏む勢いでリビングへと入ってきた。
荷物や上着の整理をして各々ソファに掛けていると、兄がずかずかと近づいてくる。そして、あろうことかわたしと一也くんの間に無理やりお尻を捩じ込んできた。
「わっ、ちょ、お兄ちゃん! せまい!」
「いてて、鳴! わざとだろお前!」
「二人とも近すぎなの! 高校生らしく健全な距離を保って下さいー!」
それを見て姉たちは「なに、コント?」などとけたけた笑っている。いつにも増して賑やかだ。賑やかなのはこの上ないのだけれど、何よりもとにかく、狭い。
「お兄ちゃん⋯⋯なんかお尻⋯⋯っていうか脚おっきくなったね」
「さすが名前! わかる? わかっちゃう? オフの間めちゃくちゃ鍛えてっからね」
「うん、わかる。ね、あとでストレッチ一緒にしようよ。トレーニングの成果見せて。あと稲実の話聞きたい」
「いーよ」
「御幸くん、ミカン食べる? ご飯まであと少しかかるのよ」
「あ、その、お構いなく」
「食べれないものない? 春菊とかネギとか大丈夫?」
「平気っす」
準備をする母と姉から次々と質問が飛んでくる。その合間に、向かいに座る父からも質問が来る。
「御幸くん、名前は迷惑かけてないだろうか。末っ子だし、鳴の野球ばっかりついて回ってた子だから⋯⋯ちょっと抜けてたり、野球が好き過ぎたりするだろ」
「お父さん〜〜どうせなら褒めてよ」
「褒めてるぞ」
「えっこれ褒めてる?!」
父の言葉に、一也くんは僅かに背筋を正した。表情には出ないけれど、やはり彼も緊張している。そして父も緊張している。
「迷惑なんてひとつもありません。いや、ちょっと放っておけないとこはあるけど⋯⋯名前の存在にいつも力もらってます」
父は目尻を下げる。「そうか、良かった」と呟く父の心境は、まだわたしにはわからない。
一方、わたしの隣では「何、皆して一也一也って。俺だって久しぶりに帰ってきたんですけどー」と兄が唇を尖らせていた。拗ねた横顔はいつ見ても、兄がどこまで強くなっても変わらなくて、そんなところに少しだけ、安心した。
くつくつと煮える鍋からほくりと湯気、そして贅沢な香りが立ち昇る。
どうやら今回のお肉は非常に奮発したらしい。毎年お正月はすき焼きなのだけれど、これまでに見たことのないサシの入ったお肉が並んでいる。
控えめに言って超絶美味しそう。
「どんどんお肉取ってねー。ご飯もたくさん炊いたわよ」
「わあ⋯⋯一也くん、食べよ食べよ」
「やべ、美味そー。いただきます」
取り箸を伸ばす。しかし横から何者かの箸が目にも止まらぬ速さでお肉を横取りしていく。
「あー! お兄ちゃん!!!」
何者かっていうか、兄である。
「もう、子供みたいなことしないで!」
「だって癪じゃん! 一也と食卓囲んでるとか改めて考えても意味わかんないし!」
兄がキャンと吠える。
「お前⋯⋯本人前にしてもマジで全然包み隠さねぇな。もう好きにしてくれ」
そんな兄に、一也くんはついに匙を投げた。ちなみに包み隠さない度でいえば、常日頃の一也くんだって負けてはいないのだけれど、それは黙っておいた。
その直後だ。
ピシリ。リビングにいた誰もが、母の背後に落ちる
「⋯⋯鳴、あなた別に夕飯抜きでもいいのよ?」
満面の笑みを貼り付けた母の台詞と起こり得ぬはずの落雷により、兄のすき焼きの乱は静かに鎮圧された。
「ごめんな御幸くん、騒がしいだろう。紅白も聞こえやしない」
「いえ⋯⋯うちは昔から父と二人だったので、新鮮で楽しいです。これが名前の育ってきたとこか⋯⋯なんて思ったりして。まあ正直コイツはちょっとウルサイですけど」
「はは」
彼の視線が兄へと向く。兄はお肉を頬張りながら「あ?」と視線を返した。しかし絵面的には全然怖くない。美味さには流石の兄も敵わないようで、お口もぐもぐしてるし。
「⋯⋯良かったらいつでもおいで。ご飯食べに来るだけでもいいから。ああ、もちろん鳴がいないときにね」
「ははっ、喜んで」
兄と一也くん。
二人の胃袋のおかげで、この日我が家で消費した白米量は過去最高記録を更新したと、後日母が感心していた。