食事を終え、紅白を見ながらしばし団欒中、俺は手洗いへと立った。リビングを出て慣れぬ廊下を進み、慣れぬトイレを使い、慣れぬ廊下を戻る。
そんな折のことだった。
リビングの手前で腕組みをしながら壁に凭れかかる鳴と、がっちり目が合う。これは、どう見ても俺を待ち伏せしてたな。
思えば、名前と付き合ってから鳴としっかり話したことはなかった。いつかこんな日が来るとは思っていた。
なんと言っても、もはや名前の第二の父のようなものである。いや、第二の父って。自分で言っておいてよく分からないけど。
「⋯⋯なあ鳴。お前、彼女とかいねぇの?」
「は?! 喧嘩売ってんの?」
「聞いただけじゃん」
「俺はいないんじゃなくて作んないの! テッペン取るまではね」
「ふーん」
これは、たぶん本当。
世代No.1左腕なのだ、性格はさておき。試合に行けば鳴への黄色い声援は嫌でも聞こえてくる。さぞかしモテることだろう。
彼女でもいれば名前や俺に向くエネルギーが少し分散されるかと思ったが、今の話を聞く限りそれはもう暫く先の話になりそうだ。非常に残念である。
「で、何? 俺に話あって待ってたんだろ」
話を振る。鳴は、苦虫を噛み潰したような表情でやや暫く沈黙を貫いた。言おうか言うまいか逡巡し倒しているようだったが、結局、ぎぎぎ⋯⋯と重たい音を立ててその唇が開かれる。
「⋯⋯俺さ、名前がお前を選んだのは全っっっ然納得できないけど、」
「誰を選んだって納得できねぇんだろ」
「当たり前じゃん! てか話の腰折らないでよ!」
「はいはい、分かったって。そんで?」
「いちいち腹立つ。何だっけ⋯⋯ああそう、納得はできないけど、理解はしてる。つもり。あくまでつもりね。俺が稲実に誘うくらいのプレイヤーであることは認めてるし、俺の知らないヤツよりはなんぼかマシだし。なんぼかだけだけど。⋯⋯名前が一番笑ってられんならもうそれでいい。でも、アイツのこと泣かせたらマジでコロス」
「ん。トーゼン」
ま、何回か泣かせちまったけど。それは不可抗力っつーか。付き合う前だったり、野球のせいだったり。だからそこは大目に見てもらいたい。
絶対に、傷つけたりはしねぇから。
「⋯⋯そんだけ」
そう静かに告げリビングへと戻っていく鳴の背中は、マウンドで見る背中とは随分違って見える
兄妹、か。
同胞のいない自分には分からない。鳴と名前の関係がよくある兄妹のかたちなのかと聞かれれば少し違うということくらいは分かるが、同じ家で何年も共に成長していく関係がどういうものなのか、そこに如何程の絆や信頼が生まれるものなのか。
俺には分からない。
ただ、今日ここで過ごしてみて、この家の姉弟妹は騒がしく時に喧しく、言い合ったりじゃれたりしながら、その根底に揺るぎない一生物の関係を構築しているのだと感じた。
──あったけぇんだよな。ちょっとうるさいけど。
そんなことを思いながら、鳴のあとを追った。
「あ! 戻ってきた! 見て見て一也くん、アルバムあったよ!」
「お、見る」
皆が覗き込んでいるその輪の中に自然と加えさせられる。少し、くすぐったい。と、そんなことを思ったのも束の間。目の当たりにした成宮家の歴史に、俺は笑いが止まらなかった。
「ははははっ、これ名前? か、可愛⋯⋯ははっ」
「そっ、そんなに笑う?」
「ぶっはっは、こっちは鳴? やべー、写真撮って皆に見せてえ」
「お前殴られたいの?」
鳴の言葉を聞き流しながら、名前が俺のアルバムを見ていたときの眼差しを思い出す。
ああ、なるほどな。
これは結構胸にくるものがある。
生まれたてほやほやから、少しずつ成長していく過程。無垢な笑顔。泣き顔。それを見守る大人たちの慈愛に満ちた眼差し。
自分の知らぬ過去の重みが、穏やかに胸に積もっていく。
「⋯⋯お、ここらへんだとかなり今の名前に近いな」
「どれどれ? ああ、ふふ、その一年後には一也くんに出逢ってるからね。⋯⋯あっ、ほら! 一也くんとお兄ちゃんいた!」
名前が指したのは俺と鳴が写る一枚だった。いつの試合だろうか。打席に立つ鳴と、その斜め後ろに構える俺。カメラからの距離もあるし、さらにマスクも被っているから俺の表情はわからない。しかし、離れていても分かるくらいにわくわくと目を輝かせている鳴の表情を見る限り、楽しい試合だったんだろうなと思う。
俺にも、鳴にも。
こんな時が、あったんだな。
「二人が仲良く話すことなんてほとんどなかったから、お兄ちゃんが打席に入るタイミングが一番二人の距離が近かったんだよね。ふふ、まだちっちゃい〜〜可愛い」
「お前こんなの撮って喜んでたの?」
「こんなのって言わないで、わたしの支えなんだから。ちなみにこのアルバムに貼ってある量の三倍くらいの写真がわたしの寮にあります」
「マジで」
なんかもう一周回ってそれも見てみたいわ。
そう零す俺の横で、鳴は無言で写真に視線を落としていた。何を考えているのだろう。柄にもなく感傷に浸っているのだろうか。
鳴から視線を外し、再度写真を見る。
俺も鳴も、誰かのために野球をしているわけではない。それでも、自分の野球が名前の“何か”になれているのなら、そこには宝石のような意味があるように思う。
だから、俺も鳴も。嬉しいのだ。コイツが俺らの野球をみていてくれて、例え何があっても如何なるときでも、決して揺るがぬ想いを注いでくれる。
名前は俺らを支えだと言うが。
それは確かに、俺らの支えでもあるのだ。
「わたしね、いつだってその時々の二人が一番だと思ってきたし、今でもそう思ってるの。すごく誇りなんだ。でも、二人ともどこまでもどこまでも強くなっていくから、わたしもついていきたいなって、必死なんだよ」
「心配しなくても、名前は海外だって軽くついてくだろ」
「ふふ、それはもちろん行くけど。そうじゃなくって、精神的なことっていうか⋯⋯二人のスピードに置いていかれないように、わたしも何かを頑張っていたいなって」
ふと、名前の言葉が途切れる。
浮いた言葉尻が、寂しそうに宙に漂った気がした。
「⋯⋯どこまで行っちゃうのかなあ」
ここに名前以外の誰もいなければ、すぐにでも抱きしめてしまっていた。そんな気持ちを駆り立てる、切ない響きだった。
その欲求を抑え込み、静かに告げる。
「「──どこまでも」」
重なった声は俺のものと鳴のもの。
ひいふうみい、と微妙な沈黙を挟み、弾かれたように鳴が声を荒らげる。
「ちょっとこんな台詞被せてくるとかマジキモいんだけどやめてくんない?!」
「はぁ?! 鳴が勝手に俺と同じこと言ったんだろ!」
「はー?!」
「あははっ、結局二人して仲良しなのやめてくれる?」
思う存分野球ができる。信頼できる仲間がいる。全霊で凌ぎを削る好敵手がいる。
それでも、いつかは散り散りになって離れていく。
俺はあと半年で引退で、あと一年で卒業で、そうして名前はその後も一年高校生なのだ。
だから。
俺は、どこまでも行くぜ。
それでも、──一緒にいてくれよな。
目の前の屈託のない笑顔に向けて、そう願った。